「あ!芥川くんだ!おかえり!」

 洋食屋に足を踏み入れるなり、そんな声が飛んできた。芥川は声の主の方へ顔を向ける。狭い厨房で、小太りの店主と並んで鍋をかき混ぜていた少女が、芥川の姿を見てにこにこと機嫌良さそうな笑みを浮かべていた。追って、その横の店主が「やあいらっしゃい、お兄ちゃん」と声を掛ける。芥川はその二人を睨み――これは元々の目つきが凄く悪いせいであって、彼のその視線に敵意も嫌悪もないのだが――無言のまま、厨房の様子がよく見える、カウンター席へと腰を下ろした。
 そして、云うか云うまいか少し迷う素振りを見せた後、「その、」と話し出す。視線を、少女へ向けた。

「『おかえり』と云うのは何だ。店に顔を出し、店主からの『いらっしゃい』であれば理解できる。または此処に住んでいる人間であれば、『おかえり』という言葉も頷けよう。だが僕が今住処としているのは探偵社の社員寮であって……」
「えー、だってまたみんなの様子見に来てくれたんだよね!此処に帰って来てくれたもん。『おかえり』で合ってるよ! ねえ?」
「ハハハ、そうだねえ。子供たちも喜ぶよ。あの子たちも『お兄ちゃんおかえり!』って云うんじゃないかい?」
「……否。今日の僕の目的は、腹ごしらえのみだ」
「そう云わずに、頼むよ。あの子たち会いたがってると思うよ、最年長のお兄ちゃん」
「最年長の兄ではない」
「私も一緒に行くから~!」
「ほら、最年長のお姉ちゃんもこう云ってるんだから」

 ふたりの暢気な言葉に、芥川はム、と眉根を寄せた。この洋食屋に隣接した長屋には、ある男が引き取った行く当てのない孤児たちが生活している。洋食屋の店主は、その男から養育費を受け取りながら子供たちの面倒を見ていた。そして芥川と、今厨房で鍋をかき混ぜている少女も、行く当てのないところを男に拾われた身であった。男は、芥川にとって仕事上の「先輩」でもある。大勢いる孤児たちのうちの一人、という扱いを受けることを芥川は拒んでいるが、ある一件で不本意ながらも遊んでやって懐かれて以来、すっかり子供たちにとっての「お兄ちゃん」だ。今日だって、まあ、口では否定しつつもなんだかんだ子供たちの顔を見るつもりではあった。それが判っているから、少女も店主も、「そんなに云うなら仕方ないな」と彼が云えるお膳立てをするのだ。

「……判った。腹ごしらえが済んだら、顔を出す」
「悪いねえ、お兄ちゃん」


 名前を呼ばれた少女が、きょとんとした顔で芥川を見る。他人と見つめあうことに微塵の抵抗も抱かない無垢な丸い瞳だった。声を掛けたのは芥川の方であったのに、その真っすぐな視線に堪えられなくなったように、目を逸らした。視線を合わせないまま、ぼそりと云う。「僕は一人では行かぬ。奴らの遊び相手は骨が折れる。云い出した元凶の貴様も道連れだということを忘れるな」と。その言葉に、はきょとんとしていた顔をぱっと花が咲いたような笑顔に変える。

「わかってるよ~!一緒に行くって云ったもんね」
「……ふん」
「あ!そうだ!芥川くん、お腹減ってるんだよね?咖哩食べない?」

 唐突な提案に、芥川は眉を顰めた。いや、唐突な提案だからという理由だけでそんな顔をしたわけではない。「この店で咖哩を食べる」という行為に、思うところがあったからだ。以前、「先輩」に倣って「同じものを」と咖哩を注文した際、酷い目に遭った。隠し味に溶岩でも入れているのではないか、と疑いたくなるくらいの辛さだ。しばらく汗が止まらず、舌の感覚を失った。だが、「辛い」「食べられない」と云うのは癪で、なんとか胃に詰め込んだ。それはもう、無理にでも飲み込んだ。
 なんともいえない表情で返答に迷っている芥川に気づいてか、がけらりと笑って、否定のために片手を振った。

「違う違う。親爺さんの咖哩じゃなくってね、特製カレー!かっこ開発中!かっことじ!だよ!」
「……特製だと?」
「そう!」
「今ちゃん、ウチで咖哩作りの修行中でね」
「親爺さんの味が目標なのに、全然詳しいレシピ教えてくれないんだよ~」
「そりゃあ、企業秘密……っていうのは半分嘘さ。食べてもらいたい相手がいるんだろ?なら、ウチのをただそっくりそのまま真似するだけじゃ味気ないじゃない」

 ぴくりと芥川の眉が僅かに動く。頭にぼんやりと浮かんだある男の顔を、の言葉が鮮明にさせた。

「でもその相手が一番好きな咖哩の味が親爺さんの咖哩なんだから、真似っこしたくてもしょうがないよ」
「あはは!そう云わずにさ、それを越えて一番になるくらいのちゃんの咖哩を作るのを目標にしてごらんよ。きっと喜ぶと思うよお」

 カウンター越しにそんな会話を聞いて、芥川は視線をテーブルに落とした。いつの間にか置かれていたコップの中の水を睨み、一言、「食う」と告げた。二人の楽しげな会話に文字通り水を差すような、割って入った一言だ。声も、いつものぼそりとしたものではなく、心なしか大きめになった。しん、と暫く沈黙した後、ぱっと嬉しそうにが飛び跳ねた。

「本当!?やったあ!ちょっと待ってね、すぐできるから!」
「……」

 芥川は返事をせずに黙り込み、厨房で心底嬉しそうな顔で鍋を覗くから視線を外した。が、「彼」によく懐いていることは芥川も知っている。自分だって行く当てのないところを救われた身なのだから、感謝はしている。その強さを師と仰ぎ、尊敬もしている。だが、自分とで、「彼」に向ける感情が同じであるとは思わなかった。「彼」の話をするときのの笑顔を見ていると、時折、何に向けたものとも判らない黒い感情が自分の中で蠢く感覚があった。感情、なのか。そんなものは知らない、不要だ、と目を背け続けている。今も、そうだった。

 やがて自分の前に置かれた皿を見つめ、芥川は意を決して一口、それを銀匙ですくって食べた。直後、怪訝な表情を浮かべる。がその反応に、少し心配そうな顔をした。けれど芥川は何も、料理の出来に文句をつけようとその表情を浮かべたわけではなかった。ただ、身構えていた芥川にとって、拍子抜けするものだった。

「……辛くないが」
「ないが?おいしくない?」
「否、そうではない。辛くない、と云っている」
「えっ!辛い方が好き?」
「あの人の舌の異常さを忘れたのか。この店以外の咖哩を食べるとき、必ず辛さに異を唱える人間だ。常人には耐えられぬ辛さの咖哩を出さねば、あの人を満足させられる筈がないだろう」
「えっ?芥川くんは?」
「僕は……この程度の辛さで構わぬ。丁度いいくらいだ。だが、今問題にすべきは僕の好みではなく」
「だって今は、芥川くんに食べてもらいたいものを作ったんだよ?芥川くんに美味しいって思ってほしいよ」

 芥川が、驚いて顔を上げる。きょとんとしたの顔を、呆然と見つめた。首を傾げてその視線を受け止めていたは、やがてにっこり笑って、腰に手をあて歌うように芥川に云った。否、独り言のようにも思えたが、芥川は耳に入れていた。

「そうだな~……いっぱい辛くするんだったらやっぱりここに唐辛子をバーッといれて、あとこの間外国の香辛料を調べたんだけどすっごく真っ黄色の、」
「何故だ?あの人に食べさせる料理の試食をさせたいのではなかったのか?」
「え~!ううん、これだ!っていうのが完成したら一番に本人に食べてもらいたいなーって思ってるし……」
「……では何故、あんなに嬉しそうにしていた?」

 芥川の質問に、は目をまたたかせて、「そんなに嬉しそうな顔してた?」と頬を両手で押さえた。けれどやがて、頬に手をあてたまま、締まりのない顔でへらりと笑う。

「だって嬉しいよ!お腹すかせた芥川くんにご飯作ってあげられるの。誰かに食べてもらいたくて作るご飯って、作るの楽しい!」

 うぐ、と芥川が声もなく呻いた。言葉に詰まるような台詞を吐いたつもりは本人には無いのだろう。芥川にも、の言葉がどうして自分の胸を詰まらせるのか、意味が判らなかった。ただその言葉の純粋さが眩しく、自分の勘違いが恨めしく、何を返していいのか見当もつかないことが歯痒かった。誤魔化すように、の作った咖哩をもう一口、二口、と口へ運ぶ。そしてコップに手を伸ばし、一定の水を喉に流し込み終えると、を睨んだ。矢張り悪意も敵意もないことが、には判っている。

「では、あの人には未だ特製の咖哩を振る舞っていないということだな」
「うん?」
「僕の方が先に食べたということだな」
「うん?うん!」
「……そうか」

 ならいい、と口にしかけた。何が「いい」のか、このよくわからない幸福感は何なのか、上手く言葉には出来ない。元から無口な人間として通っているのだし、言葉として答えを見つける気もなかった。ただ、満足気に頷く。
 その直後、洋食屋にもう一人、来客があった。背が高いその男に、誰よりも早く気づいてが弾んだ声を上げる。

「織田さん!」
。来てたのか」
「おかえりなさい!」
「ん?……ああ、ただいま」

 間にカウンターがあることを忘れて飛びつくのではないかという勢いで前のめりになるに、店主が苦笑し、芥川はそれまでと表情を変えた。なんというか、納得のいってなさそうな、機嫌が傾いたことが明らかな表情だった。織田、と呼ばれた男はそのまま芥川の隣の席へ腰を下ろす。先客の顔を軽く覗き込み、不思議そうにしていた。

「お前も来てたのか。芥川」
「…………」
「如何した?」
「…………何も」
「そうか」

 よく判らないが何もないならまあいいか、という判断の元、織田は芥川にはそれ以上何も言わず、視線をカウンターの向こう側に移した。そして、ふと気づいたように鼻をひくつかせる。

「いい匂いがする」
「貴方の分は無い」

 織田の呟きに、いっそ食い気味にぴしゃりと芥川が告げた。織田が特に表情は変えないまま、視線を再度芥川へ向けた。芥川は頑なに織田の方へ顔を向けず、目も合わせない。カウンターの向こうで、も、店主も、ぽかんとしていた。織田の視線が、芥川の食べている皿に向かった。それを察して、芥川が少し皿を自分の方へ引き、織田に皿の中身が見えないように体を捻った。

「何を注文したんだ?芥川」
「教えぬ。貴方の分は無い。貴方に此れは食えないのだから諦めよ」
「何故俺は食えないんだ?」
「いつもの咖哩を注文すると善い。此れは僕にしか注文できぬ故。そうだな?

 そう話を振られて、が目をまたたいた。芥川の視線がそちらに向けられる。追って、織田もの顔を見た。二人の視線を受けながら、さらに二・三度まばたきを繰り返し、やがてくしゃりと笑い、大きく頷く。


「うん!織田さんは食べちゃ駄目!」


//無題より