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Q:誰にチョコ渡す?→A:敦くん 「二月十四日!仕事終わりに!少しだけ時間を貰えませんか!」と、尋ねて来たさんの様子がいつもと違うということに、気付かないほど鈍くはなかった。だけどその真っ赤になった顔色から、用件を察することができるほど鋭くもなかった。僕はまばたきを何度か繰り返して、きょとんと数秒その顔を見る。彼女は耳まで真っ赤にして、目が合うと慌てて俯いて顔を隠す。わざわざ事前に約束を取り付けるほどなのだから、何か大事な用なのかもしれない。その真っ赤な顔色に只ならぬものを感じて、「どうかしたんですか…?何かあったんですか?」と心配する声音で訊いてみると、全力で首を横に振られた。「少しでいいんです、すこしで!」と強く云い切られて、「あ、はい、全然、それは、いいんですけど…」と答えたら、俯いていた顔を上げて、僕にほっとしたような笑顔を見せる。後ろめたいことは無いのに心臓がどきりと鳴って、なんだか僕まで俯いてしまいたくなった。 その日は探偵社の社内が甘い匂いで満たされていた。くらくらしてしまいそうなくらい、そこら中からチョコ、チョコ、チョコレイトの香り。僕の手元も例外なく、事務員の皆さんから頂いたチョコレイトが沢山だ。「今日はチョコレイトを沢山貰える日だよ」とは、乱歩さんの言葉。成る程、小さな村で生活していた賢治くんや、外界から閉ざされたあの孤児院で生活していた僕には、馴染みのない行事だ。嬉しいなあ、と素直に思う。過去の僕には、飴玉一つ口にするのだって、身に余る贅沢だった。「日頃の感謝を」という言葉と、あたたかい笑顔を添えて、チョコレイトを渡してくれた人たち。その顔を一つ一つ思い返して、自然と口元が緩んだ。 「敦くん、嬉しそうだねェ。にこにこしてるよ」 「…へっ!?あ、す、すみません、つい!」 谷崎さんにくすくすと笑われて、僕は慌てて背筋を伸ばした。きっとだらしない顔をしていたに違いない。恥ずかしくなって誤魔化すように目を泳がせた。そんな様子すら谷崎さんは微笑ましそうに見てくるので、なんだか、穴があったら入りたい気分だ。浮かれすぎたかな。 「あ。貰ったチョコレイト、持って帰れる?敦くんの鞄、小さかったよね。何か袋を貰って来ようか」 僕の机の上に乗っかっているいくつかの箱を見て、谷崎さんがそう尋ねて来る。いつも必要最低限の荷物しか持ち歩かない僕の出勤用の鞄は小さい。今朝の出勤時は身軽だったものの、退勤時には予想外に荷物が増えた。とても嬉しい「予想外」だけれど。その場で皆で頂いた物もあるけど、其れ以外は家に持ち帰って食べることにした。谷崎さんの指摘通り、何か持ち運ぶ為の容れ物が必要だ。そう思っていたら、谷崎さんとの会話を聞いていたのか、彼の後ろからひょこっと顔を出したナオミさんが、「それでしたら!」と話に入ってくれた。 「こちらを使ってくださいな、敦さん。購い出しの時に使ったものですけど、善かったら」 「わ、ありがとうございます!助かります!」 「うふふ。敦さん、沢山貰いましたものね。矢っ張り、殿方としては貰った数で一喜一憂するものでしょう?ねえ、兄様」 「あはは…いや、だからボクはナオミ以外のチョコレイトはお断りしたってば」 苦笑する谷崎さんの腕に抱きついて、にこにこ微笑みながらその顔を見上げるナオミさん。御機嫌だ。確かに今日谷崎さんが誰かからチョコレイトを受け取るところを見ていない。僕や賢治くんが目を輝かせてチョコレイトを貰っている様子を、よかったねえと他人事みたいに見守っていただけだ。両手一杯のチョコレイトを抱えて御機嫌に帰った他の社員とは違って、谷崎さんの両手は軽い。いや、片方の腕にナオミさんがぎゅうっと抱きついているけれど。身軽だ。 「…あのぅ…どうして谷崎さんは、ナオミさん以外の人からのチョコレイトをお断りしたんですか?」 「……え?」 「チョコレイトが苦手とか?」 「…いやあ…ウーン…」 「すみません、僕いまいちこの行事の仕組みが判っていなくて…ええと、谷崎さんには受け取っていいチョコレイトと受け取ってはいけないチョコレイトが有るんですよね…?」 首を傾げて尋ねる僕に、谷崎さんは苦笑いをもっと苦いものに変えて、うぅん、と唸った。僕の言葉を、谷崎さんの腕に抱きつきながらきょとんとした顔で聞いていたナオミさんが、ふっと笑って、谷崎さんを見た。僕の質問の答えを、谷崎さんの口から告げられるのを待っている。なんとなく、その答えがナオミさんにとって嬉しいもので、云わせたいんだろうな、云ってほしいんだろうな、と伝わってきた。けれど、僕にはさっぱり答えの予想がつかなかった。 「えーと…ナオミからの視線が熱くてすごく答え難いンだけど…」 「あら、兄様ったら。ナオミも知りたいわ。どうして兄様は私以外の女性からのチョコレイトを貰わなかったのかしら」 「それはナオミがっ…、…、…そ、そうだねェ、敦くん、一言で云うのは難しいンだけどね…」 「は、はい…」 「他の人から貰うチョコレイトとは違うチョコレイトが有るンだ」 「はい…?」 「たった一つね。ボクにとってその一つは…」 谷崎さんが、自分の腕に抱きついているその人に視線を送った。目が合って、その女性が微笑む。たったそれだけのやり取り。いつもみたいにナオミさんが、ちょっと過激な言動を見せたわけではない。だと云うのに、そんな二人のやり取りを見ると、どきっとした。いけないものを見てしまった、ような。邪魔してはいけないところに足を踏み入れてしまった、ような。なんだか落ち着かなくて、僕は少し、二人から視線を外す。 「…その一つが有ればボクは十分だから。他の人からの物を断るのは心苦しいけど…」 「あら?あらあら?本当は貰いたかったけれど仕方なく、かしら?」 「えっ違う違う!そうじゃないから!ええと、つまりそういうわけだから、ね?敦くん」 「…わ、判ったような判らないような…?」 「あ、あはは…御免、ボクの説明が悪いかもしれない…でも、その内判るよ。敦くんも」 谷崎さんはそう締め括ったけれど、最後の一言に僕は目をぱちくりさせた。その内、判るだろうか?僕にも。いつか僕にも、受け取っていいチョコレイトと、受け取ってはいけないチョコレイトが出来る…という事だろうか。僕は、ナオミさんから受け取った購い物鞄に入れたチョコレイトを見下ろす。たくさん貰うことが出来るのは今だけなのだろうか…という思いと一緒に、少し、考えた。「他のものとは違う、特別な一つ」は、どんなものを指すのだろう。この中には、入っていないのか。 「じゃあ、敦くん。ボクらはもう帰るけど、敦くんは…」 「あっ!僕も今日はこの後約束があって!人と待ち合わせているんです!」 「えっ」 慌てて帰り支度を纏める僕に、谷崎さんとナオミさんが目をまたたかせた。だけど、こうしちゃいられない。ばたばたと二人を追い越して、扉の前で振り返り、「すみません!お先に失礼します!お疲れ様です!」と告げて急いで探偵社を後にした。振り返った時に見た谷崎さん達の表情が、今日一番にあたたかいものだったような気がした。 「さんっ!すみません、お待たせしました!」 待ち合わせの場所に行くと、その人は既に僕を待っていた。海の見えるこの公園は、二月の夜に訪れるとなると、少し寒い。そんな公園で、柵に手を置き海に浮かぶ船を眺めていたさんに駆け寄りながら、待たせてしまった事を謝る。僕の声にはっとしたその人は、こちらを振り返るなりぶんぶん首を横に振った。 「いやいや全然、本当に全然待ってないよ!大丈夫!」 「そう、ですか…?」 「うん!それよりお仕事お疲れ様!お疲れのところごめんね」 「それこそ全然、気にしないでください。何か僕に用事があったんですよね?」 早速用件を尋ねたら、さんがぎくっとしたように顔を強張らせた。いきなりすぎる、と目で訴えられた気がして、僕の方までぎくっとしてしまった。話の切り出し方、変だったかな?もう少し、何か、世間話とか…天気の話とか!そういうことを話してからじゃないと失礼だっただろうか。いや、でも、寒い中話を延ばすのもさんに悪い気がするし…。ええと、と目を泳がせて、近場のベンチが人でいっぱいで空いてない事に気付いて、「とりあえず座りましょうか」という手も使えないことに焦る。この公園、いつもベンチが空いていない気がする。いつもだけれど今日は特に、どこのベンチもそれぞれ男女二人が占領していた。泳がせていた視線を、今一度、さんに向ける。そわそわと落ち着かない様子の彼女に、ああ本当に何か大事な話があるんだ、と緊張してきた。 「あ、あの…」 「はい…!」 「敦くん、は…」 「はいっ」 「チョコレイト、とか、好きかな…!?」 予想外の言葉に、はい?って間の抜けた声を上げてしまいそうになった。けれど視線の先のさんが、みるみる顔を赤くして視線を下降させていくので、僕は困惑する。今日の約束を取り付けた時と同じように、さんが耳まで真っ赤になって、「勇気を振り絞って」といった様子で、僕に云う。チョコレイトが好きかどうか。どうしてそれが、そんなに緊張しながら訊く事なのか判らなかった。けれど、チョコレイトという単語は聞き慣れたものに思える。何故って、今日の至る所で聞いた単語だからだ。それに気付いて、ピンとくる。思わず手をぽんと叩いた。 「成る程!それで…」 「…ええと…」 「あ、すみません…僕、今日探偵社の方に教えてもらうまで、今日がチョコレイトを貰える日だって云うことを知らなくて…」 「う…うん?うん、確かにチョコを貰う日ではあるんだけど…うん?間違ってはいないのかな…?」 「若しかして、其れで今日こうして呼んでくれたんですか?」 「うん…うん…そうなんだけど…なんか真正面からそう云われるといろいろ…」 僕の言葉に、未だ顔は赤いもののさっきまでの緊張とは違う、微妙な困惑を滲ませてさんが頭を抱えた。きっとさんは季節の行事というものを大切にしているのだろう。無知な自分が少し、恥ずかしい。いや、だからこそ、此処に来る前に探偵社の人たちにそういう行事があるっていうことを教えてもらえて善かった。だけど、正直、さんから貰えるとは、思ってなかった。探偵社の女性の方々から手渡された時とは違う、そわそわと落ち着かない気持ちになる。なんだか、嬉しい。いや、勿論、探偵社の人たちから貰ったのだって嬉しいけれど。日頃の感謝に、とチョコレイトをくれる、っていう、ただそれだけのことなのに、不思議だ。 ええと、じゃあ、あのね、とさんが鞄の中にごそごそと手を入れて、その時ふと、僕の手に持っている荷物を目に留めた。視線に気付いて、あ、と僕も自分の手荷物を見下ろす。何故、と云われると判らないけど、なんだか、あまり、気付かれてはいけないものに気付かれたような、後ろめたい気持ちになる。 「…ええと…、い、いっぱい、貰ったんだね…」 「えっ!?ああその、これは…」 「……」 「…さん…?」 さんが黙りこんで、鞄の中を漁る手を止めた。その様子に、少し、胸がざわつく。顔を真っ赤にして、口をきゅっと結んで、悩むような、堪えるような表情。そんな顔をさせてしまった原因が自分にあるのを察しながらも、上手い言葉が出て来ない。口を開いて、何か云いかけて、閉じる。もどかしさに頭を掻き毟りたくなる衝動を抑えて、ぐっと唇を噛み締めていると、さんが唐突に、弾けたように明るい声を出した。 「ごめんごめん!ちょっとぼーっとしちゃった!ごめんね!?」 「え、い、いえいえ、そんな、謝るような事じゃ…」 「じゃあ改めて!えへへ、敦くんモテモテだから私のチョコなんか埋もれちゃうと思うんだけど!はいっ!」 鞄から取り出した包みを、両手で持ってずいっと僕に差し出す。声だけは底抜けに明るくて、本当に、無理してるみたいに、明るくて。真っ赤な顔を見られまいとするように明後日の方向を向きながら、僕にそれを差し出す手がぷるぷると震えていることに気付く。顔を逸らされてるせいで細かな表情は判らないけど、その様子が「穴があったら…」という位、恥ずかしがっているものなのだと判る。途端に、僕の心臓の音が速くなった。疚しい事はないのに、どきどきと五月蝿い。 「…、…」 「あの、さん、震えて…」 「…」 「さ…寒い?」 「……ううん、むしろあつい…」 「そ、っか…」 「めっ迷惑だったら、要らないって云ってくれていいの!でも、その、迷惑じゃなかったら…受け取ってほしい…」 ぎゅ、と包みを握る彼女の手に力が入る。頭に浮かんだのは、谷崎さんの言葉だった。 「迷惑だなんてとんでもない!勿論、う、嬉しいです…!」 どうしてこんなに心臓が五月蝿いんだろう。社内の皆さんがくれるチョコレイトを受け取った時には、こんなに、苦しいくらい心臓が音を立てることなんて無かった。谷崎さんの言葉が頭の中でぐるぐると巡る。迷惑なわけがない。受け取れないわけがない。僕には谷崎さんと違って、受け取れない理由が無い。さんの「迷惑じゃなかったら」の言葉の意味だって、判らない。どうして迷惑だなんて思うことがあるんだろう。どうして、受け取れない、なんて。それを、受け取ることに、僕が思っている以上に重大な意味があるのだろうか。 息を吸って、吐き出す。吸い込んだ冬の空気は冷たくて、心臓が悲鳴を上げた気がした。いや、悲鳴ならもうさっきからずっと、上げている気がする。彼女があんまりにも顔を真っ赤にして、恥ずかしさで死んでしまうみたいに渡すから、僕にもそれが伝染っただけなのかもしれない。だって、きっとこんなに、どきどきしながら受け取るものじゃ、ない、はず。(――他の人から貰うチョコレイトとは違うチョコレイトが有るンだ。たった一つね) 「…お世話になっている人に…日頃の感謝を、チョコレイトに込めて贈る日…なんですよね」 「……」 「はは…お世話になっているのは僕の方ですから、本当は僕の方こそさんに何か―…」 「それだけじゃないよ、敦くん」 彼女のチョコレイトを受け取る、その、手と手が触れ合った瞬間に、彼女は僕の目を真っ直ぐに見つめて云った。「ヴァレンタインの贈り物の意味は、それだけじゃないんだよ」彼女の指先が冷たい。僕は彼女から目が離せなくなって、声だって出せないくらいに固まった。 「…好き、です…って、伝える為のチョコも、ある、よ」 僕を見つめる目は、逸らすことが敵わないくらい真っ直ぐで吸い込まれそうなのに、声は後の方になればなるほどどんどん震えていた。ぶわっ、と何かがこみ上げてくるような、そんな気持ちになる。もしかしたらそれは、愛しさ、とか、そういう感情なんじゃないかって、思えば思うほど、心臓が痛い。きっと彼女に負けないくらい自分の顔が赤い。夜は寒いはずなのに、体がぽかぽかしてくる。チョコレイトを受け取って、「ありがとう、」って声を絞り出す。今自分の手の中にあるものは、きっとどんなに高級で価値のある物にも勝る、宝物なんだって、判る。こんなに素敵な贈り物、初めてだ。 きっと、これだ。僕の、唯一の、一番の、特別。 「…って!いう、こと、で!!」 「はい?」 「用件はそれでした!呼び出して本当ごめんね!ありがとう!それじゃあ!!」 「え、えっ!?」 「恥ずかしくてむりごめん帰る!」 云うが早いかさんがぱっと僕から距離を取り、頭を下げて、逃げるように駆け出す。駆け出そうと、した。恥ずかしさで泣きそうになっているその表情を一瞬でも目に入れてしまうと、僕の体は勝手に動いていた。ぐい、と腕を引っ張られて、驚いたさんが丸い瞳で僕を振り返る。どうして、と、離して、って云いたげな表情に、「あ、つい」って僕も僕自身の行動に驚くけど、掴んだ腕を離すことがどうしても出来なかった。 「ええと…理由、とかは…自分でも判らないんですけど…」 「……」 「引き留めなきゃ、って…咄嗟に…!」 「…敦くん」 「あのっ…チョコレイト、有難うございます!大切に、食べます!」 「すごく、大切に…食べます…」繰り返す。引き留める言葉を用意していないのに、勢いだけで腕を掴んだのがバレバレだ。恥ずかしくなって、俯く。おんなじように、さんも俯くのが判る。不意に視界の端で人影が動く。話し声が遠ざかっていく。近場のベンチに座っていた男女二人が、帰っていったのだと判った。あ、ベンチ、空いた。そっと顔を上げてさんを見ると、同じように彼女も僕を見上げた。目が合って、二人ともくすぐったいみたいに眉を下げて笑った。 「…寒いかもしれませんが…すみません。もう少し、一緒にいてもいいですか」 「ううん、寒くないよ。へいき」 だって、あついくらいだもん。そう云った彼女は矢っ張り恥ずかしそうだ。それでもそっと、ぎこちなく手を握ってくれた。冷えた指先に熱が戻るように祈りながら、握り返す手に力を込める。もう少し、このまま、二人で。二月十四日を、特別な気持ちに気付かせてくれる今日を、終わらせたくはなかったから。 |