Q:誰にチョコ渡す?→A:中也



 人の、足音が聞こえた気がした。うつらうつらと微睡んだ世界では、その音が、人の気配が、確かかどうか考えるのも億劫だったけれど。睡魔に誘われるがままに意識を手放してしまいたいと思うのに、頭のどこかでそれはいけないと引き留められる。どうして駄目なんだっけな。でもたしかに寝てはいけない気がする。起きていなきゃいけない。起きて、待っていなくてはいけなかったはずだ。何を、だっけ、ええと。考えたいのに、眠い。いや、だめ、眠るな、駄目だってば。千切れそうな意識という糸をぎりぎりで保っていたところ、ベッドが沈んだ。私以外の人間の重さが加算されて、ベッドが小さな悲鳴を上げる。

「何、俺が来る前に寝てンだよ」

 苛立った様な声が降ってくる。同時に、くしゃりと頭を撫でられる。苛立った声とは裏腹に、その手つきが優しく思えて、ああ、彼がやって来たのか、と思った。そうだった、だから私、寝ちゃいけなかったんだ。中也が来るから、起きて、待っていなくちゃって、思ったんだ。…だと、云うのに。予想以上に来るのが遅いから、つい睡魔に負けてしまった。いやしかし何時になるかも判らない来訪を待たされる此方の身にもなってほしい。何寝てんだと怒られる筋合いは、無い、ような気もするけど、来てくれた事が嬉しいので素直に謝る。

「…ごめん…起きてようとは、思ってたんだけど…中也、おかえり…」
「ああ」

 おかえり、って云ったって、ただいま、が返ってきたことは無い。当たり前と云えば当たり前だ。この部屋は中也の帰る家なんかじゃないし、私の存在だってそんなものの代わりにはなりやしない。けど、おかえりって云う度に変な顔されてた頃よりは、彼にも慣れがあるらしい。最近は「ああ」って返事をしてくれる。それだけで少し、報われたような気持ちになった。目を擦って枕元に置いた時計に手を伸ばす。時計の針が示す真夜中だとか深夜だとか云う時間帯に、小さく息を吐いた。

「中也、この時間まで何してたの」
「あ?何ッてなんだよ。仕事だ」
「そう。お疲れ様」
「…」
「でもいっつも変な時間に来るから」
「何を今更」
「そうだけど」
「訊かねえ約束だろ。口塞ぐぞ」

 舌打ちでもするような苦い表情で、中也が云う。ごめん、って小さい声で謝ったけど、小さすぎて少し掠れた。中也の仕事内容を探ることはしない。携帯電話もその他の持ち物も、前回会った時には無かった怪我のことも、血のにおいも、何も探らない、見ないふり、何も知ってはいけない。知ってしまったらどうなるのかを聞かされてはいないけど、恐らくもう中也が会ってくれなくなるのだろうとは思う。自分の身がどうなるのかは、判らない。中也がなんとなく、違う世界に住んでいる人間なのは気付いていた。気付いている、という報告も多分しない方がいいのだろうと思って云わないけど。云ってしまえば、終わる気がする。逆に云わないでおけばお互いが薄々何かを感じていても、見ないふりを続けられるのだから都合がいい。ずるい判断。でもそのずるさにしか救われない。

「中也のこと、私何も知らないね」
「教えねえからな」
「ちょっと悲しい」
「…そうかよ」
「中也って、多分、明日自分が死ぬって判っても私には何も云わないでしょ」
「俺が死のうが手前に報せは来ねえよ」
「うん、しってる」

 だから悲しいって云ってるんじゃないか。なんにも知らないまま、ああ中也最近会ってくれないな、もう会えないのかな、なんてぼんやり思いながら生きる自分を想像すると、恐ろしい。自分の知らないところで、中也がどんなふうに生きているのか、どんなふうに死んでしまうのか、何も私は、判らない。一生判らないままなんだ。それはきっと幸せな事なんだと中也は思うんだろう。それもまた悲しい。なんだか悲しいばっかりだ。

「今日はやけにしつけえじゃねえか」
「今日くらい大目に見てよ」
「あァ?」
「嘘だよ、中也。ねえ、口、塞いでいいよ」

 うるさいでしょう、この唇。このまま行くといよいよ余計な事を口走ってしまいそうだ。そうなる前に塞いでほしい。私の言葉に一瞬面食らったように目を丸くした中也が、はあ、と呆れた溜息を吐く。ぎし、とまたベッドが鳴いた。私の上に覆い被さった中也は、小柄なのに普段よりずっと、“男”に見える。この狭いベッドの上で、お互いの素性なんて関係なしの、男と女っていうだけの関係になれる瞬間。逃げる気なんかまるで無いっていうのに、中也が私の手首を押さえつけながら口付ける。少し離れたかと思えば、もう一度、もう何度も、呼吸を奪うようなキス。優しくないくちづけでよかった。優しくされたら、泣きたくなってた。

「…ちゅ、うや…、矢っ張り、まって、いっかい…」
「待たねえ」
「でも、チョコ…」
「…は?」

 予想外の単語に、いきなりなんだと中也が間の抜けた声を出した。唇が離れたその隙に、息を整えながら、ベッド横のテーブルを目で示した。つられて中也がちらりとそれに視線を向ける。「ああ…」と納得したような声。納得しつつ、少し、意外そうな様子だった。用意してある理由は判っても、そんなものを用意してあるのが、意外で、どこかむず痒い。そういう反応。「……可愛いとこもあんじゃねえか」って、ぼそっと呟いたのは、多分私に聞かせるのではなく、独り言だったんだろう。すぐにはっとして、気を取り直すように視線を動かした。

「…中也に、渡したかったから」
「ああ…後で食うから、今はいいだろ」
「だめ、今がいい…」
「後でな」

 それより此方に集中しろと云わんばかりに、中也がもう一度唇を寄せる。触れる直前に私がふいっと顔を背けたら、はあ?って、驚いたような、困惑したような、そんな声を出された。

「…だめ、後でじゃ絶対、忘れて帰るから」
「んなこたァねえだろ」
「やだ、絶対…判んないから…、今がいい…」
「…」
「中也の時間は、“今”しか、信用できないじゃん…」

 今日私と会う前に何をしてたの、誰といたの、なんて知らない。明日は何をしてるのかも、明日中也が生きているのかも、私は知らない。知る方法を持っていない。そんなふうに改めて思ってしまったら、なんだか全部恐ろしくって、たまらなかった。たかがチョコレートなんて、そんなに大袈裟で特別な想いで用意してあったわけじゃない。それでも、何故だか、今、渡さなくっちゃいけない気がした。私は中也に会ってるその時間でしか彼の事を感じられないのだと思ったら、全部、今、手を伸ばせるうちに引き留めないといけない気がした。そうしないと、後悔するような気がして恐ろしい。例え後悔する日が必ず来るって判っていても、無駄に足掻いておかないと、その日を迎えた時に堪えられない。
 私の唇が震えるのを、中也は黙って見つめていた。何を云うわけでもなく、見下ろしていた。やがて私の上から体を起こすと、テーブルへ手を伸ばす。その様子を私はぼんやり見上げている。口は悪いし、粗雑そうに見えて、中也の在り方はいつもどこか美しかった。リボンを解く手のその指の先にまで、少し、見惚れる。黙りこんだまま中也は箱の中のチョコレートを睨み、その内の一つを手にとって口へ運んだ。

「…ちゅ、うや…ん、ぅ」

 そのチョコレートが口の中で溶け切らない内に、中也の体がベッドへぐっと沈み込んで、私にやや乱暴なくちづけを落とす。チョコレートの甘い香りが鼻腔をくすぐった。無理矢理に捩じ込まれた舌に、思わず口を開いたら、未だ固体で彼の口の中に残っていたチョコレートが押し込まれた。私の口の中で、中也の舌が念入りにチョコレートを溶かしていく。あまい。甘すぎて、その舌で蹂躙されるのがいっそ気持ち良くて、脳みそまで溶けてしまうんじゃないかとすら思う。

「ふ…っは…ぁ、」
「…今夜は泊まってく」
「え…? い、いの、中也…」
「……まァ、呼び出しが掛からねえ限りはな」
「うわあ…曖昧…」
「うっせ」

 小さな文句を云いながらも、本当は嬉しかった。それを中也もきっと判っていて、仕方ないなと呆れるような目で私を見詰める。優しく髪を撫でられて、目を細めた。中也の心遣いが嬉しいのに、明日、目が覚めた時に本当に隣に中也がいるかなんて判らなくて、疑ってしまう自分が少し寂しい。こんなに嬉しいのに、嬉しくなればなるほど、寂しくなるのが約束されているみたいだ。腕を伸ばして、中也の首の後ろに手を回した。押し付けた唇にはまだ少しチョコレートの味が残っている気がしたけれど、あんなに甘かったはずのそれが、ほんの少し、苦いものに感じる。ただ、あともうすこし、甘いだけの夢を見ていたいのに、きっと私たちにはそれが出来ない。



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