「あなた処女でしょ」

 ソファーの上に転がした人物に跨って、見下ろしながらそう云った。私の下で、私を見上げている彼女の顔は、驚愕と、羞恥と、困惑と、あと何かそれらしい感情でごちゃごちゃになっているようで、写真に収めておきたいくらい面白かった。同じ組織の人間とはいえ、彼女とはあまり接点は無かったし、普段の仕事内容もまるで違う。彼女は女性でありながら首領直轄の遊撃部隊に属していて、銃撃戦などの荒事に駆り出される戦闘員の一人だ。対して私は、銃だの何だの戦う術を必要としない、非力な諜報員。要するに体一つで馬鹿そうな敵組織の男や使えそうな政治家から情報や弱味を一掴み握ってくるだけが仕事の女スパイと云う奴だ。どいつもこいつも女という生き物は非力で馬鹿で何の脅威もないと思い込んでいるものだから、私の仕事は楽なものだ。望み通りの馬鹿な女を装って近付いて、口を滑らせる様に誘導すればいい。大抵の男は少し肌を許してやれば其れ以降簡単に貪り喰いついてくる。自分の腕の中でぐずぐずと女に溺れる男を見るのは気分が良いし、体を重ねる行為自体は嫌いじゃない。気持ちいいことは好きなものだ、人間って。下手な男はあまりすきじゃないけど。そんな私を、彼女は――樋口、という名前の女性は、会う度いつも少し、冷めた目で見ていた。隠し切れない嫌悪感が滲んでいた。そうそう、よく同性からはそういう目で見られる。彼女の様に、自分の手で戦う事を選んでいる人間からは特に。私のやり方を、そんな仕事を楽しんでいる様子を、はしたないだとか嘆かわしいだとか、そういう風に思う人間。
 ああ、そうそう、誤解しないでほしい。私はそういう目で見てくる同性がたまらなく好きだ。決して怒っている訳ではない。そんな理由で今こんな体勢になっている訳じゃない。私の事を汚れた人間だと思い込んでいて、自分はそんなふうに堕ちやしないって思っている、気高く強く、美しい女が大好きだ。当然、今私に押し倒されている彼女のことも、大好きだ。

「…な、何の話ですか」
「何の話かも判らないくらい純情乙女さんだった?」
「い…意味が判らないと云っているんです!なんですか、全く、私は首領からの命令で、貴女を家に送り届けただけです。用が済んだのだから、帰ります。どいてください」
「そうね。さっさと帰ったら善かったわね。せめてもの御礼、と出された飲み物を飲む前にね」
「…え」
「貴女って律儀ね。真面目。そう云う所、好感が持てる。でもマフィア的にはどうなんだろうね。心配だわ」

 私の仕事ぶりを首領は評価してくれて、重宝してくれている。一仕事終えて、その仕事の一環でたっぷり酒を飲まされた私の元に、わざわざ迎えを寄越してくれるくらいに。きっと首領からの命令内容を聞かされた時、彼女は「どうして私がそんなことを」と思っただろう。けれど断れないのだから可哀想。事前に首領に、「お迎えなのだけど、樋口さん、という子がいいな。あの子が来てくれたら嬉しいな」とリクエストしてあった事を、本人が知っているのかは判らないけど。
 不穏な言葉に硬直している彼女に構わず、着こなしたスーツを脱がしに掛かる。はっと我に返った彼女が私の手を掴むけど、簡単に振り解けてしまう。そこでようやく、自身の体の異変に顔をしかめた。

「……何を盛ったんです」
「力入らないの?可哀想」
「巫山戯ないで」
「あら。美人が怖い顔しちゃ駄目…と云いたい所だけど、あれは嘘よね。女って怒った顔も可愛いんだから」
「いい加減に…、…」

 髪を耳に掛けて、ずい、と顔を近付ける。それまできつく睨んでいた彼女の瞳が、間の抜けたものに変わる。え?と口に出すかと思ったけど、声を失くしてしまったみたいに唇は固まっている。そんな可愛い唇をそっと指でなぞった。派手な色の口紅とは無縁そうな唇。女という性別自体を隠すみたいに、その柔らかい体を覆うぴしりとした黒のパンツスーツ。ああ、やっぱりたまらなく可愛い。

「私ね、仕事で男と寝ることって多いのよ」
「……知ってますが、それが何か」
「でも本当はね」

 「女の子の柔らかい体の方が好き」――そうひそひそと囁いたら、彼女の顔がもっとぽかんとして、言葉の意味を全く判っていないみたいに硬直した。やがてたじろぎながらも、「何を馬鹿な事を、」と云い掛けた彼女の唇に、ちゅ、と口づける。やわらかい。いい香り。気分を良くして、小さく笑って、もう一度キスしようとした時、彼女の様子に気付いて私ははた、と動きを止めた。顔色が宜しくない。それはもう、羞恥とか困惑とかを通り越して、雷に打たれたような――うん、言葉通り、ショックを受けたように放心していた。震える指を自身の唇に押し当てて、わなわなと体さえも震わせた。その様子を見下ろして、あらら、と他人事の様に同情する。

「もしかしてキスも初めてだったの?」

 気の毒そうにしたのなんか最初だけで、私は、そんな事実にすら「可愛い」という感情を抱いて、機嫌良く微笑む。本当にうぶで、穢れてなくて、純粋で可愛い。憎らしいくらい可愛い。本当に。もう、愛おしいのか憎らしいのか、区別がつかないくらいに。案外その二つに境界線など無いことを、私は知っている。震える彼女の指に自分の指を絡めて、口元に引き寄せる。綺麗な指にも、ちゅ、と音を立てる。彼女は、よっぽど衝撃が大きかったのか、まだ何も云ってこない。

「残念。初めては想い人としたかった?女の子だもんね」
「……」
「あ。ねえ、あなた、芥川さんのことが好きなんでしょ。この前一緒に居るのを見てすーぐ判った。ねえ、初めては彼としたかった?どんなシチュエーションで、とか考えたりした?でも残念だったね、初めてが私で」

 彼女はまだ、話さない。

「私ね、あなたみたいな、男を知らなそうな女をこうして連れ込んで、抵抗できなくして、好きにするのが趣味なの。だって仕事じゃあ好みでもない男の相手ばっかりなんだもの、たまにはイイ思いしたいじゃない?ああ、安心して。痛いこととか、乱暴は絶対しないんだから。私の趣味じゃない。それどころか気持ちいいことをするの。女じゃ女を満足させられないって自信満々に云う男がいるけどあれは誤解ね。女だから女の気持ちいい場所をよぉく知っているんだから。私にこうされた女の子、みんな最初はやめてって云うけど、それも最初だけなのよ。だから…ね?」

 彼女はずっと、何も云わなかった。呆然としていたその表情が徐々に一つの感情を浮かび上がらせて、唇をきつく結んだ。シャツの釦を一つまた一つと外して、襟元を肌蹴させたその時、どん!と私の体が突き飛ばされる。まさかまだそんな力が残ってるなんて思わなかった。ソファーから転がるように逃げ出した彼女は、思うように動かない体を引き摺るように出口へ向かう。けれどその途中、ぐらりと体がよろめき、床に倒れ込んだ。それでもまだ懸命に体を動かそうとする彼女の元へ、私はゆったりとした足取りで近付く。床に手を付き、必死に上半身だけは起こした彼女を、後ろから包むように抱きすくめる。

「だぁめ。そんなに逃げなくてもいいじゃない」
「…っ、触るな!」
「そんなふらふらな体で何処行くの?車も運転できないし、帰るの危ないったら」

 じたばたと必死だった抵抗が、徐々に大人しくなる。ずる、と力が抜けて、体を自分じゃ支えきれなくなる。そんな彼女を抱きとめる私の腕は努めて優しい。優しいはず。彼女の手が弱々しく動き、暗闇で何かを探すように、床をぺたぺた触った。もう瞼もはっきり開けていられないようだ。探しているのは、携帯電話か何かだろうか。通信手段が無いわけではないだろう。扶けを呼ぼうとしている?その相手は誰だろう。なんて健気で可愛いの。本当、好きになっちゃうな。

「王子様なんか来ないよ」

 たすけになんかこないよ。幼い子どもを諭すように、優しく言い聞かせた。ぴくり、と彼女の指先が動いた。誰も助けてなんかくれないよ。耳元で、ちゅ、とわざと音を立てた。彼女の手に自分の手を重ねる。肌が熱い。

「だって私のところにも来てくれないんだから」

 誰もたすけてなんかくれないよ。王子様なんか来ないよ。王子様なんかいないよ。こんなどうしようもない私を愛してくれるだれかはいない。救ってくれる誰かはいなかった。私にだってまだ綺麗な頃があったのに、もうこんなに汚れて堕ちてしまったから、綺麗だった時のことなんか思い出せない。何を憎んで何を愛していたかも覚えていない。だから今の私は、綺麗な女を、自分のこの手でたくさん(汚したいの)愛したいの。どうせなら悪い魔女を演じてもいいわ。早く私のことを、この子の王子様が、焼き殺しにくればいいのにね。(ほらやっぱり、そんなものはやってこない)



ほくそえむ魔女