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苦手だった。一目見た時から、自分とは何もかもが違いすぎて、相容れないと思った。胸元に目が行く大胆な服装も、濃い色の口紅も、媚びるような甘ったるい声も、男を惑わす為だけに在る様なその出で立ちが、同じ女性として見ていて何とも言えない気持ちになった。そうやって、自分自身の、「女」という体を武器にする人間なんて珍しくないのかもしれない。色仕掛けは立派な戦略、と誰かにくすくす笑いながら教えられたこともあった。その度、私には出来ない…どころか、必要ない、関係のない話だと眉を顰めたものだ。自分はそんなものを武器にはしない。女だからと軽く見られるのは許せない。銃を手に取り、…あの人の、隣に在ってもおかしくないくらいに、胸を張って隣に立てるくらい、強くなくては。そう、だから、苦手だった。この人物が。 「そんなに逃げなくてもいいじゃない」 苦手だ苦手だとは思っていたけれど、苦手を通り越して嫌悪と憎悪、この状況に対しての怒りが湧き上がる。当たり前だ。訳が判らない。どうしてこんな事をされないといけないのか。確かに私も迂闊だったとは思う。親しくもなく素性の知れない相手の家に上がり込んで出された飲み物に何の疑いも無く口を付けて。いや私だって最初は家の前まで送ってさっさと帰るつもりだった。それなのに、やけに声を弾ませて彼女が「御礼がしたい、うちに上がっていってほしい」と云うから。家に上がって、飲み物を運んできた時の表情も、私に他愛のない話を聞かせてくるその表情も、今まで彼女に抱いていた印象ががらりと変わるくらい、幼かったから。親しい友人を家に招き入れた女学生みたいな無邪気さが有った。若しかしたら私は今まで彼女の事を誤解していたのでは?本当はそんなに苦手に思う程の人物ではないのでは?なんて、思った。思っていたのに、今のこの状況は何だ。何を飲み物に盛られたのかは判らないけれど、立ち上がろうとしても体に力が入らないし、恐らく立ち上がったとしても平衡感覚が狂ったような足取りでは出口に辿り着く前にまた捕まえられてしまう。どんなに気丈に振る舞おうと思っても、頭がぼおっとする。思考が纏まらない。けれど焦りだけは募る。しかし全てが遠くに感じる。頭がぐるぐると回る。目を開けているのも億劫なほどにだるい。もう意識を手放してしまいたいくらい。それでも、彼女に対する怒りという感情が、まだ私を目の前の現状に縫い付けてくれていた。それすら薄れ消えてしまったら本当に、もう、終わりだと思った。私は簡単に意識を手放して、この人間に好き勝手されてしまうんだろう。そうならないためにも、一つに絞った怒りと云う感情を必死に自分の中で保ち続けた。自分は騙されたのだ。実は良い人なのかもしれないなんて思ったのに。同じ年頃の同性と話す機会に浮かれているのかなとはしゃぐその笑顔に少し心が揺れた。しかしそれは全部演技だ。私を油断させる為の芝居だ。他人を部屋に連れ込んで薬を盛って抵抗できなくさせて服を脱がせるなんて正気の沙汰ではない。まさか自分が同性にそんな目で見られるとは思っていなかった。冗談だろうと笑えたらどんなに善かったか。けれど先ほど唇に触れた熱を思い出して、嫌な汗が止まらない。乱暴なんてしないだの、よくしてあげるだのと云っていたけれど何も安心が出来ない。馬鹿馬鹿しい。結局彼女は、最初の印象通り、喜んで他人と肌を重ねる色狂いだ。男でも女でも、等と云い出すのだから余計に質が悪い。どうしてそんな人間の性癖に自分が付き合わされなくてはいけないのか。こちらの意志に関係なく、なんて、こんなことが許されるわけがない。 「王子様なんか来ないよ」 耳元でそんな声が聞こえた。気障な言い回しだ。そんなの云われなくても判ってる。王子様なんて、そんなものはいない。ああけれどいつだったか、探偵社の人間を襲った時に油断して頸を絞められ窮地に陥った所、芥川先輩が助けてくれたのは、あれは、先輩の手を煩わせた申し訳無さや自身の不甲斐なさへの悲しみは有ったけれど、少し、心の隅では嬉しくもあったのかもしれない。そんなことが浮かんで、怒り一色だった自分の感情が不純なものになる。そんな隙を付くように、体が床に倒される。まずい、まずいまずいまずい。動け、体、早く、 「だって私のところにも来てくれないんだから」 はっ、と胸を突かれた様な衝撃。重かった瞼が、どうしてか今この瞬間は、簡単に持ち上がる。見開いた目に映った、私を見下ろしてくる女の顔。笑っていた。自身を嘲るような笑い方。そうだ、この顔、私を笑っているわけではなかった。自分の愚かさに耐えられないとでも云うような、表情の歪ませ方。途端、気付く。対象が私じゃないどころか、そもそも、笑ってない、本当は笑ってないじゃないか。こんなのは笑顔じゃない。なんでそんな顔を私に見せるのか。なんでそんなに、悲しくて寂しくて仕方がないみたいな、子供みたいな顔を。何かに縋るような目を。 彼女の気持ちなんて知らない。どんな生き方をして来たのかなんて知らない。どんな気持ちで、自分自身の体を、武器に、売り物にしたのかなんて知らない。どんな気持ちで私にこんな事をするのかだとか、どうしてそんな顔をするのかなんて、知らない。だって、知ってしまえば、私はますますこの女の事が判らなくなる。憎らしく振る舞うのなら、それだけを貫き通してくれなくては、判らなくなる。――と、いうか、勝手だ。勝手過ぎる。同情してしまいそうになる、なんて、おかしい。私は振り回されてるだけじゃないか。何が、王子様が来てくれない、だ。そんなの、そんなものは、当然じゃないか!ひ、ひとの、ファースト・キスを奪っておいて、今更、しおらしい振る舞いをするなんて、自分だってこんなことをしたくてしてる訳じゃあ…みたいな顔をするなんて、勝手すぎる! 自分の中で感情が抑えられなくなる。ぷちりと何かが千切れたような感覚でもあるし、じわじわと込み上がってきたものが溢れでたような感覚でもある。変わらずに、私の中に居座った「怒り」が、私の中で囁いた。「やってしまえ」と。それはもう、我慢ならないという顔で。私は眼前の、情けない顔をした女を睨んだ。 直後、乾いた音が部屋に響く。全ての力を振り絞ってその手のひらを彼女の頬にぶつけた。もう感覚が無くて、どれほどの強さで引っ叩いたのか判らなかった。ぽかんと頬を押さえた彼女も、まさか私にまだそんな元気が有ったとは思っていなかっただろう。本当に不意打ちだった筈だ。 「…っ、貴女にはっ、王子様でなく、思い切り殴って、その目を覚まさせてくれる人間の方が、必要なのでは?」 精一杯の皮肉を込めて、そう云った。強がるように片方の口の端を吊り上げて、鼻で笑うように吐き捨てた。本当、強がりだ。実際にはもう指一本動かすのも怪しいくらい、体が云うことを聞かないのだから、格好つけるくらいしか、出来ることがない。もう、逃げられない、気がしてきた。瞼が重い。閉じるな、閉じるな、と念じても、視界が徐々に狭まる。体の力が完全に抜ける。ぼんやりとした小さな視界の端で、誰かが、泣きそうに笑った気がした。 「…ふふ…っ、その通りね、本当だね。最初から、王子様なんて私には要らなかったんだね」 誰かの指が私の頬を撫でる。囁いた声が遠い。「口づけじゃなく平手で目覚めさせるなんて、酷い人」 茨に愛されたお姫様 がばっと上半身を持ち上げて飛び起きた時、しまった、と愕然とした。寝てしまった。意識を手放してしまった。負けてしまった。自分が寝かされていたのが床でもソファーでも無くベッドの上だという時点で、もう絶望しか無かった。さあっと血の気が引く。見覚えのない部屋の壁。きょろきょろと周囲を見回すが、人影はない。ハッとして自分の服装を見下ろす。とりあえず裸で無いことにほっとした自分に自分で同情した。スーツのジャケットが見当たらないと思っていたら、部屋の一角のハンガーラックにきちんと掛けてあった。微妙に間の抜けた気持ちを味わいながら、ベッドから降りて、その上着に手を伸ばした。ポケットに入っていた物などは綺麗にそのままだし、物色された様子はない。口元に手をあてて、暫く考え込む。意識を失う前のだるさもそんなに感じられないし、体に目立った違和感も無い。シャツの釦も普段の着用時と同じ位置まで留められている。――まさか、全部夢だったのでは? いや、そんなことを云ったら、どこからが夢だという話になる。ベッドで寝かされていたのだから、此の家にやってきて眠らされたのは事実なのだし、そもそも…、ぼんやりとした頭の中でも、唇に触れた柔らかさは何故かはっきりと覚えていた。羞恥か、怒りか、カッと顔が熱くなり、ああもう、と頭を掻き毟る。暴れ回りたい様な全身を掻き毟りたいような落ち着かない気持ちに苦しんだ末、弱々しい溜息が部屋にとける。 「……初めてだったのに…さいあく…」 呟いた直後、寝室のドアがゆっくり開いて、はっとそちらを振り返った。 「あら。起きた?」 「な…」 「結構寝てたのよ。送ってもらったの夜だったけど、ほら。すっかり朝」 「えっ!?」 閉めきっていたカーテンを開いて外を指す。見れば、確かに明るい。夜の闇など微塵も残っていない。慌ててポケットの携帯電話を手に取って時間を確認すると、朝どころか、もう昼に近い。ああっ、しかも芥川先輩からの呼び出しの電話が入っている!最悪だ!再度血の気が引く私に構わず、私を此処に連れ込んだ張本人はのんびりとした様子で笑っている。 「あ、何か昼間に仕事あっても大丈夫。ボスは知ってるから。貴女がうちにいるって。怒られないと思う」 「な、なんで…じゃなくて!そういう問題じゃないっ!私としたことが先輩からの電話を無視してしまうなんて…」 他に確認すべきことや云いたいことは沢山あるというのに、私はもう先輩からの着信履歴に頭がいっぱいになってしまって、あわあわとその履歴から先輩に電話を掛けようとする。すると突然、目の前の人間が私の手から携帯電話を奪い取った。何を、と睨むも、そんなのお構いなしに彼女は他人の携帯電話を勝手に閲覧していた。 「着信って云っても一件じゃない。急用とか大事な用件だったら何回も掛けてるでしょう?」 「うるさいっ!返しなさい!貴女にはたかが一件かもしれませんがあの先輩が大事な用件でもないのに電話してくれるなんてその方がよっぽど一大事…とにかく返しなさい!!」 「もしもし芥川さん?」 「!!!?」 「貴女の部下、昨日の夜から私と遊んでいるから。電話に出られなかったみたいで御免なさい」 「なっ、返しなさい!返せ!」 「ん?そう。ええ、判った。夜の任務の前には帰すわ。それにボスの許可も取ってるもの」 「せん、先輩っ!あのっ先輩!私です樋口ですあのっ」 「ね、元気そうでしょ?この声。じゃあそういう事で。さようなら」 電話が切られると同時に絶望感が襲った。最悪だ。先輩にこんな人間と一夜を共にしたと思われた。がくっとその場にへたり込むと、私を絶望の淵へ追い込んだ人間もひょいとしゃがんで私と視線を合わせた。 「顔色悪ーい。大丈夫?あの薬次の日にあんまり引きずらないから重宝してたんだけど、体に合わなかった?ごめんね?」 「…っ他にもっと謝る事があるでしょう!?」 「あるよ?あるけど、貴女そんな事より芥川さんの電話の件を謝ってほしいの?」 「ち、ちがっ…、……電話の件はもういいっ!違う!それより貴女、昨日…」 昨日。あの後。ベッド。――ああもう、何が遭ったかなんて想像するだけでも恐ろしい。しかし訊かない訳にはいかない。昨日あの後、私に何をしたのか、と。きっ、と睨みつけると、目の前の女は腹立たしいほどににっこりと微笑んで、首を傾げた。 「何もしてないよ」 「そう、何も――…、えっ」 「ベッドに運んで、寝顔見て隣で寝たくらい?大変だったよー、ベッドに運ぶの。非力キャラで売ってるのに、私。貴女が軽くて善かったけど」 「な…何も?」 「何か有った方が善かった?」 微笑んで、私に向かって指を伸ばす。びく、と思わず身構えると、その指は私の頬に触れて、優しく撫でた。この指を知ってる、撫でる手つきを知っている、と思った瞬間に、顔が燃えるようにかあっと熱くなって、私は思い切りその手を振り払った。行き場を失くした手を少しの間空中で遊ばせていた彼女は、めげずにその指を私に向けて、唇にちょんと控えめに触れる。またふつふつと激しい感情が込み上げて、今度も乱暴に指を払いのけた。しつこい。鬱陶しい。――けれど、嘘を云っているようには見えない。(なんて、信用するのもどうかという気持ちもあるけれど)本当に昨晩何も無かったと云うのなら、その理由は、何故、どうして。 「……昨日のあれは、私をからかったのですか」 じっとりと睨みながらそう低く呟くと、彼女は、ふ、と小さく笑った。先ほどのにっこり笑顔とは違う、少し冷たく感じる笑い方だ。 「からかった?そうだとしたら、最初から襲う気なんて無かったんだって事になるよね。本当にそう思う?思ってるんだったら、貴女ちょっとお目出度いよ?」 「……」 「最初から手を出すつもりだったよ。でも気が変わったの」 「…気が変わった?」 「貴女には、手を出せたけど出さなかった。言葉通りよ。気が変わったの。貴女には何もしないでいようって決めて、何もしなかった。あ、疑ってる?本当よ。神に誓って。あれ以降何もしてない。どこも触ってない」 「はあ…」 「貴女が云ったんじゃない」 「…え?」 「“貴女に必要なのは私という存在だ”って」 「……」 「…」 「……………えっ?私が?そんな事を?」 「それを聞いてね、目が覚めたの。こんな馬鹿な事はやめよう、貴女っていう存在に出会えたんだからこんな事をする必要はきっともう無いわ、って」 「は…話が見えないのですが!?」 機嫌よく笑ってつらつらと話しだした相手を余所に、私の頭の中はハテナでいっぱいだった。果たしてそんな、口説き文句の様な台詞を口にしただろうか。頭を抱えて、昨日のやり取りを思い返してみる。確か意識を失う前に…頭にくる態度を取られて…ああそう、王子様なんていない、みたいな事を云われたんだ。助けを待ってるような目で、私に、そんな事を云った。だから腹が立って、貴女に必要なのは助けてくれる優しい王子様じゃなくて、殴ってでもその馬鹿な行いを正してくれる誰かじゃないの、だから貴女に王子様は来ないのよ、みたいな、事を云った。気がする。そして頬を引っ叩いた。はっ、とよく見れば、彼女の片方の頬が少し赤い気がする。よっぽど自分は思い切り叩いたのか、と思わず謝りそうになったけれど、そもそも叩かれる様な事を私にしたのは彼女なのだし、と“謝ったら負け”な気持ちが罪悪感と争い始める。ともかく、私は彼女に皮肉を云ったつもりはあれど、手を差し伸べるような台詞を吐いたつもりはない。勘違いだ、それこそ、お目出度い、都合の良い解釈だ。 「私に必要だったのは、引っ叩いて目を覚まさせてくれる誰か、でしょ?そして貴女は、私の頬を引っ叩いたのよね」 「そ…それは、一例として、というか、“こんなふうに!”と手本を見せた様なもので、べつに私は、“私が必要でしょ”という意味で云った訳では…!」 「判ってる。皮肉を込めて云ったんでしょ?本当に腹立たしくて、私を殴ったんでしょ?」 「そ、そう!」 「でも私は、貴女だと思ったの。きっと今まで、貴女みたいな人に会えるのを待ってたのよ」 「…な、」 「貴女がいいって思ったの。私に必要な人間、貴女だったらいいな、って。貴女がいい。貴女にしよう、って」 「な、なん、」 「つまりね」 混乱しきってぱくぱく口を動かす以外に何も出来ない私に、彼女はにっこりと微笑んで、距離を詰める。気付いた時には、ぎゅうっとその腕に抱きしめられていて、余計に私は混乱した。いや、待ってほしい、本当に意味が判らない。何がどうなってこんな状況に。昨日からいろいろと怒涛の展開すぎて全くついていけない。自分のことなのに全部置いてけぼりだ。呆然としていると、私に抱き着いていた人物がもぞもぞと首を動かした、動かしたかと思うと、耳元に、ふっ、と息を吹きかけてきた。ひゃっ、と情けない声を上げて飛び上がった私から腕を離さず、彼女は耳元で内緒話をするように囁いた。 「私、貴女のこと好きになっちゃったかも」 楽しそうな声で告げられた台詞が、頭の中で反響する。意味を理解するのを拒むように、暫く何も考えられなかった。ぱち、ぱちり、とまばたきを繰り返して、押し付けられた体の柔らかさを見下ろして、それから、それから――…弾かれたようにその体を勢い良く引き剥がして、ずささ、と床に尻餅をついたまま後ずさった。 今、なんて、なにを、 「なあに、その反応。もうちょっと可愛い反応してくれても善くない?」 「なっ、わ、訳の判らない事を…!!他人をおちょくるのもいい加減にしろっ!!」 「余裕が無くなったり強がって凄んだりする時は敬語じゃなくなるのね。面白い」 「うるさいっ!とにかく私にそんな趣味は無い!帰ります!残りの私の荷物は、」 「つれないなー。チュウした仲なのになー」 「〜〜っ! 嫌な事を思い出させるなっ!!」 のんびりとした声でおちょくってくるのにいちいち返事をして噛みつく自分も自分だと判っていても、自身のプライドに掛けてそれらの疑いは全部否定し彼女の事を拒絶しなければいけないという使命感が有った。落ち着け、落ち着くのだ樋口、と自分に云い聞かせて、興奮気味の息を必死に整える。そんな私に、彼女は小さく笑って、その場からすくっと立ち上がった。 「とりあえず、ご飯食べて行ってよ。もうすぐ出来るから」 「…、…は?」 「ご飯。朝ごはん…にしては遅いから、お昼ごはんかな。あ、何か嫌いな食べ物あった?口に合うといいけど」 「い、いえそういう問題じゃなく」 「口に合わなかったら残してもいいよ。でも出来たら食べてほしいなー。二人分のご飯なんて作るの久しぶりで、分量間違えちゃった気がする。作りすぎちゃったかなー」 「…ま、待ちなさい、誰も食べるなんて云ってないでしょう!」 確かに、なんだか向こうの部屋から美味しそうないい匂いがしてきているかもしれないけど、そう云われるとお腹が減ってきた気がするけど、それでも、この人物の家にこれ以上居座るのは危険な気がするし、ご馳走になるなんて絶対、よくない、やめたほうが善い。今すぐ帰らなくては。そう思って強く拒絶を示したら、目の前の人物が少しだけ、しゅんとした様な表情を見せた。その表情の変化に、うっ、と良心が痛む。――否、惑わされては駄目だ。どうせ此れも演技!騙されて絆されてしまえば、取り返しの付かない事になるに決まっている!首を振って罪悪感を振り払い、キッ、と彼女を睨みつける。 「そもそも、昨日の今日です。貴女の言葉を信頼できる筈がありません!真面目に、律儀に、出された物に口を付けて、また薬でも盛られたら堪りませんから!」 「ああ、そんな事?大丈夫、心配なら私ちゃんと目の前で毒味してあげるし」 嫌味たっぷりに云ったつもりだったのに、自分の料理がそんな風に疑われても、彼女は嫌な顔一つせずに、にっこり笑っていた。流されてはいけない、絆されてはいけない、と警戒を解かずに睨んでも、そんなのお構いなしに、未だ床にへたり込んだままだった私へ向かって手を差し出す。その手を取ろうか迷って、結局手を引っ込めたのに、矢っ張りお構いなしに、無理やり掴んで引っ張りあげられた。 「万が一毒が入っていたとしても、私は平手じゃなくちゃんと口付けで目覚めさせてあげる」 「……お断りです」 「ええ?残念。まぁ、当然か。私、貴女の王子様じゃないもんね」 「ええ、当然です」 「そうそう。…それどころか、悪い魔女の方だったよね」 呟いた声に、愉しげなものとは真逆の、別の感情がちらつく。また、妙に胸がちくりとするけれど、どうして私がこの女に胸を痛めないといけないのか、と無理やり“腹立たしさ”を思い出して、つんとそっぽを向く。もしかしたらこの人間は、私が思っているよりも、愚かで、子供で、可哀想な人なのではないか、と…そんな風に思ってしまう。でもそれすら、彼女がそう私に思ってもらえるように誘導した結果なのでは、と疑ってしまう気持ちもある。判らない。矢っ張り、下手に関わって、深入りしてはいけない相手の様な気がした。だから私は、なんて引き留められようと突っ撥ねて、二度とこんな所に来るものか、とずかずか歩いて出口に向かうべきだ。 「…し…仕方無いですね。食べ物を無駄にするのは善くないと芥川先輩も仰っていましたし、まあ、作ってしまった物は、仕方無い。食べてあげてもいいですけど」 顔も見ずに告げた言葉に、自分自身で驚愕した。どうしてそんなことを口走ったのか、自分でも判らない。なんだかわざとらしい感じがして、微妙に恥ずかしい。すぐに反応が返ってこないから、さらに恥ずかしい。何か返事をしたらどうだ、とちらり、そちらを盗み見たら、きょとんとした顔で私を見つめている彼女と目が合ってしまった。ぎく、と胸が嫌な音を立てる。しかし目を逸らすに逸らせない。 「……な、なんです、その、何か云ったらどうですか」 「…貴女って本当、単純で真面目過ぎて…心配…」 「なっ!?ば、ばかにしてっ!!」 「してないしてない。嬉しいなって云ったの。さ、早くこっちの部屋に来て。テーブルに付いて」 笑って、私の手を引っ張って寝室から連れ出す。なんだかいろいろと誤魔化されている気がする。絶対馬鹿にされてる気がする。判っているならこんな手、振り払ってしまえばいいのに、それが出来ない。促されるままにテーブルまで移動して、座って、機嫌良さそうにキッチンへ向かう後ろ姿を見送った。その背中に、なんだか、何か云わなくてはいけない気がして、咄嗟に「あの、何か手伝いましょうか」と尋ねる。きょとんとした顔が振り返って、くすくす肩を揺らして笑った。 「って呼んで」 「え…」 「そういえば名前呼んで貰ってないな、と思って。苗字より名前の方が好きだから」 「…は、はあ…」 「貴女は?なんて呼ばれたい?」 「……いえ、特には…樋口で構いません」 「え?なんで?もっと親しげな呼び名がいいじゃない?もう知らない仲でも無いんだしファースト・キスの相手なのに」 「樋口です!!」 顔が赤くなるくらい声を張り上げると、そんな私の様子に彼女がさらに笑った。「いいから、座って待ってて」とやんわり私の手伝いを断ると、鼻歌混じりに食器棚から皿を用意し始める。矢っ張り、からかっているし、おちょくっているし、信用ならないし、厄介な相手だ。けれど昨日のやり取りが嘘のようにこんな平和な光景が目の前で繰り広げられていると、変な気分だった。自分は本当に、親しい友人の家で料理を振る舞われているかのような、錯覚が……、いや、全然、そんな親しい相手では無いのだけれど。彼女が私にしようとした事を思えば、気を許すべき相手では無いのだけれど。そういえば自分は組織内に、“友人”なんて呼べる存在は居なかったな、とふと思った。部下は私に敬意を払ってなどいないし、上司も私に期待などしていないし、都合よく使われるし。ぼんやりと、思った。若しも、この状況が“本当”だったら。彼女が私の友人であったなら。…なんて、馬鹿馬鹿しい想像をしてしまった。私達の間にはそんな出会いも信頼も、無い。 「…ん…美味しい」 「あら。本当?」 「(はっ)い、今のは、つい…、じゃなくて!ま、まあまあ美味しいかなと思っただけです!」 「じゃあ胃袋は掴めたわ。次はどこを狙おうかなー」 「なっ、さ、最初から矢っ張りそんな不純な目的で…!?云っておきますが地球が引っくり返っても私が貴女に心を許すことだけは絶対に無いですから!!」 「」 「私がを好きになることはありませんから!!」 「あ、本当に呼ぶのね」 「えっ!?あ…〜〜っ!!」 「まあ、ゆっくり仲良くなりましょ」 「ならないって云ってるでしょ!?」 こうしてやけに気に入られたせいで、彼女はそれ以降しょっちゅう私の前に現れては、余計な言動で私の心を引っ掻き回すようになる。それがどれだけ面倒で、厄介かということを、此の時の私はまだ知る由もない。この時の私は、ただ、ほんの少し、まあ、違う形で出会っていたなら、友人くらいにはなってやってもよかったかもしれないな、なんて、思うだけに留めていた。本当の彼女はどんな人間なのか、なんて、考えない様にした。何故って、知ってしまえば私は余計に、彼女を拒絶出来なくなってしまう気がしたから。そんなのは面倒で、厄介で、きっと私の役割ではない。だって私は、彼女の王子様になんかならないから。 |