酒場の前で、少女が突っ立っていた。時刻はもう日付が変わる少し前という位の深夜で、元々人気の無い場所だが、今は余計に、静まり返っていた。闇は深く、よく冷える夜だ。少女はべつに通せんぼしている訳ではなく、寧ろ、その酒場の看板を務めているように、客を迎え入れるように、ドアのすぐ傍に立っていた。かれこれ店が開く頃合いからずっとそうしていた。彼女の横を、もう何人もの客が通り過ぎ、ドアの向こうへ消えていった。その際、誰もがほんの一瞬少女に視線をやるが、ただの置き物と思われているかの様に、それ以上気に留めない。
 物音がして、少女はそちらに視線を移す。見慣れた、とも云えるような、懐かしい、とも云えるような、そんな老バーテンダーの顔が在った。
 お客さん、と声を掛けられて、少女はぱちぱちと瞬きをした。置き物の様にぴくりとも動かなかったその女の子は、他人に声を掛けられてようやくゼンマイが回ったように、人間らしい表情を浮かべる。笑った。「こんばんは!」と挨拶すらした。あの頃と変わらないな、とバーテンダーも少女もお互いに感想を心の中で云い合った。

「中へ入られては?」

 その言葉に、再度少女は目をまたたかせた。けれど迷う様子は無く、直ぐに笑ってこう返した。

「一人じゃ入っちゃだめなんだよ」

 貴方がそう云ったじゃないか、とは云わなかった。少女もそうは思っていなかったのだろう。直ぐにバーテンダーは言葉を返す。「もう、善いんですよ」と。あの約束は時効なのだと、そう云った。今の貴女なら、一人でも店に入ってくれて良い、と。けれど少女は首を横に振った。

「ううん。まだ来てないから。三人の内、誰も。誰かと一緒じゃないと、入れないんだ」

 バーテンダーはなんにも云わず、しばらく少女の顔を見ていた。沈黙が夜の闇に溶ける。そうして、たっぷり時間を掛けてから、バーテンダーは少女に頭を下げ、店内へ戻って行った。少女はそれを見送って、もう一度店の門番の仕事に戻った。酒場の前の通りに広がる闇を、眺めていた。


 暫くした頃、夜の闇からすっと人影が現れる。それは、道の向こうからやって来たと云うよりは、本当に暗闇から生まれたようで、今にまた闇へ溶けるのではないかと云う程の、黒い人影だった。少女はその影に目を凝らして、数度まばたきをして、次の瞬間、スイッチを入れたように、ぱっと飛び跳ねた。

「芥川くん!」


 お互いの名前を呼び合うものの、その温度差と云ったら。低く冷たい声で彼女の名前を呼んだ芥川は、不機嫌そうに眉を寄せた。理解できないものを見る目だ。そのままの表情で問うた。「此処で何をしている」と。は反対に機嫌良さそうに笑っていた。当然の事の様に、用意していた答えを口にする。

「人を待ってるんだよ」
「貴様の待ち人など現れぬ」

 慈悲もなくそう云い切った芥川に、は唇を尖らせる。動揺の色は無い。ただ不満そうに、む、と唇の形を曲がらせた。待ち人は来ない。いくら待てども、三人の内、誰も。彼の言葉に、最初から判っていたから狼狽えないのか、それとも、言葉にされても未だ何にも頭が理解しないから狼狽えないのか、判断しかねる。芥川は言葉を続けた。

「一人は、間諜だった」

 淡々とした声だった。その間諜とは芥川もあまり面識が無かったのだろう。ただ事実を述べただけ、といった声。は脳裏に、一人の青年を思い浮かべた。芥川の云っている事は正しい。組織の様々な情報を握っていた優秀な情報員である一人の男は、実は間諜としてマフィアに侵入していた裏切り者だった。それが暴かれた時から、もう彼には当然ながらマフィア側に居場所など無い。其れどころか寧ろ消されずに元の組織へ引き渡された事が奇跡だ。まあ、其れも、裏で一つの交渉が行われたからこそ、成り立った奇跡だが。そんな、組織の頭同士の薄暗い取引の内容など、には判らない。ただ、もう会ってはいけない、会うことは無い相手だと云うのは、いくらでも判っている筈だ。

「更に一人は…、……組織を抜けた」

 此れには、先程の「一人目」の時とは違い、淡々と、とはいかなかった。たっぷりの沈黙を置いて、「組織を抜けた」と声に出して、その自分の言葉にすら心が荒んで仕方が無いように、芥川は視線を落とした。ぎり、と歯を軋ませて、拳を握る。組織を抜けた人物――その人物の存在こそが、芥川にとっての、歓喜の全てで、憎悪の全てで、生きる事においての全てだったとも云えるのに。もうその人は此処には居ない。の前にも芥川の前にも現れない。に其れを突き付けるようでいて、芥川自身にも突き付けられる。は芥川を見つめた。何にも考えず、ただ、彼の悲痛な様子を眺めていた。
 やがて無理矢理頭上の暗雲を払うように、芥川は顔を上げた。そうして、仄暗い瞳で、を見据えた。睨んでいるのだとしても、にとってはあまり睨まれているようには感じなかった。


「そして残りの一人は」


 言葉を区切る。は動じない。芥川も目を逸らさなかった。


「死んだのだ。もう二度と、貴様の前には現れない」


 はぴくりとも動かなかった。頭が狂ったように笑うわけでも、五月蝿いと耳を塞ぐわけでも、泣き喚くわけでもない。芥川のその一言が、冷たい夜風に溶け切った頃にようやく、の首が僅かに動いた。

「うん」

 たったそれだけ。一つだけ相槌を打つと、は笑った。困ったように、かもしれないし、誤魔化すように、かもしれないし、全く意味なんて無いのかもしれない。ただ、笑ったような目元を見せて、芥川の言葉に頷く。それ以上は何も無い。芥川は、なんだかあまり納得のしていない様な表情でを見て、小さく舌打ちをしてから、踵を返した。

「…仕事がある。戻るぞ、
「はーい」
「此処にはもう来るな」
「迎えに来てくれてありがとう、芥川くん」

 居なくても良い時には傍で五月蝿くしているくせに、用が有る時は姿を見せない。姿が無いと思えば、大抵、この場所にいる。連れ戻しに来るのも面倒で、そもそも此処で見付ける度、何故か腹が立つ。もう誰も此処には来ないと云っているのに、何故判らないのか。判ろうとしないのか。いつもいつも、ぽつりと此処で突っ立っている姿を見る度、頭を掻き毟りたくなる程、腹が立つ。芥川はそう思いながら、今一度振り返り、不機嫌そうに眉を寄せた。どうして、此処には来るなと云った返事が「迎えに来てくれて有難う」になるのか。話が通じない。

「芥川くん、お酒飲む人?飲まなそうだね、体に悪いかもしれないし」
「……」
「ねえねえ芥川くん」
「…」
「…ねえねえ!無視はやめて!殴っても蹴ってもいいから!無視はやめて!」

「なあに!」
「黙れ」

 ぴしゃりと云われて、は口を両手で覆った。口を閉じれば良いだけの話で、何もそこまで物理的に塞がなくても良かったのだが、そんなことをは考えない。芥川はが黙ったのを確認すると、また前に向き直り、歩き出した。口を押さえたまま、軽そうな足音が追いかけてくる。隣までやって来ると、は芥川の顔を窺いながら、そうっと口元から手を離した。芥川はそれに気付きながら、まだ押さえていろ、誰が離して良いと云った、とは云わないので、は安心して、声を発した。


「ねえ芥川くん、あのね、待ってたんだよ。会いたかっただけなんだ。待っていたかっただけなんだよ」


 誰も来なくても、待っていたいんだ。その言葉の意味だとか、誰に向けられたものだとか、そんなことを考えるのは面倒になって、芥川は黙った。もう、「黙れ」と云うのも面倒になって、芥川は黙っていた。二人分の足音が、酒場から遠ざかっていく。二人の姿が、夜の闇に溶けていく。時刻はもう、零時をとっくに過ぎていた。