おかえり


「あ!安吾さん!おかえりなさい!」

 酒場の階段を下りてくる足音に振り返った少女が、ぱっと花が咲いたように笑って一人の男を出迎えた。人と人との関わりの全てから隠れる様にひっそりと地下に存在するその静かな酒場には不釣り合いな、人懐っこい笑顔だった。そんな笑顔の出迎えに、安吾と呼ばれた青年は少し呆れたように肩を竦めるけれど、その表情は比較的優しいものだ。いつもそうだ。この場所にやって来るまでに肩に乗せていた、軽いとはいえない荷物が、少女の笑顔を見ることによってストンと床に落ちたような気持ちになる。脱力する。悪い意味ではなくて、きっと、善い意味で。

「今日のご挨拶は『おかえりなさい』ですか」
「『いらっしゃいませ』じゃ嫌だって云ってたから!」
「そうですね。いらっしゃい、よりは少し、善い気分になるかもしれません。それでもなんだか変な感じですが」
「またまた照れちゃって。嬉しいじゃない?可愛い女の子が『おかえり』って待ってくれてるなんて」
「太宰君」
ちゃん、私にも云ってくれない?」
「おかえりなさーい!」
「ただいまー」

 目の前で唐突に始まるままごとに、安吾は今度こそ眉を顰めて呆れた。の隣に座っていた太宰が、ただいま、の言葉と同時にグラスを傾けたので、もグラスを突き合わせる。安吾はその様子を横目に、いつもの定位置に座った。脳内で少し、自分も「ただいま」の一言が有った方が善かったんだろうか、と考えたが、今更口にするのは辞めておいた。そして安吾が座った直後に、マスターが何も訊かずに“いつもの”をテーブルに置く。マスターにとっても見慣れた光景だった。いつもと変わらないやり取り。当たり前に其処にある、太宰と、と、安吾の、“いつも”だ。

「今日はね、安吾が来るまでちゃんと数学の勉強をしていたんだよ」
「それは善い。二桁の足し算の攻略法は見つかりましたか?」
「ううん。計算の為の指が足りなかったから、太宰さんの指も借りたんだけど、矢っ張り足りなかった」
「難しい問題だね。でもここで善いニュースが有るよ、ちゃん。安吾の指も十本ある」
「おおー!安吾さん安吾さん!指貸して!」
「その解けない問題はどんな問題なんですか」
「十八足す十!」

 成る程。先日太宰が適当に出した計算問題だ。律儀に覚えていたのか、と感心しつつ、安吾が困ったように苦笑しながら、お手上げだと観念する様に手の平をに差し出した。太宰も喜んで両手を差し出す。右には安吾、左には太宰の、十本ずつの指がある。はうきうきした様子で、その一本一本を人差し指でちょんと触れながら数えていく。

「じゃあ太宰さんが十。安吾さんは指を八にしてね。これで十八」
「うんうん」
「そこに十がやってきます」
「はい」
「…」
「……」
「十はどこからくるの?」
ちゃんの指は?」
「でも私の指を全部使ったら、数える人がいなくなっちゃう」
「それはうっかりしていたよ。困ったねえ」

 大真面目に困った顔をするに、太宰も真剣に唸る演技をするものだから、安吾は「また始まった」と云わんばかりに大きな溜息を吐いた。さながら、組織の長の、とある幼女への溺愛ぶりを再現するかの様な、甘やかし方だ。安吾は「では取り敢えずこの難問は保留と云うことで」と早々に打ち切り、テーブルの上のグラスに口を付けた。はがっかりしたように口を尖らせて、自分のグラスを人差し指でつんつんと突いた。

「…織田作さん、まだ来ないね」

 拗ねたような呟きに、安吾はの横顔をちらりと見た。太宰も彼女のつぶやきをすぐ拾った様で、やれやれと苦笑する。

「そうだねぇ、遅いねぇ」
「…まあ、事前に呼んでいる訳ではないんでしょう?いつものことですから。来るかどうかも判りませんよ。若し呼びたいのであれば、連絡を一つ入れるべきでは?」
「いいや、来るさ。きっと来るよ」
「はあ」
「ね、ちゃん」
「うん」

 が頷いて、グラスを両手で持ってごくごくと中の液体を流しこんだ。それを、太宰は目を細めて眺めていた。その眼差しの温度は、傍からでは判断しにくい。飼っているペットが餌を美味しそうに食べるのを黙って観察するような目にも見える。

ちゃんは織田作の事が大好きだねぇ」

 ふと、太宰がそう云った。

「うん?うん!好きだよ!太宰さんの事も好きだよ!」
「でも一番懐いてる相手は織田作だからね。妬けちゃうのだよ、私と安吾は」
「勝手に僕を入れないでくださいよ」

 安吾の言葉は、ハハ、と笑うだけで流された。は太宰を不思議そうに、首を傾げて見つめていた。それに深い意味なんて無いのだろうと判りながら、安吾は「酔ってます?太宰君」と尋ねた。それも笑って流された。

「織田作ほどの男なら、指は十五本くらい有るかもしれないね」
「えっ!ほんと!?じゃあいっぱい指貸してもらおう!」
「無いですよ。足の指を数に入れるんですか」
「足し算の続きやるの楽しみだなあ!早く来ないかなあ、織田作さん!」

 プレゼントを待ちわびる子供の様に無邪気に笑って、がそう足をばたばたさせた直後、店の扉が開く音がした。続いて、誰かの足音も。あ!とが顔を上げ、太宰と安吾の顔を交互に見る。その視線に応えるように、二人がちいさく笑った。がぐんとカウンターから体を離して、階段を振り返る。現れた人物に、ぱっと笑顔を向ける。ああ、お前も居たのか、とでも云うように、男は少し、穏やかな表情を見せた。

「待ってたよ、織田作さん!おかえりなさい!」
「…ん?……ああ、そうだな、ただいま。