「描ーけた!」
「あたしも描けた!せーの、で見せ合いっこ!」
「せーのっ」「せーのっ」
「あ、エリスちゃん矢っ張り上手!でもこっちも自信作なんだよ、えへん」
「そうね。もじょうず。でも勝負だから、上手い方を決めるの!」
「仕方ないね、勝負の世界は非情だから。じゃあ、矢っ張り公平に…」
「リンタロウ!」「首領!」
執務室の床には、クレヨンや画用紙、ノートの切れ端や色鉛筆が転がっている。其れと一緒に、二人の女の子も転がっていた。しかしたった今、その二人は一斉に上半身を起こし、とある人物の方へ目を遣る。二人分の目玉に見つめられ、リンタロウ・或いは首領と呼ばれた中年男性は困ったように苦笑した。困ったような、という表情の中にも少し嬉しそうな色も混ざっており、苦笑とはいえ締まりなく笑った顔に近い。
「うぅ〜ん、二人ともとっても上手だからねぇ…」
「だめよ!勝負なんだから!」
「引き分けは無し!」
「うーん…ん?おや?この対決の御題は若しかして…」
「首領の似顔絵!」
其れを聞くと、男は心臓を狙撃されたかのようにウッと呻いて蹌踉めいた。
「私の事を想って描いてくれたのだね、エリスちゃん…そして君も…もう勝敗は善いから、額に飾らせてくれない?」
「いやよ」
「お願いだよぅ、一生のお願い!ねっ、云い値で購おう!」
「いや。絶対いや。あたしの絵もあげないし、の絵もあげない」
「そんなあ、エリスちゃん〜!」
「え?べつにあげてもいいよ?」
「だめよ」
「なんで?」
「リンタロウが喜ぶから。リンタロウが喜ぶことは全部しちゃだめ。喜ばせるなんていや」
「くう…っ! エリスちゃん、そう云って昨日も私の選んだお洋服を着てくれなかったのだよ…ひどいよねえ、君からも云ってくれないかな…」
「えー!勿体無いよ!エリスちゃん可愛いから、可愛いお洋服いっぱい着たほうがいいよ!」
「そうそう!その通り!」
「はリンタロウの味方になっちゃだめ!あたしの味方でしょ!」
「うぅん?確かにエリスちゃんの味方だけど」
「そもそも、の絵は上手いけど、だめよ!リンタロウの髪はもっとぼさぼさでいいの!」
「ひ、酷いねエリスちゃん!?」
「そっか…次回の参考にしよう」
「はやく!リンタロウ!どっちの方が上手なの!?」
思わず立ち上がって、腰に手を当てて頬を膨らませるエリスという少女に、兇悪な組織を束ねる長…の筈の男は、悩ましげに低く唸った。悩む素振りはそれこそたっぷり時間を掛けるけれど、彼の出す答えはいつも同じだ。「公平な判定を」という信念のもと、絵描き対決の勝敗はいつも自分達本人ではなく第三者の彼に委ねられるが、本当に「公平」かは怪しいところだ。何故かって、もう何年も、一度も、判定が変わった事などないからだ。リンタロウ、と呼ばれた男は、決まって、エリスの機嫌を取るように、こう答える。
「うぅ〜ん…悩むねえ。本当に君も上手なのだけれど…今回は、エリスちゃんかな」
「あたしの勝ち!」
「また負けちゃった!ううん、でもエリスちゃん上手だもんなー」
クレヨンで描かれた幼女の落描きと、の描く絵の出来はまるで違う。それでも、決まって首領は「エリスちゃん」の機嫌を取る。審判の旗が上がるのがどちらかは、絵を描き始める前から決まっていた。だがは素直にその勝敗を受け入れる。何の疑いも持たずに。勝った方がより上手い絵なのだと信じているので、「エリスちゃんは自分より上手い」「勝ったのだからエリスちゃんの絵は上手いに決まっている」という考えだ。ほんの少し心苦しくて首領は頬を掻くが、矢張りついつい、愛しのエリスちゃんに肩入れしてしまうのだった。
「ああ、そうだ!ごめんよ、二人とも。今からこの部屋で大事なお仕事の話があるから、そろそろ…君にも、この後夜から別のお仕事を頼んであったね。準備をしたら、芥川君達の所へすぐ合流できるかい?」
「はーい。了解、首領!そっかそっか、もうこんな時間なんだね」
「えー、もう?まだと遊び足りないのに」
「ごめんね。でもお仕事頑張んなきゃ!」
「何よ、リンタロウ!には別のお仕事いれないでっていっつも頼んでるのに。あたしと遊ぶのが、の一番のお仕事でしょ!」
「そう云わずに、エリスちゃん。私だって心苦しいのだよ」
「はリンタロウがあたしにくれた玩具じゃない!」
「玩具って云わないの、エリスちゃん…!遊び相手!いや、お友達!」
「そうそう、はエリスちゃんのお友達!明日も遊びに来るね!」
「絶対よ!」
ばたばた慌ただしく私物のノートと色鉛筆を拾い集めて腕に抱えると、は「はあい」と返事をして、扉へ向かう。一先ず引き下がったものの、エリスの御機嫌は斜めになりつつあった。まだ遊びたかったのに。拗ねたようにむすりと口を尖らせる。玩具もドレスも甘いお菓子もいつだって「リンタロウ」は与えてくれるけれど、自身以外の遊び相手をエリスに充てがう事はあまりしてくれない。だからただの「お友達」としていつも遣ってくるの存在は、少女にとっては良い暇潰しだった。見た目だけならばはエリスより「お姉さん」だけれど、さっぱりそんな振る舞いはしないので、「お友達」だ。と遊ぶのは好きだ。だから遊ぶのを邪魔するリンタロウに怒るのは当然だ。つまんなくなって拗ねるのは当然だ。
けれど自分が誰かを好きなのも怒るのも、リンタロウがそういう“セッテイ”にしているからなのかもしれない。そう考えるともっともっと腹が立って、エリスは紙に描いたリンタロウの髪の毛をぐちゃぐちゃに描き足してやった。
一方、執務室の扉を出て、見張りの黒服男性に元気良く挨拶をしてから走りだそうとしたは、ちょうど此方に遣って来た人物に気付いてぱっと手を上げた。「中也さん!」と名前を呼ぶ。そして、手を上げた拍子に、腕に抱えていた荷物が床にばら撒かれた事に気付く。名前を呼ばれた青年が、口元をひくつかせた。床に転がった色鉛筆を追いかけるの姿に、やがて呆れたように溜息を吐いて、傍へ近寄った。見張りの男が慌てて止めようとする。「幹部殿が手を貸さなくても…」という意味での制止だろう。其れを軽く聞き流して、中也は床に落ちたノートと何枚かの紙切れを拾い上げる。
「あ!ありがとう、中也さん」
「まァた絵描き対決か?懲りねえ…いや、飽きねえな」
「今日こそ勝てると思ったんだけどなー」
審査員が変わらない限り百年経とうが勝ち目は無いだろう。そう思ったものの中也は口に出さずに、そりゃ残念だったな、と肩を竦めた。いや仮に他の人間が審査員を任されたとしても、首領の視線が怖くてエリスの絵を褒めざるを得ないかもしれない。不毛な戦いだ。ふと、拾い上げた紙に描かれた絵に中也の目が留まる。それに気付いても笑って、今日の絵描き対決を振り返った。
「最終戦は首領の似顔絵だったんだけどねー、一回戦目のお題は中也さんだったんだ〜」
「…へえ。なかなか上手いじゃねえか」
「ちゃんと脚を長く描いたからね!」
「頼んでねえ気遣い入れんなオイ」
「でもエリスちゃんの描いた中也さんの方が上手かったよ!」
悪気は無く、嫌味でも何でも無く、「脚を長く描いた方が格好良いらしいから」という理由だけで、そういう風に描いたのだけれど。前に誰かが云ったからだ。脚を長く描くと喜ばれる、と知っていたからはそう描いた。そして口先では文句を付けたものの、中也も満更でもないようだった。しげしげとの描いた自分の似顔絵を眺めている。暫くして「中也さん?」とが声を掛けたところで漸くはっとしたように視線を外した。そんなに勝手にモデルにして脚を長く描いた事が気に障ったのだろうか?と首を傾げているへ、「何でもねえよ」と誤魔化してから、先程紙切れと一緒に拾ったノートの表紙を見て話を変えた。
「此れも手前の落描き帖か?」
「そうだよ。空いてる頁は殆ど無いけど」
やけに表紙が褪せているだとか、角がぼろぼろだとか、そういう部分で、使い古した物なのだと判る。落描き帖なんて、消耗品であって当然だというのに。白い頁が無くなっても捨てずに持っているというのは、どういう理由なのだろうか。何の気無しに、中也がぱらりと其れを捲った。見るなと文句を云われる事も無かったので、適当にぱらぱらと中身を流し見ようとして、ふと、手が止まる。忌々しいほどに見覚えのある顔が目に入ったからだ。只の似顔絵であっても、中也にとっては腹の立つ顔だった。間違いなく「奴」だと判る。そしてその、中也の天敵の左隣にも、見たことのある丸眼鏡の男が描いてあった。右隣に描いてあるのは、恐らく本人の似顔絵だろう。そして、一番端にある似顔絵の男は―…
「あ、誰だか判る?此れね、私と太宰さんと安吾さんとあと…、…あれ…中也さんは知らないかな」
「太宰」「安吾」――どちらも今のこのポートマフィアという組織には無い名前だ。それでも、当時の中也の周囲で聞かない名前であったわけではない。遠くはない距離で耳に入る名前だった。特に前者の名前なんて、厭という程、耳にした筈。けれど――この絵の、一番端に在るこの男は、当時、組織内でも目立った活躍などしていなかった、下級構成員だ。当たり前にその名前を口にしようとして、其の途中、我に返ったようには「中也さんと面識はないかもしれない」と苦笑した。中也は、じ、と其の絵を睨むように見つめて、それから一つ溜息を吐き、
「…ああ、知らねえな」
其れだけ云って、ノートを閉じた。閉じたノートを、ほら、とに差し出しながら、「もう落とすなよ」と忠告する。にこにこ笑って其れを受け取ったの顔を、ほんの数秒黙って見つめてから、中也は執務室の扉へ向かって行った。今から執務室で首領の云う「大事なお仕事の話」が有るのだろう。その背中をがにこにこ見送っていると、不意に中也が「ああ、そうだ」と何かを思い出したように振り返って、びし、との方へ人差し指を向けた。本当はその人物の名前を口にするのも厭だったが、気付けば、こんな事を云っていた。
「太宰の野郎の脚はもっと短くていい。今度描くときはうんと短くしてやれ」
一瞬きょとんと目を瞬かせて、直後に嬉しそうに笑いながら、は「はあい」と返事をした。そして荷物を抱え直して、中也に背を向け、軽い足取りで赤い絨毯の上を歩いて行く。その様子を見送って、中也は小さく息を吐いてから、首の後ろを掻いた。それでも、すっ、と顔を上げて執務室の扉の前に立った瞬間に、彼の表情はがらりと変わる。此方の顔こそが、ポートマフィア幹部・中原中也としての其れだった。
「首領。這入ります」と、よく通る声が執務室の扉に吸い込まれる。頭の隅、本当に隅で、中也は先程の、四人の人物が描かれた絵を思い出していた。太宰、安吾、そしてもう一人の男。以外の人間の姿は、今のポートマフィア内には無い。無い、という事はつまり、そういう事だ。消えたか、消されたか。組織を抜けたか、或いは死んだか。
ノートに描かれた絵を指差した時のの嬉しそうな顔と云ったら。飽きないし、懲りないのだろう。彼女の絵を手放しに褒めてやれる人間なんて、もう此処には随分と減ったのに。