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「先生、せんせい、与謝野先生、さあ、お部屋に着きましたよ!」 力仕事とは無縁のひ弱な体で、なんとか与謝野先生を支えて、ふらふらと、ようやくお部屋に辿り着いた。もちろん呑み屋から此処までずっと一人というわけではなく、すぐ其処までは敦さんが夜道を一緒に付き添ってくれたのだけれど。目的地が近くなるとふいに先生が頭を上げて、「敦は此処まででいい。帰ンな」と敦さんをしっしと追い払ってしまったのだ。本当に大丈夫ですかと敦さんは心配してくれていたけれど、すぐそこなので、と大きく頷き、何度もお礼を云って、敦さんを見送った。たったこれだけの短い距離、無事に部屋までお連れできなくて何が先生の付き人か!と自身を奮い立たせ、何事も無く部屋の扉を開けることができた瞬間、達成感に浸った。小さい事だけれど、お役に立てた!嬉しくって誇らしくってつい口元が緩んでしまいそう。けれど此処で仕事が終わりなわけではない。 「さ!私、お布団を整えさせていただきますね、少し待っていてくださいな」 んー、とふらふらしたまま返事をする先生。普段はあまり見られないその様子に、ついつい私は嬉しくなってしまう。いそいそとお布団を整えて、先生が快適に眠るための寝床の準備をしながら、「先生ったら、お酒が好きなのは良いですけれど、あんまり呑みすぎないでくださいね」と緩んだ口元を見られないように振り返らないまま言う。なんだか旦那様に小言を言う奥さんみたいに聞こえて、自分の発言にさらにだらしない顔をしてしまった。だけど本当、最近多いのだ。先生、お酒にお強いはずなのに。最近はこんなふうに、ふらふらと一人で帰ることができなくなるくらい酔っ払ってしまう。その度、私が張り切ってお家まで送らせていただく。先生は翌日になると、すっかり酔っ払った時のことを忘れているけれど。(そう、いつも、朝になれば) 「あ〜…、。もういいったら。妾は眠いンだ。布団は適当で良いから寝かせとくれよ」 「ええ、でも…」 急かす声に振り返ろうとした時、それより先に先生の体が倒れこんでくる。あ、という間に私の体もろとも布団に転がされた。ああ、もう、ほら、寝ぼけてらっしゃる。先生の体が私の上に覆いかぶさったまま。重くはないけれど、このままでは、…このままではいけない。先生のお顔が近いし、ぴったりと体がくっついているし、お酒のにおいも、心臓の音も、怖いぐらい、近い。私はなんとか先生の腕から抜けだして、体を起こし、ふう、と息を吐く。 「…」 「あ、は、はい。なんでしょう、先生」 「あつい」 「あ、暑い、ですか。窓を、開けて…」 「、水」 「みず?…あっ、お水、ですね。すみません、今お持ちしますね」 なんだか風邪を引いた子供の小さな我儘みたいで、私はすこし、微笑ましく思った。もちろん先生の我儘ならなんだって聞いてあげたいと普段から思っているけれど、先生は基本的になんだって一人で出来てしまうから、少しでも雑用を頼まれると、私はそれだけで嬉しいのだ。いそいそとコップに水を注いで、寝苦しそうに小さく唸る先生を振り返った。 「先生、水をお持ちしましたよ。どうぞ。少し、体を起こしてください」 ちょっと水を入れすぎただろうか。たぷんと揺れる水を、溢さないようにそうっと差し出す。この量だし、さすがに、横になったまま飲んでもらうのは無理そう。せんせい、ともう一度呼んだ時、先生の細い指がスッと伸びてくる。けれどまだ酔いが覚めないのか、先生の手はコップを受け取るというよりも、ごつんと私の手元にむかって突き出され、コップを払い落とす形になってしまう。小さく短い悲鳴を私が上げるのと、服に水が掛かったのは同時だった。ああ、布団も濡れてしまったかもしれない、いいやむしろそれより、もしや先生の服も濡れてしまったのでは。 「ご、ごめんなさい!私がちゃんとコップを持っていなかったから、あの、先生、濡れてませんか!?」 「ん…ああ、なんだ、溢したのかい?まったく、何やってるんだい、ほら」 「ええ、すみません…濡れ、て、…」 寝ぼけたような声で私に呆れて、目を擦って、体を起こした先生の細い指が私の首元に伸びる。ぴく、と喉が跳ねた。石になってしまったように、体が動かない。動けない私とは反対に、先生の指は動きを止めない。その指には何の躊躇いもない。ぷちり、ぷちり、釦が外れる。とくとくと心臓が駆け足になっていく。言おうとしていた言葉を見失って、しばらく黙りこんでされるがままになっていた。ようやく絞り出した、せんせい、という声は、やけに頼りない声だった。 「だい、じょうぶ、です。脱がなくても、その」 「……」 「そんなに、濡れてないですし、着替えるほど、そんなに」 返事がない。黙っていろ、という無言の圧力に他ならない。いよいよ心臓の音が凶悪なくらいにうるさくなった。「先生、せんせい」と小さな声で何度もその人を呼ぶけれど、その続きは無い。せんせい、やめて、とか、ねぼけているんですか、とか。そういう言葉が出てこない。何も言えないでいると、ついに一番下の釦まで外し終わった先生が、私の体をぐいと布団の上へ押し倒す。暗闇に先生の瞳が浮かぶ。 「せん、せ…」 鼻と鼻が触れる距離に先生の体が沈み込んできたときに、浮かんだ言葉は「やめて」でも「寝ぼけているんですか」でもなく「どうして」だった。そんなの、聞かなくったって判ることなのに。だって、どうしてって、それは、先生が、酔ってらっしゃるから。寝ぼけてらっしゃるから。だって正気じゃないもの。こんなこと、正気だったらしないもの。わかってる、わかってる。私が拒まなければ、先生の口付けが降ってくる。降ってきてしまう。だから、そう、拒まなきゃ。覆いかぶさってくるその胸を今、押し戻さなきゃ。同時に、また、「どうして?」と頭に浮かぶ。どうして、拒まなくてはいけないの?どうして、駄目だというの?お酒のせいにでもしない限り、私はこのひとに触れてもらえないのに。 ねえ、先生。きっと明日には忘れているんでしょう?きっと明日には、何にも無かったことになるのでしょう? 「……、目ェ閉じな」 内緒話をするように囁かれた言葉は、やけにはっきりとした意思を持っているように聞こえて、 だから、きっと云っても許されるはず。あなたがすきです、と、告げたって。 「ああ、妾、さっきから熱くて熱くて堪らないンだ、ずっと我慢してやってるのに、熱が下がってくれやしない。誰のせいだと思う?」 (先生、悪い子でごめんなさい。抵抗しなくてごめんなさい。酔っているせいだって判ってるのに、嬉しくなってごめんなさい。都合がいいと思ってごめんなさい。こんなに好きで、ごめんなさい) 「昨日は大変でしたね、さん」 僕の机の上にそっとお茶を置いてくれたさんにそう何気なく声を掛けると、彼女はやけに動揺しながら「え!?」と声を裏返した。昨晩、未成年の僕らは参加しなかったけれど、夜遅くまで太宰さんや国木田さん、与謝野さん達が飲み会だと称してやんややんやと居酒屋で騒ぎ通していた。僕とさんに連絡が入ったのは、その飲み会がお開きとなった頃。与謝野先生が迎えを呼べとおっしゃってるので君たち二人がかりでお家まで運んであげて、という太宰さんからの電話。与謝野さんを慕っているさんがそれを断るはずがないし、だとしたら彼女一人では大変だろう、と僕もなんだかんだ断れない。無事に家まで送り届けよう、と意気込んだものの、僕だけ途中で帰らされたけど。だからそのあと、さん一人で与謝野さんを送ることになってしまって、無事帰れたのかどうか気掛かりだった。だから、それを確認するためにも、昨日の話を振ったのだけれど――。 「さん?」 「あ、いえ、あはは、そうですね、昨日は敦さんもありがとうございました」 「いや、僕は何も…ああいうことって今までもよくあったんですか?与謝野さんってお酒に強いイメージがあったので…ちょっと意外だったなぁと」 「そう…ですね。お強いんですよ。前まではいくら飲んでも顔色一つ変わらなくって」 「えっ?じゃあ…」 「うーん…そのはず、なんですけど……最近はああいう酔い方をしてしまうみたいで」 「はあ、そうなんですか…」 「はい…あの…でも、酔うと、その、開放的になってしまう人とか、多いって聞きますし、敦さん、もし酔った勢いで与謝野先生が――してきても、その、なんというか…」 「…え?今なんて、」 よく聞き取れなかった部分をもう一度聞き返そうとした直後、事務所のドアが開いて、与謝野さんが入ってくる。それにハッと振り向いたさんは、いつもの通り嬉しそうに「先生!」と声を上げた。与謝野さんがあくびを噛み殺しながら、「、お茶」と指示を出せば、さらに嬉しそうに微笑んでさんはハイと返事をする。にこにこしながら、お茶を淹れに向かう。僕がじーっとそちらを見ていたら、ふと、与謝野さんと目が合った。 「なんか用かい、敦。怪我でもしたかい」 「イエ…」 「ちぇっ…あーあ、昨日は呑みすぎちまったねェ…妾はまだ眠いよ」 「そうですよ。僕とさん、大変だったんですから」 「ふゥん?全ッ然記憶に無いねェ。酔っ払った時のことなんて覚えてるわけないだろ?」 「はあ、そうですか…」 「……」 会話が切れると、与謝野さんの視線がさんの方へ向かった。つられて視線を移そうとして、突然、にょきっと視界に割り込んできた太宰さんにびっくりして「うわ!?」と声を上げる。突拍子もなく現れるなあこの人。っていうかいつからそこにいたんだろう。太宰さんはにっこりと微笑んで、「やぁ、昨日は御苦労様」と労いの言葉を掛けてくる。例に漏れず「昨日」とは昨晩の飲み会の後、与謝野先生を送ったことだろう。 「はぁ、まあ…僕らは酔い潰れて大人しくなった与謝野さんの相手でしたけど、お酒の席では与謝野さん、結構面倒な酔っぱらい方するみたいですし、太宰さん達も大変だったのでは」 「うん?そうなの?」 「そうなの、って…さっきさんがそんな感じのこと云ってましたよ」 「へぇ…」 太宰さんの浮かべる笑みが濃くなる。それに僕は疑問を感じて、首を傾けた。なんか、咬み合わない。 「太宰さん?」 「それはそれは。きっと家に着いてから、さぞ大変だっただろうね」 「…はぁ…どういう意味ですか?」 「敦くん、君に二つ良い事を教えてあげよう」 「はい?」 「一つ。与謝野先生はあの程度の酒じゃ酔っ払わない」 ぴ、と人差し指を天井に向けて、太宰さんは微笑む。にっこりと。その笑顔を見て、言葉を聞いて、え?と僕は固まる。どういうことだろう。それはつまり、僕らの…否、さんの前では酔っ払ったふりをしていた、ということだろうか。何の為に?どうして。さっき「酔っ払ってる時の記憶なんて無い」と言っていたし、それも嘘だったということになる。何の為にそんな嘘を?「覚えてない」と言わなくちゃ都合の悪い、何かが―― そう考えこんでいる僕に、太宰さんがもう一本の指をぴっと立てて、「二つ目。こちらが最も重要なんだけど」と声を潜めた。 「私達の周りにはね、知らなくっても善い事というものがたくさんあるのだよ、敦くん」 そう言った太宰さんから僕はなんだか目が離せなくなり、部屋の一角でいつもと変わらない様子でお喋りをしている女性二人の方を振り返ることが出来なかった。けれどきっと、振り返ってはいけないのだと、心のどこかで察していた。 |