「先生、先生、見てください!桜があんなに!」

 指をさして、早く早くと身振り手振りではしゃぐから、腕に提げた買い物袋が可哀想なくらいに乱暴に揺れていた。しかし紙袋に対して同情心を抱くつもりも無い与謝野は、満開の笑顔で自分を呼んでいるにしか目を呉れない。そんなにはしゃぐと転ぶだろう、と一つ窘めて、かつかつ、靴を鳴らして彼女の方へ向かう。の人差し指が示す先には、確かに、見事な桜の木が何本も何本も並んで、道行く人の足を止めている。つい最近まで蕾だった気がするのに、いつの間にやらこんなに立派に咲いているのだから、季節の移ろいと云うのは案外、人間の予想と理想よりも駆け足なのかもしれない。

「今日はお天気も良いですし、気温も、春!って感じがしますね。こんなに綺麗な桜を見てしまうと余計に、春っ!です! ね、先生!」
「はいはい、アンタは本当に好きだねェ。春に咲く桜だとか、冬に積もった雪だとか、そういうの」
「あ、こ、子供みたいで可笑しいですか?」
「いぃや?感心してるのさ。四季を愉しむ日本人の鑑だ、ってね」
「本当に?本当に、ですか?先生?呆れてません?」
「んン?そうだねェ…桜に夢中ですっ転びでもしたなら呆れている所だったが…転ばなかったから良しとしよう。呆れちゃいないよ」
「ああ良かった!」

 ほっと胸を撫で下ろし、しかし油断して今から転んでしまっては元も子もないので、ははしゃぐのを抑えて、ぴったりと地面に足を付き、静かに桜を見上げることにした。そんな様子を与謝野は横目で見やって、気付かれないくらいの小さな笑みを零す。素直だ。いじらしいくらいに。はそんな視線に気づかずに、ほうっと桜の木を見上げ続けた。淡い色の花弁が、見る者の心を落ち着かせる。

「せっかく今年の桜もこんなに綺麗なんだから、皆でお花見の計画でも立てていれば良かったですね」
「ああ、妾も花見は好きだよ。昼間から酒が飲めるからねェ」
「ふふ…先生ったら。お酒も程々にしないと駄目ですよ。この間だって……イエ、先生が良いのなら、私は、良いんですけれど」

 窘めるようなことを云いかけて、ふと何かに思い当たって、結局、それに蓋をし、見なかったことにして、は眉を下げて微笑んだ。与謝野もその反応に合わせるように、目を細めて薄く微笑む。言葉は無い。ただ、笑って過ごす。やり過ごす。

「その…先生は桜が似合いますね。いえ、先生には、秋桜だって薔薇だって百合だって菫だって何だって、似合います。とってもとっても絵になります!」

 そう云って、は数歩下がって与謝野と距離を取り、両手の親指と人差し指で作った四角い枠組みに、彼女の知る中で一番美しいその女性と桜の木を一緒に収めた。カメラを向ける様に、ピントを合わせるように、片目を瞑る。そんな様子に被写体である人物は肩を竦めて、やれやれ、と溜息を吐いた。それでも、表情は優しい。そのちょっとした仕草、表情の変化も、にとっては一瞬だって見落としたくない、シャッター・チャンスになるのだ。その人物の背景にせっかく美しい桜の花弁が舞っているというのに、霞んでしまいそうになる。

「…本当、先生自身が、花みたい」

 ほうっと思わず口から溢れた呟きに、与謝野は、何を云ってるんだか、とでも云うように、笑った。

「女は皆、花であれ、ってね。妾に限った事じゃないだろ、。自分も頭数に入れたところで、自惚れだなんて誰も云わないさ」
「いいえ、いいえ。私なんかは、とても。花なんかじゃありませんよ。私はただのです、先生の為ので在ればそれでいいの」

 だって、傍にこんなに美しい存在があるのなら、きっと、誰もが、美しい方を「花」だと認識するだろう。それでいい。そうでなくては。卑下する訳ではない。本当に本当に、そう思うのだから仕方ない。当然のことなのだ。が噛み締めるようにうんうんと深く何度も頷いていると、与謝野は少しつまらなそうに唇を尖らせた。

「…ふゥん。そうかい。まァ良いさ。それでもアンタは一人の女だ。いつか、イイ男にでも云ってもらいな。お前が花だ、ってね」

 いつか、妾じゃない誰かに云われるだろう。どうせ、妾じゃない。妾じゃない方が、此奴の為。
 飲み込まれた言葉は他に行き場所もなく、与謝野の喉の奥でちくちくと自身を責め立てる。ちくりとしたのは与謝野だけではなく、云われた側のにも、刺さった。ショックだった。泣き出してしまいたくなるくらいに、ショックだった。突き放された気持ちになって、はしゅんと俯く。足元を見ながら、消え入りそうな声で、はい、と呟いた。返事をしなくては失礼だったから、無理矢理に絞り出した二文字だ。本当ならば云いたいことは二文字では収まらない。良い男、だなんて、そんなのは、要らないのに。誰かの花になんて、ならなくっていいのに。もうずっと前から、貴女のものなのに。――だけどそんな言葉は、きっと、口にしない方が良いのだろう。口にしない方が、このひとの為。
 ふるふると首を振って、気を取り直す様には顔を上げる。その視線の先には美しい人と美しい桜が在る。嗚呼、なんだッて、こう、儚さなんて、感じてしまうのだろう。自分の見ている光景に。

「ね、先生。私、桜も、雪も、好きですよ。だって、今年もこの季節まで、先生といられた、って、実感できるでしょう? 先生と一緒に見られたら、何だって、好きですよ、わたし」

 笑って云ったつもりだったのに、縋るようなみっともない声になってしまった。案の定、間を置かず、「近いうち死ぬ予定でもある人間みたいな声出すンじゃないよ、」と叱られてしまう。またが俯きかけたところで、与謝野が彼女との距離を詰める。それはもう、近くまで、距離を縮める。思わずが頬を染めて後ずさりかけるくらい。

「せ、せんせい、」
「動くンじゃない。髪に付いてる」

 ぴしゃりと云われて、は固まる。心の端で、ああなんだ、花弁か、そんなことか、それだけか、と安堵して。与謝野の細い指が、の髪に触れる。髪を撫でる。「取れましたか?」と小さな声が尋ねる。それには答えずに、与謝野はの髪を耳に掛けた。その人物の指が、自身の耳朶に触れるだけで、にとっては心臓に悪い。ぴくっと体が大袈裟に跳ねて、それがたまらなく恥ずかしくって、耳まで真っ赤にして俯く。赤い耳なんて見られたくはないのに、たった今髪を掛けられたせいで、その耳を隠すものは何もない。
 せんせい、と困ったような声がもう一度与謝野を急かすけれど、急かすも何も、最初から花弁なんて付いてなかった。そんな小さな嘘を理由にして、触れてしまいたくなっただけだ。

「あの、…あの、せんせい、あの…」
「……はいはい。取れた取れた」
「あ…ありがとうございます、先生」
「それで、何の話をしていたっけね、ああそうそう、
「は、はい!」
「桜ぐらい、来年も再来年も一緒に見てやるから。雪だって、月見だって、なんだって」

 その言葉に、は一度目を大きく開いて、それから、ぱっ、と笑った。それはもう嬉しそうに、感激して泣きそうなくらい、笑った。まるで、好きな男に求婚された女みたいな顔。幸せな将来の約束を交わした男女の様。それはきっと、間違っているのに、間違っていない。それでも、幸せそうな笑顔を見て、感染ったように、与謝野も笑った。「ほら、じゃあ、そろそろ帰るよ」と、買い物した袋を持ち直す。はあい、と機嫌よく、は与謝野の後を付いて歩き出す。

「ふふ…でも、時間があったら改めてちゃんと、お花見したいですね、先生。また天気が崩れたら、桜が散ってしまいそうで、その前に」
「…べつに良いさ。十分、今ので立派な花見だ」
「そうでしょうか。少し立ち止まって見ただけで…お酒も無かったのに?」

 少し茶化すようにそう云ったに、与謝野は笑うだけで答えない。自分を酔わせるものなら、いつだって傍にあって、それはきっと酒なんかよりずっと美味い。







花酔い