「何やってンだい、

 本日の横浜の天気は雨。道行く人が色とりどりの傘を咲かせて歩く中、地面を睨め付けながら歩いている女がいた。前なんかちっとも見ずに歩いているせいで、人にぶつかっては小さく謝り、また俯き、謝り、を繰り返している。コンクリートはすっかり雨を吸い込んで色を変えていて、そんな地面を睨んで歩くことなんか何にも楽しくないはずなのに、その人物はずうっと顔を上げなかった。周囲の人間なんてまるで目に入っていない。雑音にも耳を貸さない。けれど、妾の声だけは拾うのだ。何をしているのか、と尋ねた声に、弾かれた様には顔を上げて、此方を見た。雨で濡れたせいで髪はぺしゃんこ。その髪が頬に張り付いている。服だってびしょびしょで、見慣れた格好なのに色が違うものを着ているみたいだった。

「今日は夕方から雨の予報だった。アンタも自分で云ってただろう?傘を忘れないように、って」
「……」
「其れがどうして、雨の中びしょ濡れになってンだい。あーあ、すっかり濡れ鼠じゃないか。周りからの目も痛いねェ…」
「…」
「雷は鳴ってないみたいだが…臍じゃあなく口を盗られちまったのかい、。いつから妾の言葉を無視出来るくらい生意気になったのさ」
「…先生」

 やっと口を開いたは、それでも死んだような瞳を斜め下に向けるばかりで、妾の方を見ようとしない。沈んだ声。これから絞首台にでも送られるのかって位に。じめじめとした今日のこの空気には馴染んでいるけれど、だからってこんな状態のを家まで連れ帰りたくはない。一歩近づくと、がびくりと後ずさった。む、と眉を寄せたら、は両の拳を強く握って、深く深く頭を下げる。そんな彼女の頭にも肩にも服にも、雨が打ち付ける。

「御免なさい」
「……」
「心配を掛けて御免なさい。でも、大丈夫だから、先生は早くお帰りになってください」
「答えになってないねェ…何か探していたんだろう?大事な物でも落としたのか…今日一日歩いた道を探しに戻って、その内雨が降りだした、ッてとこかい?」

 は答えようとしないけれど、ぐっと唇を噛んでますます俯いた。はあ、と溜息を吐いて、妾はの傍へ歩み寄る。差している傘をそちらに傾けようとしたところ、が首を横に振って、「要らない」という意志を示した。恐恐と顔を上げて妾を見てきたかと思えば、その瞳には既に涙が溜まっていた。今にぐしゃぐしゃに泣き出しそうなのを必死に堪えて、妾を見る。

「ブローチが、何処かにいってしまったんです」
「ああ、妾が贈ってやったヤツか」
「朝はちゃんと、あったはずなのに、気付いたら、失くなっていて…」
「成る程ねェ…けど、何もこんな天気の中傘も差さずに探すこたァないよ。明日にするか、潔く諦めるか、どちらかにしな」
「…でも、宝物だったんです」
「風邪を引くだろ」
「風邪を引いてブローチが戻ってくるなら、喜んで風邪をひきます」
「ああそうかい。なら気が済むまで探してな。アンタは風邪を引くし、ブローチは見つからない。最悪な結果しか妾にゃ見えないけどね」

 突き放す様にそう告げるとはとうとう泣き出して、雨とも涙とも判らない水で頬を濡らした。よく見れば、転びでもしたのか膝が汚れているし、手のひらにも少し土が付いている。手のひらではなく手の甲で無理矢理に目元を擦っているけれど、涙は次々溢れてくる。
 莫迦だなあ、と目を細めた妾に、は気付かない。周囲の人間だって、誰も気付かない。傘で自分を隠す事に誰もが夢中になっている。だから誰も、気付かないのだ。妾の笑みに。焦げ付くこの感情に、誰も。


「…っ、はい…、って、え、あの、先生…!?」

 手に持っていた傘を適当に放り投げる。周囲の通行人が不思議そうに一瞬だけ此方を見て、すぐに視線を外した。は目を丸くして固まって、だけどその内はっと我に返って、転がった傘を拾い上げた。妾の頬に雨の雫が落ちてくるのを見て、顔色が青くなる。

「せ、先生、濡れてしまいます!風邪を引いたらどうするおつもりですか…っ!」
「なんでアンタは風邪を引いてよくて妾は駄目なんだい?不公平すぎるだろ?そんなの」
「な…、」
「アンタが雨に濡れるのを止めない限り、妾も止めないことにした。さて、それで?まだ帰らないのかい?」

 わざとらしく肩を竦める妾に、は言葉を失くした。口をへの字にして、眉をハの字にして、小さく唸って、ふるふる震えて、やがて降参したように傘を持ち直し、妾の頭上に被せる。きちんと、その傘の下に自分も入る。「良い子じゃないか、」と笑って頭を撫でてやったら、呆れたように苦笑すると思ったのに、はみるみる堪えられなくなって、また泣き出してしまった。ぽろぽろ落ちる雫を、妾は黒手袋越しに指で拭ってやる。ああ、もう、拭っても拭っても、溢れてくる。その様子を見ていると気分が高揚してきて、自分の口元に笑みが浮かんでいないかって心配になった。「いい加減泣き止んだらどうなんだ」と呆れたような声で云ってやったけど、本当はもう少し泣かせておきたい。

「だって、私、やっぱり悲しくって、情けなくって、申し訳なくって…」
「あんなもの、またいつだって購ってやるさ」
「でも、でも…」

 白い喉が震える。どうしても諦めきれないらしい。「妾はアンタの体が冷えることの方が嫌だね」と云ってやっても、「でも、でも」とは繰り返す。雨の勢いは弱まらず、ぐずぐずしていたら本格的に風邪を引きそうだ。まず、の濡れた服を早く脱がせなくちゃいけない。傘の柄を掴んでいたの指に自分の手を重ねてみる。ああ、早く、冷えた指先に熱を取り戻してやらないと。

「帰ったら…妾が、あたためてやるから」

 狭い傘の中で、空に、人に、隠れながら、の耳元でそう囁いた。唇が、冷たい耳朶に触れる。それまでしゃくりあげていたが、一瞬で頭の中を真っ白くしたのが判る。思わず傘を取り落としそうになった様だけれど、妾が一緒に持っていたせいで傘は地面に落ちない。落とすもんか。妾には丁度いい、ちっぽけな隠れ蓑なんだから。は言葉を失くして、惚けた様に突っ立ったまま。手をぐいと引いてやれば、ねじを巻かれた人形みたいにやっと足を動かしだす。せんせい、とたどたどしく言葉を紡いだ唇は、冷たいだろうか、熱いのだろうか。その温度を早く確かめたくて仕方がない。足早に、雨の街を抜けていく。ポケットに忍ばせた小さな歪んだ愛情に、この娘は気付かない。


幸福は水溶性


「ブローチ!見つかったんですか!?」
「はいっ!先生が一緒に探してくれて…お恥ずかしながら、先生が一緒に探してくれたら、あっという間に見つかって…」
「そうだったんですね…でも、見つかって良かったですよ!」
「ありがとうございます、敦さん!」

 幸せそうに笑う少女と、それを見てほっこり、つられたように微笑む少年が、事務所の一角を和ませていた。自分の机で暇そうにしていた乱歩がそれを横目で見て、次に自分のすぐ隣に居た女性に視線をやった。

「彼女を迎えに行った雨の日、どうして傘をもう一本持って行かなかったの?」
「ああ、すっかり忘れてたよ。自分の分しか持たなかった。お陰で狭い傘に身を寄せ合って帰ることになっちまったねェ」

 乱歩は、ふうん、と聞き流すような相槌を打って、微温いお茶に口をつけた。舌が火傷する程の熱さは好きじゃない。

「失踪事件だったのか、誘拐事件だったのか、そもそも事件なんて最初から無かったのか」
「なんだい、いきなり。乱歩さんが今まで解決してきた事件の話か何かかい?やめとくれよ、話しだすと長いんだからさ。妾じゃなく喜んで聞いてくれそうな賢治にでも話してやりなよ」

 やれやれと大袈裟に肩を竦めたその人の方も見ずに、乱歩は引き出しにしまっておいたお菓子の袋を漁り始める。

「最初から与謝野さんが持ってたんじゃないの?」
「何を?」
「いや?そうだったら面白いなと思っただけ」
「そうかい。何事もそりゃあ面白い方がいいだろうねェ」
「重い病だねえ、これは」
「おやァ、治してやろうか?」
「いやいや、これは治りそうもないね。あと患ってるのはそっちだよ?」

 知ってるさ、そんなこと、なんて呟いてから、与謝野が人差し指を自身の口元にあてた。その口元に浮かんだ悪戯っぽい笑みを見て、今度は乱歩がやれやれと手を上げる。
 すこし離れたところでは、少女が愛おしそうに、手元に戻ってきたブローチを撫でていた。