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「チョコレート?」 「はい!来たる十四日はバレンタインデーですから。お世話になっている男性社員の皆様に贈ろうかと」 「ああ、そんな時期か。律儀な子だねェ、アンタは」 「だって、本当にいつもお世話になっていますから。こうやって感謝の気持ちを形に出来る機会は大切にしないと!喜んでいただけるかはわかりませんが…でもせっかくなので、お渡ししたいんです」 「…其れは確かに善い心掛けだろうけど。わざわざ此方が用意してやるっていうのも面倒な話だね、全く。女が男に、ッていうお決まりを最初に根付かせたのは何処の誰なんだか」 「ふふ、そうですね。女性が、とか、チョコレートを、とか、日本独自の文化だって云いますしね。でも、私は素敵な習慣だと思いますよ?先生だって、あげたくないというわけではないでしょう?…あ、よかったら私、先生の渡す分も用意しておきますよ。昨日夜遅くなったのでお疲れでしょう、今日はゆっくり―…」 「妾も購いに行く」 「えっ!」 「妾も一緒に行くって云ってるのさ。なんだい、一人で選ばないと駄目だって?」 「そんなことはないですよ!た、ただその…」 「ん?」 「先生と一緒にお出掛け出来ることが、嬉しいな、と…」 もじもじと俯きながらそう口にした私に、先生は一瞬きょとんとしてから、すぐに笑った。なんだ、そんなことか、と。些細なことであっても、私にとっては嬉しいことなのだから仕方ない。隠せないし誤魔化せない。「一緒に出掛けたいならそう云えばいいだろ」と先生は云う。だって先生あんまり乗り気じゃないように見えたから…付き合わせてしまうのは申し訳ないし…、なんていつもなら控えめに返すはずなのに、機嫌良さそうに笑う先生を見ていると、「そうですね、今度からは我が侭を云わせて頂きます」と笑って答えることが出来てしまった。 そう来なくちゃ、と先生が外套を羽織り、二本のマフラーを手に取る。手招きをされて、大人しく先生の傍へ近寄ると、片方のマフラーを私の首に巻いてくれる。慌ててもう一つを先生から受け取って、私も先生の首にマフラーを巻く。そんな、出かける前のちょっとしたやり取りで幸せになれてしまうのだから、どんなに寒くたってこの季節が愛しく思えてしまう。与謝野先生と過ごす季節はどれも輝いて見えた。どうしよう、もっともっと好きになってしまう。チョコレートの季節も、先生の事も。 「福沢社長がチョコレートを食べている所、あんまり想像出来ませんね」 「そりゃあ、あの見た目だしねェ。湯呑みの横にはチョコより和菓子を置くだろうさ」 「チョコレートお嫌いですかね…?ご迷惑だったかな…」 「そう云う訳でもない。部下から慕われてる証拠なんだし。他人の厚意を突き返すような人じゃないだろ。まァ、持て余したら乱歩さんにでも流れるンじゃないかい?」 「ふふ、乱歩さんは喜んでもらってくれますね」 「寧ろ足りないッて騒ぐかもしれないしねェ」 店内に所狭しと並べられた様々なチョコレートを見渡しながら、話す話題は探偵社内の男性陣の事ばかり。この季節を探偵社で働きながら迎えることは初めてじゃない。去年も社員の皆さんに贈ったけれど、確か去年は先生とは一緒に購いに来なかった気がする。去年の今頃、先生の仕事が立て込んでいたから、私が先生の渡す分も用意した、ような。あら、それは一昨年だったかな。私、先生の付き人っぽい!お役に立てた気がする!って、ひっそり喜んだのが懐かしい。だけど今年は一緒にこうやって購い物に来られたのだから、こっちの方が断然嬉しい。 ほっこりした気持ちのまま、周囲の人間をちらちらと見て、気付く。チョコレート売り場には、女性の客ばかりだ。当たり前といえば、当たり前なのかもしれないけれど。さっきも先生と話したばかりだ。「女性から男性へ贈る」と云うのが主流になっている世間なのだから。真剣な目でじぃっとチョコレートと睨めっこをしている女性や、学生さんくらいの歳の女の子を眺めて、ふと、小さな疑問が湧いた。 「皆…好きなひとにあげるのかな」 「さあ。妾らみたいに職場の付き合いとして渡す人間だっているわけだしねェ」 先生から返事が返ってきたところで初めて、自分が声に出していたという事に気付いてはっとする。大袈裟に口を押さえたら、その動作に先生が怪訝な顔をした。変なことを、云ったわけではないと思う。だけどなんとなく、口にしたらいけなかったような気がして。そう思ってしまう自分がなんだか悲しい気もして。誤魔化すように首を振って、手近にあったチョコレートを指差して、「わあ、これ美味しそうですね、先生!」と云ってみたけれど、先生が誤魔化されてくれたかは判らない。 「あ、そうだ、敦さんはチョコレートお好きですかね?去年の今頃はまだ入社していませんでしたから、敦さんに渡すのは初めてですね!」 「…ああ、そう云われるとそうだった。敦が来てからいろいろと忙しくて、なんだかもう随分前からいたような気がするけど」 「賢治くん…は、敦さんの入社する二月くらい前だから…」 「そこの二人は大抵の物は喜んで食べるだろうさ。バレンタインなんて行事を知ってるかどうかも怪しい」 「それは…確かに」 「太宰あたりが面白おかしく間違ったバレンタインの知識を敦に入れてくれてたら愉しそうなんだがねェ」 「あはは…敦さん、信じちゃいますよ。素直なかたですから」 太宰さんに巧みな言葉で惑わされ、最終的に目を輝かせて「なるほど!」と手を叩く敦さんの姿が目に浮かぶようだ。「だけど、そうですね…敦さんにもたいへんお世話になっていますし、ちゃんと気持ちを伝えなくっちゃ」気合を入れるようにきゅっと拳を握ると、与謝野先生がやれやれと腕を広げた。「どちらかと云えば新入りにはお世話“してやってる”側じゃないかい?」との言い分。私はぶんぶんと首を何度も横に振った。 「そんな事はないですよ。いつも助けて頂いてます。敦さん、優しくって気が利く素敵なひとですし。この間も一緒に購い出しに付き合ってくれて…」 「…へェ?アンタ本当、随分敦と仲が良いじゃないか」 「そう、ですかね…、そうだといいんですけど」 「……はあ。嫌味にも気付かないのかい」 「え?」 「別に。此方の話さ」 先生がふいっと私から視線を逸らして、別の棚を見に移動してしまう。慌てて、其れに付いて歩いた。歩きながら、あれ、今のは、なんだったのかしら、と頭の中が混乱する。怒っている、というより、拗ねたような声音だった。何か余計な事を云っただろうか。嫌味…嫌味と云ったのだから、直前の「敦さんと仲が良い」と云う言葉が、其れにあたる筈。仲が良いと思っているのは私だけで本当は違う、のに気づいてないとはお目出度い奴だ、とか、そういうことだろうか。な、なんだか悲しくなってきた。もしそう云う意味で云ったのだったらどうしよう。私敦さんに何か失礼なことしてしまっているのだろうか。あれこれ考えてそわそわしている私に、先生が「ほら、さっさと決めないと」と急かす。はい、と返事をして、慌てて積み上げられたチョコレートに向き直った。 見た目も、値段も、味だってきっと、それぞれだ。他人への贈り物、となると、一番何を重視するものなのだろう。見た目も大事だと思うし、値段も高すぎず安すぎずの物が善いと思うし、勿論美味しいものを贈りたい。これだけいろんな物があったら迷ってしまうな、とあちこちに目移りしていると、自分と同じくらいの歳の女性が、会計の店員さんと話しているのが目に留まった。「贈り物ですか」「はい、そうです」――聞こえてきたのは、たったそれだけのやり取りだけれど、店員さんも、客である女性も、笑顔だ。女性の、照れくさそうで、けれど嬉しそうにはにかむその表情を見ていると、ああきっとその贈る相手の事を想って選んだのだろうな、と判る。喜んでくれるかな、という不安。喜んでほしい、という願望。いやもう彼女には、喜んでくれる相手の笑顔が見えているかもしれない。それを想像して、照れくさく笑うのかもしれない。 視線が、与謝野先生に自然と向かった。近くにあったチョコレートの箱を手に取り、ふむ、と眺めている。その横顔は長年、見慣れたものだけれど。去年のバレンタインデーにだって、先生に贈り物を渡した。なんらおかしいことは無い。女性が女性に贈り物したって構わない行事のはずだ。お世話になっています、いつもありがとうございます、って。でも、でも今年は、少し言葉を変えても、構わないのだろうか。それが許される、関係、だろうか。考えると徐々に顔が熱くなって、ぱたぱたと手で扇いだ。誤魔化すように視線を泳がせた先で、心惹かれる物を見つけて思わず「あっ」と声を上げる。 「先生、与謝野先生!」 「ん?」 「これ、凄くおしゃれですね!それぞれいろんなお酒が入ってるそうですよ!」 「…へェ」 「こ…こういうの…お嫌いですか…? 好みに合うんじゃないかな、って、思って…」 「妾は興味有るけど、結構好き嫌い分かれるだろうねェ。敦にはちと早いンじゃないかい?」 「…、…えっ」 「何だい、その顔。アンタ、敦の選んでたンだろ」 「…あっ!」 思わず大袈裟に「しまった!」みたいな反応をしてしまって、恥ずかしくなって私は視線を泳がせる。多分今、ものすごく顔が赤いと思う。かあ、となった頬を押さえて、「そ、そうでした、そうですよね、ええ、ええ」と恥ずかしさに声を震わせる。そんな私の反応にきょとんと首を捻っていた先生が、暫く私の顔を見つめた末に、ぴんと閃いたような、答えに行き着いた顔をした。そしてにやりと笑うのだ。ああ、もう、その笑みで判る。先生の閃きが、正解だということ。誤魔化せやしないっていうこと。 「ふゥん?敦の分を忘れて、別の奴へ贈る物を考えてた訳か」 「そ、それは…その…すみませんでした敦さん…」 「誰のこと考えてたンだい?」 判ってるくせに、ずるい。そう口にすることも出来なくて、私は子供みたいに唇を尖らせて、恥ずかしいのを我慢するだけ。機嫌良さそうに笑う先生には、もうさっきまでの拗ねたような様子は微塵も感じられない。 「ん?云わないのかい?つれないねェ。妾には教えられないッて?」 「…もう、先生ったら」 「善いじゃないか。教えとくれよ。誰にも云わないでおいてあげるから、さ」 先生が悪戯っぽく笑って、人差し指を立てて口許に添える。そんな仕草に胸が落ち着いていられるわけもなく、私はむむむ、と唇をきつく結んで耐えた。何に耐えたかって、それは、いろいろだ。人間、いろんな感情が容量を超えると、変な顔になったり、大声で叫びたくなったり、顔を覆ってしまいたくなるものだから。そういうもの全てを堪えて、深呼吸してから、私は先生との距離を詰めて、口許を手で隠す。それだけで、「耳を貸して」と云う意味だと気付いた先生は、私の方へ少し首を傾けた。 「…御迷惑でなかったら、先生に、贈り物させてください…」 先生の耳元で、こそこそと。私の言葉を聞いた与謝野先生は、一旦体を離すと、ふうん?と顎を人差し指でつん、とつついて考える素振りを見せた。ちょっと不安になっていると、今度は先生から、「耳を貸して」の合図を出される。慌てて、体をそちらに傾けた。 「其れは、“いつも有難う、お世話になってます”の、贈り物でいいのかい?」 耳元の囁き声に、肩が震える。先生の言葉を耳にして、最初に思ったことといえば矢っ張り、「ああもう、先生ったら!」という、叫び出したいくらいのもどかしさ。判っている筈なのに、こういうときの先生はわざと私の口から云わせようとする。確かに先生にはいつも感謝している、お世話になっている、世界中の誰よりも。だけど、こんな訊かれ方をしてしまったからには、私が伝えるべき答えは一つしか無い。社交辞令じゃない。その他大勢の人と同じでは駄目。 「よくない、です」消え入りそうな声で呟いた。「“好きです”の、贈り物じゃないと…」絞り出したその言葉に、先生が今日一番の嬉しそうな顔を見せてくれる。あ、とその表情を目に焼き付けたくて見つめていたら、不意に手を掴まれる。 「そうかい、それなら妾もアンタに何か購ってやるとするかねェ」 「え、あ、いいえ、そんな」 「他の連中への購い物なんか、適当にさっさと済ませちまおう」 「せんせい、」 「アンタが妾以外の奴の事考えて贈り物選んでるのなんて、面白くない」 ようやく、さっき先生が少し拗ねた理由が判った。判ると同時に、先生に引かれるのと反対の空いた手で、口許を覆う。ずるいです、与謝野せんせいずるい。そんなこと云われてしまったら、幸せすぎて、だらしない変な顔してしまいそう。冬だというのにちっとも寒くない。先生と繋いだ手から、ぐんと自分の体温が上がった気がした。 |