一体どのくらいの間、立ち尽くしていたのだろう。顔を上げたとき、すでにそこには何もなかった。「ボート」なんてものは、もうとっくに小さく小さく見えなくなって、消え去って、最初からそんなもの目の前になかったみたいに、本当に何もなかったんだ。辺りは静かだった。たった一人世界に取り残されたかのように感じるくらい。かといって顔を上げたときに、まだそこにボートがあってほしかったわけじゃあない。そうでは、なかったけれど。

「これからどうするの」

 どうするって、なにが。背後から聞こえた声に、そう逆に尋ねようかと思って、やめた。自分の前方、目の前には何もない。「行ってしまった」のだから、誰もいない。けれど振り返った先、自分の背後には一人だけいた。残っていた。自分と同じようにこの場に。ボートには乗らずに、そこに。
 これからどうするの、か。質問の意味はわかる。「ブチャラティと袂を分かって、今後誰の指示で何をどうしていくつもりなのか」と。そう訊いたのだ、彼女は。ぼくは彼女の顔を見た。どうして、ここにいるのはぼくと彼女なのだろう。よりにもよって、彼女なのだろう。ぼくはいつだって彼女の考えていることが分からなくて、あまり深くかかわろうとしてこなかった。付き合いが短いわけではない。それこそあんな、あんな新入りのジョルノや出会ったばかりのトリッシュとは違う。それなりの月日を同じチームで、同じ人物――ブチャラティを信頼し、ついてきた者同士だ。それでも彼女はぼくらチームの中でも変わり種で、そりゃあたった一人女というだけでもどう扱うべきか迷うところだけれど、根本的に、あまり人格としての内側を見せない人間だった。喋らないというわけではないが、ただブチャラティに全面的な信頼をおいて、彼の為に動く以外に特に目的もなさそうな、そんなふうに見せるときがたまにあった。

「…それは…その質問は、つまり……」

 これからふたりでどうしようか、という相談か、あるいは、ブチャラティが自分の前からいなくなった今、代わりにぼくを司令塔にしようとして、相談と言わず絶対的な今後の指示をあおいでいるのか。
 それとも、そんなのはまったくの自惚れで、彼女には確固たる未来のヴィジョンがあって、二人でつるむ意味も無いのでこれからは好きに行動させてもらうが、おまえはどうするんだ?という質問だったのか。
 そこを判断しかねるくらいには、べつにぼくらの間には絶対的な絆のようなものは存在していなかった。

 しかし、それがどうしたというのか。今の自分には彼女の質問の意図や回答を躍起になって考える気力は無かった。紡ぎかけた言葉を途中で放棄して、ぼくは視線を彼女から自分の足元に移した。この場に縫い付けられたように動かないその足を見下ろした。項垂れたようにも見えるぼくのそんな様子を、彼女は黙って見ていた。長い沈黙が再び訪れた。

「……意外でしたよ。君がブチャラティについていかないなんて」

 黙り込んだのはぼくのほうだったのに、その後口を開いたのもぼくだった。けれど口にしてから、後悔した。心配も焦りもした。自分は、おかしなことを言ってやしないかと。この言い方は、おかしくはないだろうか。「ついていけばよかったのに」みたいな言い方にも聞こえるし、「同じ選択をした人間がいて安堵した」と言いたいようにも、「でも自分達のほうが正常だろう?そうだろう?間違っていないだろう?」と言ってほしいようにも聞こえてしまう気がした。そんな心配をした。ぼくはべつに自分が間違ったことをしたとは思っていないし、間違っていないと誰かに言ってほしかったわけでもない。そのはずだ。取るに足らない理由で自殺に等しい道を選んだ彼らが異常なのだ。ぼくと彼女は賢い道を選んだ。そのはずなのに。

「その…なんていうか、君はいつも…何を考えているのか…いや、いつも何も恐れない、強い意志の人間だったから。いつかある日平気で死にに行くんじゃあないかと思っていたんだ」

 そしてあのボートに乗るか乗らないかの選択を迫られたとき、これが彼女のその「平気で死にに行くとき」だと、ぼくは少し思っていた。ブチャラティが選んだことなら。たとえ来なくていいと言われても、行くのだと。けれど彼女はボートに乗らなかった。ぼくよりも後ろにいて、ぼくより一歩でも前に出ることをしなかった。ナランチャのように縋るようにブチャラティへ言葉を求めるわけでもなく、ただ、黙ってそこにいた。苦悩があったのか、なかったのか。それすらもわからない。彼女の目はいつもそうだった。何を考えているのか分からない。その目が今、少し、憎たらしく思えた。何かいえよ、と心の中だけでぼくは詰った。
 ブチャラティ達の決断は、死にに行くようなものだった。確実に正面から「死」というものに突っ込んでいく行為。べつにそれ自体がどうというわけではなくて、本当に本当に命を懸けるべき理由があるならば、ぼくだってきっと……と思う。けれど、ブチャラティの理由は、違う。出会って間もない、なにも知らない女の為に、だなんて、そんなのは違う。ボスを裏切り組織から殺されるのを待つだけの身になる理由にはならない。
 きみも、そう思ったから行かなかったのか。それなら、初めてブチャラティという正しさを見失って、ショックを受けなかったのか。

「私は…」

 自分と同じ理由であってほしいと、心のどこかで思っていた。いや、あの場でボートに乗ってついていく方がおかしいのだから、本来なら理由も何もないのだ。ついていかなかった理由がどうのこうのではなくて。「ついていく理由」が無い限りは、ついていかないに決まっている。
 けれど彼女はゆっくりと、勿体ぶって声を発した。理由を、話した。

「…フーゴが行かなかったから、自分も行かなかっただけよ」
「………は、あ?」
「フーゴがあの時ボートに乗ったなら、私も乗っていた。でもあなたが乗らなかったから私も乗らなかったわ」

 ぶつり。ちぎれるときはいつも一瞬だった。嫌な音が頭の後ろでした。いつもはちぎれた自覚のないまま、その音に気付く暇も無いのに、その時だけは、はっきりとわかった。
 彼女の細い肩を、砕かんばかりに引っ掴んだ。ぎりぎりと力が入る。カッとなった体の内側で血が沸騰しているような感覚。自分の中の怒りの感情という怪物が、彼女を喰い殺したくてたまらないと叫ぶ。

「…ッこの、馬鹿にしてんのか!!本当はついていくつもりだったのにオレが可哀想だから残ってやったとでも言うつもりか!?」
「……」
「余計なお世話だ!!今からでもおまえ一人であのボートを追いかければいい!!さっさと行けよ!」

 掴んでいた肩を突き飛ばすと、彼女は簡単にその場に尻餅をついた。力の入っていない体は、起き上がることもしない。光の灯らない瞳を地面に向けて、項垂れたまま、何も言わなかった。イライラは収まらず、まだ何か彼女に向かって怒鳴りつけてやらなくてはという衝動を抑えられない。馬鹿にしやがって、馬鹿にしやがって!本当はついていけたのに、だと。ブチャラティについていけたのに、あのボートに乗れたのに、そうしなかった、なんて、簡単に!(ぼくはそれができなかったのに)
 不意に、だって、と声がした。消え入りそうな声。子供の言い訳につかう「だって」だった。その声がどこから聞こえるのか、頭に血がのぼった自分は、すぐには理解できなかった。けれど目の前には、たった一人しかいないのだ。そんな弱々しい声を出すことなんて、今まで一度も無かった、彼女しか、目の前にいないのだ。

「…だって、フーゴが行ってたら…誰もなんにも疑わず当たり前にブチャラティについていったのなら、私もそうしなくちゃってあのボートに乗ってた」
「…、…」
「怖いとか嫌だとか死にたくないだとか、そんな感情全部蓋をして嘘を吐いて無理をして、強がって、本当は覚悟なんてないくせにあの人についていってた…」
「……
「ごめんなさい…私本当はすごく心が弱いの。フーゴがここにいなかったら、行かないという選択をすることすらできなかった弱虫なの…」

 死ぬことを恐れてなんかいないように見えた彼女が、どんどん声を湿っぽくさせて、肩を震わせて、本当は死ぬのが怖かったいつも強がっていただけなんだと告白する。いつも凛として少し冷たくも見えた彼女が、ぼろぼろと涙を流す。当たり前に、血も涙も流すのだ、彼女は。当たり前なのに、ぼくは知らなかった。勘違いをしていた。彼女はどんどんあふれてくる涙を拭うことすらせず、ただ流しながら、「ごめんなさい」と繰り返した。ぼくを言い訳につかってごめん、という意味かもしれない。一緒に行けなくてごめん、弱くてごめん、と、もうここにいない誰かに向けたものかもしれない。(ブチャラティは、知らないのだろうか。彼でさえも、気付いてやれなかったのだろうか。この人が本当はこんなにも弱いこと)
 だけどやがて、彼女は顔をこちらに向けて、弱々しい声で言った。もう謝罪の言葉ではなかった。

「…ありがとう、フーゴ。行かないでいてくれて」

 なんともやりきれない気持ちになって、ぼくはその言葉を聞いた瞬間唇を噛んだ。きっと彼女がブチャラティ達についていったのなら、どこかでその恐怖心が邪魔をして、簡単に命を落としていただろう。それを彼女本人も分かっている。ここに残ったから、死なずに済んだ。ああ、そうか。出会ったばかりの女に命をかけられなかったぼくの臆病さは、それとはべつにずっと近くにいた女一人の命を救ったのか。こんなかたちで。
 地面にへたりこんでいた彼女の傍に、膝をついた。目を合わせると、はもっと泣き出した。なんにも言わずにぼくは彼女のことを抱きしめる。ああ、泣きたい、ぼくも。//やわらかな無罪