ボートは岸からどんどん遠ざかる。きっと今振り返ったところで、「彼」の姿は遠くに見えるだろう。本当に遠く、小さく。どんな顔で別れていいのかなんて分からなかった。だから何も言えなかった。じゃあね元気でねなんて言えるわけがなかった。自分がずいぶん薄情な人間に思えたけど、べつに誰も悪くなんてないはずだ。ボスを裏切ったブチャラティも、それについていくことを選んだ私も、選ばなかったフーゴも。誰も悪くなんてないはずだ。

「……ねえ、ブチャラティ」

 無理やりジッパーでくっつけただけのトリッシュの腕から、血が滴っていた。その光景にどうしようもなく胸が痛くなって、見ていられなくて、私はその繋ぎ目を自分の手で押さえる。血は止まらない。唯一の「父親」に、明確な殺意を持って切断されたそれ。非力な細い手首。
 フーゴには少し心が痛むけど、でも、ブチャラティがこの決断をしてくれたことが、私は嬉しかった。ブチャラティを今まで信じてきてよかったと思った。つい二日前に出会ったばかりの女の子であっても、彼女の「父親」であるボスが彼女にしたことを許さないと怒りを抱いてくれる人で、よかった。トリッシュを護り続ける、ボスと敵対する。それがどんな意味を持つのか、私だって、分からないわけじゃない。無謀かもしれない。明日にだって数時間後にだって死んでいるかもしれない。それでも、だ。
 不思議なくらい、迷いはなかった。あの塔からブチャラティが連れ帰った彼女のこのキズを見たとき、もう答えが出ていた。

「私ね、まさかボスがそんな人だと思わなくて、"ひとりぼっちじゃなくなってよかったね"って言ったの」
「……」
「だって、お母さん亡くしたばかりで、ひとりぼっちになると思ってたら、父親に会えるってなって、それで……。ぬか喜びさせちゃったかなあ」

 私には家族はいないけど、トリッシュにはいるんだって思ったら、きっとそれはすごく素敵なことだから、幸福なことだ、大事なことだ、って思ったんだ。でも、何も知らないトリッシュをその手で殺そうとした父親なんてそんなものは素敵なわけがない。本当の家族っていうのは、もっと素敵なもののはずなんだ。邪魔だから殺す、なんて、そんなのは"本当"じゃあない。

「トリッシュ、どうなるの?ひとりぼっちなの?」

 ボスを倒さないといけない。そうしないとトリッシュの命は無い。それはわかる。倒してもいない内からその障害を抜きにした「その先」を心配するなんて平和なヤツだな、なんて――ここにフーゴがいたらそう呆れて溜息を吐かれたかもしれない。でもブチャラティは「必ず倒す」と言ったんだ。私だってそれを信じて、「ハッピーエンドの先」を考えたくもなる。ハッピーエンドの先が、絶対に幸せしかないかというと、そうでもないのだ。そういうものだと思う。
 静かに私の言葉を聞いていたブチャラティが、視線だけでこちらを見た。「なあ、」名前を呼ばれた。

「お前、全部が終わったら……」

 そこで言葉を区切ったブチャラティは、しばらく沈黙していた。言葉を選んでいた。最初に口にしようとしていた言葉を、やっぱり取りやめて、途中で考え直しているみたい。全部、とは、どれくらいの「全部」をいうんだろう?私は彼の言おうとしていたその続きが聞きたくって仕方なかった。でも、聞いてしまったら少し寂しい気持ちにもなる気がしていた。

「……トリッシュと、友達になれているといいな」

 それが、本来言おうとしていたせりふとは少し違うのだろうと分かっていたけど、私は素直に頷いていた。「ボスの元へ届けるまで」の予定だった彼女との時間は、今、どれくらいのびたのだろう。私は、あとどれくらい彼女の手を握ることが許されるんだろう。