案外、彼女の「ファン」ってやつは、お行儀がいいらしい。取り囲んでぎゅうぎゅうにするわけじゃあなく、みんな順番に、彼女へ声を掛けていく。次は、ぼくだ、わたしも一言、と。その一つ一つの言葉にトリッシュは笑顔で応えていた。応援してくれてありがとう、がんばります、心をこめてうたうわ、ありがとう、ありがとう、って。本当にみんなお行儀がよく、伝えたいことを伝えおわったら、道を譲る。だからトリッシュは人だかりの中を一歩、一歩とゆっくり進む。それにあわせてモーゼのように彼女の歩く道が開かれる。また新しく誰かがトリッシュの前に出てきて、話して、引っ込んで、話して。トリッシュの履いているヒールの靴が、コツ、コツ、と音を立てる。もうひととおり挨拶したかしら、というタイミングで、その靴音は止まる。

「トリッシュ……、…トリッシュさん…?」

 か細い声。かっこわるい。緊張で、うまく声が出ない。震える。声だけじゃなくって、指先も、心も。俯いたまま、声を絞り出した。

「私、あなたの、」

 あなたの、ファンです。ずっとずっと前から。初めて歌声を耳にしたとき、衝撃が走ったわ。涙だって出てきた。CDもずっとずっと聴いてる。あなたの声を、ずっと、ずっと、忘れたくなくって。

「あなたのことが、好きです、とっても」

 ずっと、忘れたことなんかなかった。あなたの声も、手も、瞳も、髪も、唇だって。

「……ありがとう。素敵ね、その口紅の色」
「ずっと前に……『きっと真っ赤な口紅よりオレンジがかった色のほうが似合う』って、言ってくれたから……」
「そう……そうね。でも、あたし、もっとあなたに似合うものを選んであげられるわ。口紅を買いに行くと、いつも考えてしまうの。あの子にはこっちの色だわ、って。いつも、いっつもよ」
「いつも?今までずっと?一度も忘れずに?」
「ずっとよ。忘れたことなんてなかったわ」

 コツ、と足音がした。私に向かって、その人物が一歩距離を詰める。私は、きゅっ、と覚悟を決めて、顔を上げた。とびきり綺麗なドレスと、ばっちりのメイク。ステージ用だから当たり前なのかもしれないけれど、その姿は本当に、きらきらしていて、眩しいくらいで。

「ト、トリッシュも、素敵ね……! 綺麗で、その、えっと……」
「……」
「す……すてき!」
「ああ、ほんとうに変わらないわね、!」

 周囲のざわめきをお構いなしに、トリッシュが私を抱きしめる。あんまりびっくりして後ろに倒れそうになったけど、堪えた。心臓がどきどきうるさくってとまらない。いやとまっちゃだめだ。ダメなんだけど。私はおろおろしながらも、そおっとその背中に腕を回した。ああ、なんか、すごく周りの視線が痛いけど、もう構っていられない。

「あんなさよならしといて、いきなり目の前に現れるなんてどういうつもり?」
「……ごめん…」
「あんな、キスまでしておいて」
「ごっ、ごめん…!」
「忘れられなくしたくせに」
「ごめんってば……」
「あたし、いつも考えていたのよ。どこかであなたがあたしの歌を聴いてないか、って。気づいてくれてないか、って」
「気付いたよ、私、ずっと聴いてたよ」
「足りないわ。これからはもっとちゃんと、あたしのそばで聴いてちょうだい」
「うん……うん、もちろん。これからは、ずっと、そばに……いさせてほしい…」
「離れないでよ」
「離れないよ」

 絶対、絶対だよ。ずっとそばで、あなたを護るわ。私たちは手を繋いだ。一生離れないように、強く。