「あー……あ~……」

 手鏡を持って、その鏡に見せつけるように、口を開ける。鏡を傾けたり、顔を傾けたりしながら、べつに声は出さなくてもいいんだろうけどずっと「あー」の口のまま。口の中が乾いてきた頃に、ふう、と……いやもう、「ふう~……」と大袈裟な溜息を吐いて、口を閉じた。でも閉じるときに、以前は感じなかった口の中の違和感に少し眉を顰める。

「親知らず抜くってさぁ……時代が時代ならきっと拷問に使えるよね。おかしいもんね。自然には抜けない歯を無理矢理抜くって。なんか生え方にもよるんだろうけど、一人に体を押さえつけられながら思いっきり体重かけて男の先生が歯をギッギッ!グイッグイッ!ってしたりさ……口が裂けんばかりに引っ張られ……トンカチみたいなのでゴンゴン!ってされる振動が響いて……さぁ……」
……まだ痛むのか」
「いや、峠は越したから大丈夫なんだけど、違和感はあって」

 昨日までは大きく口を開けることすらできなかった。日が経ってかなり平常通りに戻りつつあるんだけど、それにしたって完全に元通りってわけじゃない。親知らずを抜くのは初めてだった。これが噂のアレか~、こう、みんなが嫌がる、ひとによっては痛みに寝込む、大人でも泣く、みたいな……嫌な噂しか聞かなかったヤツか……って身構えながら行った。歯医者って、やっぱり子供の頃から「イヤなもの!怖いもの!」って刷り込みがあるからどうしても苦手だ。

「いや、ほんと思い出しただけでも怖いよ。ちょっと泣けたもん。椅子に押さえつけられ身動き取れないまま……やっぱり拷問ってこんな感じだったんだなって。拷問受けたことないけど」
「無いだろうな。あったら困るよ」
「確かに」
「まあ……それくらいの恐怖だった、というのは伝わる」

 当日は麻酔で感覚が無くてうまく喋ることもできなかったので、今こうしてべらべらと「誰かに聞いてほしかったこと」を好きに話せることが無性に、嬉しいというか、ほっとする。
 施術後、「散歩だと思って出かけたら動物病院で注射を打たれた犬」……あるいは「しわしわになったぴかちゅう」……みたいなショボショボ具合になっている私の元に、赤司くんが「無事に終わった?何か咀嚼する手間がかからなそうな食べ物を買って寄ろうか」とメッセージをくれたけど、「ありがとう、大丈夫!昨日のうちにいっぱい買ってある!」とお断りしてしまったので、歯を抜いた後赤司くんに会うのは今日が初だ。なんだか久しぶりに、私の部屋に赤司くんがいる。関係ないけど、恐らく「ゼリーとかヨーグルト買って持って行こうか?」という意味であろうことを「咀嚼」って単語つかって言ってくるの、私の周りで赤司くんくらいだと思う。一瞬読めなかった。漢字が。

「まともに口が開かなくて固形物が食べられない時って本当……ゼリーって助かる食べ物なんだなって思った。いつもは嬉しいゴロっと果実入り!とかナタデココ入り!なのが憎かったけど……くち、あかなくて……流動食として機能してくれなくて……」
「……それが入っていないものも売っていたんじゃないか?」
「や、うん、あるけど、つい……だって買ったの、歯を抜く前だからさ。あのときの私はやっぱりゴロゴロ何か入っているゼリーの方が嬉しくて。何も入っていないゼリーと比べたら魅力が……」
「魅力」
「いや食べたいものじゃなくて先を見越してちゃんと楽に食べられるものを選べって過去の私に言ってやりたいよ」
「ふっ」

 赤司くんが笑う。思わず零れたものだったのか、口元に手を添えて斜め下へ視線を外しながら、肩を少し揺らした。らしい、と言われたような気持ちになる。でもそういう笑い方する赤司くんこそ、赤司くんらしい、という感じがする。

「呼んでくれれば、他に必要なものを買って持って行ったのにな」
「いや、結果的に大丈夫だった、食べられた。こういう時に赤司くんを呼ぶのはちょっと、ほら」
「頼ってくれた方が嬉しい、という話は以前した気がするが」
「あ、違う。せっかく来てもらっても薬飲んでごろごろしてる姿をお見せすることしかできなかったし、頬っぺた腫れた顔見せたくなかったからだよ」

 恥ずかしいでしょ、と付け足せば、赤司くんはちょっと意外そうに、じっと私の顔を見た。それすら私は身構えて、「え、待ってまだちょっと浮腫んでるかな?」と両頬を押さえ、ぺたぺたと顔を触る。

「いや……ああ、そうか。なるほど。そういう理由か」
「うん、そうだよ。『赤司くんにそこまでしてもらうの悪い』とか、そういう遠慮より、そっちの恥じらいが大きい」
「恥じらい、ね」
「……意外そうな反応したの、ちょっと失礼だったんじゃない?赤司くん。私にもそれくらいの恥はあります」

 苦笑して、ごめんと言われた。「すまない」とか「悪かった」という言葉の方が赤司くんっぽい気がして、これには私の方がちょっと意外そうな反応をしてしまったかもしれない。でも赤司くんの表情といえば、なんだか少し安心したような、脱力したような、でも嬉しそうな、そんな表情に見えた。

「でも、今やっと問題なく食事できるように……いやまだ反対側の歯で噛んでるけど、ここまで回復してきたらさ、改めて思うね。おいしいものを食べるのに歯って大事だなって」
「……そうだね。にとって改めての気付きになったのか、それが」
「食べたいものを食べたいように食べられないってつらい。歯を大事にしようと思った」
「ああ」
「当たり前じゃないんだよね、この幸せは」
「そうか……少し話が大きくなったな」
「何か一つ欠けていたら得られない幸せだよ」
「歯一本でも欠けていたら得られないと」
「あと胃。強い胃も必要だと思う。脂っこいものとか、甘いものとか食べるために……いや、つまり……若さ?」
「……、……ふ、」(←笑いをこらえている)
「健康じゃないと美味しいものを美味しく食べられないということだね」
「そう……そうだな、そうか、たしかに」
「体の健康だけじゃなく、心の健康もあるかも。へこんでて食欲ないとかだと、おいしく食べられない」
「どんどん出てくるな、必要なもの」
「んー、でもそれくらい?あと何かあるかな」
「……どうだろう」
「無いか」
「ああ……もう一つ思いついた」
「なーに」
「誰と食べるか、も大事だ。きっと。俺にとっては」

 机の上に出しておいた、個包装のお菓子をいくつか詰めたカゴにそれまで手をつけていなかった赤司くんが、指をのばした。私はその彼の指を見て、まばたきを数度繰り返して、次に彼の顔を見る。私の視線に応えるように赤司くんも私を見て、目が合う。「私も、」と声に出してから、続く言葉がなかなか探し当てられなかった。言葉が続かなくても、「私もそう思うよ」と受け取ってくれるだろうか。
 赤司くんにとっての、「これが欠けたらおいしいものもおいしく食べられない」という、一つの、幸せのためのスパイスが、テーブルを挟んだ向こうにあるって言ってくれた。そう思っても、いいのかな。いいはず。
 赤司くんは私に微笑む。私自身でもうまく言葉にできない「私も、」の続きを知っているみたいに、そしてそれを私の口から聞いたかのように、満足気に。

は食べないのか。いつもは……いや、まだ難しいのかな」
「あ……うん、そうそう。このお煎餅、食べたくて買ったんだけど結局食べないまま歯を抜く日になっちゃって……さすがにまだ固いものバリッボリッはいけないかなあ。赤司くん食べていいよ、遠慮せず」

 促されて一枚食べた赤司くんの口元から、気持ちのいい音が聞こえてくる。だけどその一枚きりで、赤司くんは手をつけるのをやめた。遠慮しなくていいのに、と少し肩を竦めれば、赤司くんは「あとはの楽しみにとっておいて」と言った。

「食べたいように食べられるようになったら食べたいもの、今のうちにたくさん考えておくといいんじゃないか」
「ああー……なるほど?それは……楽しみだね?」
「何が食べたい?」

 口の端をゆるやかに持ち上げて、目を細めて、お手本みたいに赤司くんが綺麗に笑う。食べたいように食べられるとき。おいしいものをおいしく食べられるようになったとき。それはつまり、強い歯、胃、健康な体、ご機嫌なメンタルを持ち、そして、一緒に食べる相手として赤司くんがいるとき。この「何が食べたい?」は、「赤司くんと一緒に、何が食べたい?」だ。


「う……うどん?」
「うどん?……うどんは早い段階で食べられそうなメニューだな……」
「コシの強いうどん。もちもち歯ごたえあるやつ」
「ああ、なるほど。それは確かにしっかり噛む力が必要かもしれない。その様子だと、テレビか何かで見て食べに行きたい店でも見つけたのかな。付き合うよ」
「ううん。冷凍うどんが好きで。あれめっちゃ美味いの。もちもち」
「……本当に読めないな、

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