「ねえママ!みてみて、しろいおはながいっぱい!」
「ほんとだねえ。今日晴れてよかったねえ。綺麗なお花がいっぱい見れて」
「でもね、あめがふったほうがおはなはうれしいよ?だっておはないっぱいお水もらえるもん」
「どうしようパパ、うちの子いいこすぎて怖い。本当に私たちの子だよね?」
「当たり前だろうが!馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」
「パパ!ママのことたたいちゃだめだよ!」
「お、おお…悪い。パパが悪かった」
「ぷっ」
「おい何笑ってんだよ」
「大丈夫だよ〜、パパは痛く叩いたりしないから」
「そうなの?ママはいやじゃない?」
「嫌じゃないよ」
「たたかれると、うれしい?」
「えっ」
「ぶはっ」

顔を背けつつも肩を震わせてくつくつ笑っている男をムゥっと睨む。叩かれると嬉しいなんて子どもに悪影響な誤解すぎる。ママってそんな趣味が?なんて、この幼さでおかしい世界を味わわせてしまったら教育に悪い。だからといって、いつも彼の「叩く」は本当に小突く程度のじゃれあいなので、全然嫌じゃないんだけど。うまい説明はないものかと首を捻る私を見てまだ隣にいる人物が笑うものだから、私は一度あっかんべーと彼に舌を出してから、しゃがんで目線を合わせ、小さい耳に内緒話をした。

「パパは、ママがされて嫌なことは絶対しないよ。だから大丈夫。優しいんだよ」
「どうして?」
「ん?んー…パパはママが好きだし、ママもパパが好きだから」

それを聞くと、ぱあっと顔を輝かせて「そっかあ!」と納得する。幼いその笑顔を眺めて、自然と心があたたかくなった。ふふ、と思わず肩を揺らして笑ったら、私達を見下ろしていた「パパ」が「なんだよ、なんて話したんだよ」と訊いてきた。にやにやしている私の様子が気にかかるらしい。なんでもないよと笑ったら、なんだよ言えよと口を尖らせる。仲間はずれは嫌みたいだ。そんな様子を気遣って今に、心優しいあの子が内緒話の内容を口にしてしまうだろうと思ったから、私はその子と目を合わせて、「秘密だよねー?」と人差し指を立てる。そうすると、つられたように「ねー!」と笑うから。

「ねー、って…お前らな…」
「ほらほら、パパと一緒に遊んでもらいなね〜」
「うん!パパー、いっしょにかけっこしよう!」
「かけっこ?」
「そう!こんどうんどうかいで、いちばんとるよーにがんばる!れんしゅーする!」
「お!そーかそーか。スポーツ好きなのは良い事だな。よかったなぁ、俺に似て運動出来て」
「えーん。パパがママをいじめる〜」
「あー!いけないんだあ、ママいじめちゃあ!」
「なっ、い、今のはいじめてねえだろ!」
「あ!パパが逃げるぞ!捕まえろ〜」
「つかまえろー!」

私の一言で、かけっこ、というよりは追いかけっこが始まった。私は草の上に座って、「速い速い!がんばれー!」手でメガホンを作って応援するだけだけど。小さい子供に追いかけられる大の大人の図、というのも、なかなかに微笑ましい光景だ。もちろん、いくらあの子の足がクラスで一番速いとしても、パパより速いというのはありえないようで。わざと立ち止まったり、こっちだこっちだと振り返って笑っている様子を見る限り、あの「遊び」を余裕持って楽しんでいるようだ。目を細めて二人のやり取りを見守っていると、ふいに黄色いちょうちょが私の視界を横切った。何の気なしに見渡すと、いろんな色の綺麗な花や、柔らかい草があたりに広がっている。小さい頃も、この場所に来た気がするなあ。もっと大人数で。この先にあるバーベキュー場も利用した覚えがあるなぁ。小さい頃、そう、小さい頃に。もうずうっと前。

「…いい天気だなぁ」

日の光がぽかぽかしていて、風も優しい。そよぐ草のにおいも、花々をいったりきたりするちょうちょも、いろんな景色が、もう全部が、優しい。穏やかで、平和な時間。耳に入る家族の笑い声も、ああ、いいなあ。大きく伸びをしたまま、ゆっくりと体が後ろに倒れる。草の上に寝転ぶ。ほんの少し首がくすぐったいけど、でも、そんなくすぐったさも心地よいものに変わってしまう。自然と瞼が重くなった。ああほんと、出来すぎたくらい、おだやかで、優しい時間。

たまに、思う。もしこれが全部、出来すぎた長い長い夢で、ぱちんと目が覚めた時、あの日に戻ったらどうしようって。隣に愛しい人はいなくって、「家族」が壊れたあの日に戻ったら、どうしようって。私を助けだしてくれたあの夜の出来事、全部夢だったら、って。


「なに一人で寝てんだ、こら」
「……」


その声に目を開けたら、幸男が腕を組んでむすりと私を見下ろしていた。最近私はわりと彼のことを子どもの前で「パパ」と呼ぶことが増えたのだけれど、幸男は私のことを「ママ」とは呼ばない。子どもが出来る前から、結婚する前から、気持ちが通じ合う前から、もっともっと、もうずーっと、ずうっと前から変わらない、「」という呼び方。私が返事の代わりににこりと微笑んだら、幸男は私の隣に腰を下ろした。

「追いかけっこ終わり?やっぱり歳には逆らえない?バテちゃった?」
「ちげーよ。あいつ、途中で小さい蝶見つけたらソレを追いかけ始めた」
「蝶に負けちゃったねぇ。パパよりちょうちょがいいって」
「うっせ」

ちょっとだけ拗ねたようにそう口を尖らせるから、遊んでほしいのはパパの方みたいだなぁーと微笑ましくなる。寝転んで見る空は青くて、白い雲はいろんな形を作っていて、しばらく空なんて眺める機会なかったなあ、ってますます穏やかな気持ちになって。

「私ねぇ、子どもが出来たら可愛がろうって思ってたんだけどね」
「ああ」
「実際あの子が産まれたら、なんだかすっごく、変な感じしたの」
「変ってなんだよ」
「だってあの子、自分の子どもなんだなって、不思議で。自分の血を受け継いで、自分から産まれた人間なんだよ?考えてみたら、すっごい不思議な感じじゃない?」
「そりゃ、初めての感覚だからな。俺だってそうだ」
「他所の赤ちゃんを『可愛い!』って思う気持ちとは全然違うの。あの子はじめて抱いた瞬間、なんだろう…今まで感じたこともない気持ちが、いっぱいいっぱい溢れてね」
「…犬や猫じゃねえんだから、可愛い可愛いってだけの感情じゃ終わんねえだろ」

そう、そうだね。私たぶん、勘違いしていたのかも。犬や猫を見て「欲しい!」って思って、実際飼うことになって「やったー!可愛い!」ってなるのと一緒で、「赤ちゃん可愛い!欲しい!」って気持ちのあと、実際子どもが出来たら、「やったー!可愛い!」って、それだけの気持ちで、一緒に暮らし始めるのかと思った。けど、思っていたのとは全然違う気持ちだった。もちろん、自分の子どもだし、可愛い可愛いって思うんだけど。犬猫だって家族の一員として数えるだろうけど、でも、自分の子ども、っていう、今までこの世に存在しなかった命が自分の腕の中にあることが、自分が想像していたよりずっとずっと、――ずっと、なんだろう?重かった?ううん、そうじゃなくて。それだけじゃなくて。

「幸せだなあ」

噛み締めるように、だけど、風に乗せるようにふんわりと、呟く。隣を見なくても、幸男が少し笑ったのが分かった。嬉しかったんだなあ、自分に家族が出来るのが。可愛い、だけじゃなくて。愛おしい、って気持ちを初めて知った。恋をして知る「好き」「愛しい」とは、全く違う種類の、愛おしさ。言葉を交わしたり、信じたり疑ったりして育む愛じゃない。ただ、あの命が産まれた瞬間、存在が、愛そのもの。こんな気持ちは多分、子どもが出来なきゃ抱くこともなかった。幸男がいなかったら、知ることは絶対無いと思っていた。

(一生かけたって、理解できないと思ってた。親子愛、とか)

離婚したお母さんが、言っていた。「私はあの人と夫婦じゃなくなるけど、とあの人が親子だっていうことは、一生変わらないの」って。口癖のように言っていた。お母さんの気持ちが少しでも楽になるようにと、理解者になろうと、事あるごとにお父さんの悪口を言う私に、いつもお母さんはそう言ったのだ。だけどどうしたって理解しようとしなかった。お母さんとお父さんが他人になるんだから、自分とお父さんだって他人になるはずだと、そう、信じたかったんだ。言い聞かせていた。だけど、今なら分かる気がする。お母さんの言葉の意味が。親と子が、どんな存在なのか。

「この気持ち、こう、不思議だよね。愛おしさっていうのかな。守りたいっていう気持ちがいっぱいで。この子のために生きたいっていう気持ち。ずっと傍にいたいなっていう、気持ちなの。初めて感じたことだから、不思議なの、本当に」
「…なんにも不思議じゃねえし、俺は、」
「うん」
「結構前から、その気持ち知ってる」
「え、そうなの?」
「ああ」

そう言って、そっと大きな手のひらが伸びてくる。私の髪を撫でる。優しい優しいその指に、私は自然と頬が緩んだ。幸男はこの気持ち、結構前から知ってるって言うけど。私は子どもが出来てからじゃないと自覚できなかったなあ。親子愛、っていうのとは少し違うんだろうか。私がそう思い込んでるだけで。だって幸男は子どもが生まれる前から味わったことある気持ちなんだもんね。子どもに向けた愛とは違うのかな。それとも私と幸男の抱いてる気持ちは少し違うのかな。

「幸男?」
「ん?」
「夢って、叶うのね。現実になるんだね」
「…夢?お前の?」
「うん。夢だったの。夢みたいだったの。こういうの」
「子どもがいることが?」
「ううん、そうじゃなくて。毎日、旦那さんの帰りをご飯作りながら待ったり、今日はどんなことがあったの?って子どもに聞いたり、日曜日には家族みんなで出かけて、穏やかで楽しい時間を過ごすの。毎日家族で暮らして、笑顔が絶えなくて。そんな当たり前で、とっても難しい幸せが、ずっと欲しかった」

普通の人間より、遠回りした気でいたけど。そんなことはなかった。時間はかかったけど、味わえないで一生を終える人だってもちろんいるんだ。私は、気づけた。手に入れた。

、お前、幸せ?」

そう幸男が尋ねてきたのは、初めてじゃなかった。前にも尋ねられたことがある。あれはいつだったろう。結婚式のあとだったかな。結婚式の最中だったかな。子どもができたって分かった日かな。いつだったかな。でも、「今、幸せ?」じゃなくて、「幸せ?」とだけ聞く。私の生きてきたすべては、幸せなものになっているかと、尋ねる。正直、昔は、何年も前は、幸せだなんて口が裂けても言いたくなかった。だって自分より幸せな人間なんて、そこら中に転がっている気がしたからだ。だけど、今、私の答えは決まっている。

「幸せだよ。私より幸せな人間なんていないんじゃないかってくらい。世界で一番幸せだよ」
「…そうか」
「うん」
「世界で一番、は言いすぎじゃねえか」
「そんなことない」
「んなこと言ったら、俺が一番幸せになる」
「ええ?そんなことない。幸男より私のほうが幸せだと思う」
「そうじゃねーよ」
「そうって、どう?なんで?」
「…お前が幸せなら、」
「ママー!おはなつんだ!みてみて!」

私と幸男が話している所に爆弾みたいに突っ込んできて、寝転んでる私の頭上から摘んだお花をぱらぱらと降らす。あははって笑ったら、口の中に花が入りそうで慌てて顔を横にした。だけど、降らせ終われば「綺麗だね、ありがとう!」って微笑む。そうするとその子は嬉しそうに歯を見せて笑った。幸男も横で、そんな様子に微笑む。おいで、と手を伸ばせば、その小さな、私と幸男のたからものみたいな存在が私に抱きつく形で胸に飛び込んでくる。幸男も横になって、肘を付き、目を細めて私たちを眺めていた。私と幸男の真ん中に移動したその子は、ママとパパの顔を交互に見ながら、摘んだお花をそれぞれに差し出す。

「おはな、きれいだね」
「綺麗だねぇ」
「ママ、おはな、すき?」
「好きだよ。でも、ママはあなたのほうが好きよ」
「えへへっ」
「あなたも、ママのこと好き?」
「すきー!だいすき!パパのこともだーいすき!」
「はは、ありがとな。俺も好きだよ」
「パパは、ママのこともだいすきだよね!」
「ああ。…よ、よく知ってんな、お前」
「さっきママがいってた。ママも、パパがだいすきなんだよ!」
「…ひみつって言ったのに…!」
「なんで秘密にする必要があんだよ、馬鹿」
「そんなこと言って幸男も今照れたじゃない!」
「て、照れてねーよっ!」
「子どもには素直に好きって言えて奥さんには照れて言えないんだー」
「はあ!?だから照れてねーって!」
「ねえ。ママとパパ、どっちが好き?」

目を細めて笑いながら、そう口にする。幸男がぴたりと口を噤んで、少し驚いたような顔で私を見た。真意を探るような瞳。不安がるというよりは、私を心配するような目だった。べつにそんな目で見なくたって、もう、なんにも怖くはないよ。心配しないで。だって私、この子がなんて答えるか知っているもの。

「ママもパパも、どっちもすき!みんな、みんなのことだいすきだね!」

ほらね。私は笑って、ぎゅうっと我が子を腕の中に抱き締める。「そうだね、三人とも三人が大好きだね。もうずっと、絶対離れ離れになんかならないね」言いながら、なんでだろうな、少し泣きたくなってくる。幸せすぎて泣きそうって、こういう気持ちかな。結婚式でもこんな気持ちだったかな。こんな小さな腕じゃ抱えきれないくらいの幸せが、今、私の中にあるよ。手放したくなくって、ずっと抱きしめていたいよ。抱き締める力を強めたら、ふいに自分も幸男の胸の中に抱き寄せられた。あたたかい。人の温もりってあったかい。家族って、愛って、あったかい。笑っちゃうくらい恥ずかしくって、笑っちゃうくらい当たり前なことを、思った。「」と幸男が私の名前を呼ぶ。昔からなんにも変わらない、優しい声。


「あいしてる」


もう疑うことはなかった。あの日の私みたいに弱くない。幸せを知っているから、幸せだから、幸せになることを疑いはしない。私はこれから先ずっとずっと、絶対に彼のことが好きで、彼も私のことをずっと、絶対、愛してくれる。この気持ちが、愛というもの。幸せというもの。もうずっとなくさない。私は、世界で一番幸せになった。そしてこれからも、ずっと。


PAIN KILLER