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「はい。ただいま戻りました」 僕が扉を開ける音に気付いた彼女が、部屋の奥からゆるく「おかえり」を投げて、あんまりそのゆるさに合わせられなかった僕の「ただいま戻りました」という部下みたいな返し。だけどそのミスマッチさを上書きするように、彼女のほうが今度は「うむ、御苦労であった」と返事をした。そういうなんでもない、気遣いとすら思っていないであろう当たり前の彼女の優しさとお茶目さが、僕にとっては心地良いものに感じる。 「夕飯の準備用に言われたものは全部買えたと思うんですが…あの、『この間食べたチョコのヤツ』って何ですか?これで合ってます?」 「ん?あー…あっ?何これ、ミルクティー味が出てたんだ!?初めて見た!」 「あ、これじゃなかったんですね。すみません」 「ううん!でもこれ!合ってる!このお菓子!新しい味があるならそっちで正解!さすが黒子〜っち」 以心伝心だぞ!と嬉しそうな声で笑って、僕がスーパーの袋から取り出したお菓子に手を伸ばす。ああ、よかった、以心伝心で。「これが食べたかったんじゃないよ。買い物、自分が行けばよかった」と言われてしまったら困る。前までちょっとした買い物も外出もなんでも二人でしていたけど、最近は主に僕一人だ。その分、彼女の希望通りのものを買ってきてあげないと、申し訳ない。 「スーパー混んでた?」 「まあまあ、ですかね。抜けてる棚はありましたけど、普通に商品は並んでますし、お客さんもいましたよ」 「そっかー。ごめんね、買い物係いっつもで。今度は私行くよ」 「いえ、これくらいは。さんは家にいてくれて大丈夫ですよ」 「キャッ!黒子が私を人混みから守ってくれる!きゃっきゃ!」 「いえ、さんが行ったら無駄なもの買いすぎると思うので」 「きゃ……エッ!ばれてる」 「…あ、でも、家にずっといるのも苦痛ですか。気晴らしになるなら、買い物も…」 「ううん!私おうち好きだし全然苦痛じゃないよ。ずーっと家にいたい。ごろごろ寝てた〜い」 「そうですか。僕も基本はインドア派なので、時間の潰し方には困りませんけど」 そうだね、この前黒子が進めてくれた本おもしろかったね、なんて話しながら、スーパーの袋からあれこれ取り出して、冷蔵庫にしまっていく。二人分の食事を作るための材料。買い出しに行く前に、「今日のご飯何がいい?」って二人で話し合って決めたメニューのためのもの。なんとなく、じんわり、満たされるものがある。それを見るだけで。さんと過ごしているというだけで。「お菓子は今食べる!」と先ほどのチョコレートのお菓子を開け始める彼女にも、少し笑った。僕にもすすめようとこちらにお菓子を差し出しかけて、あ、と何かに気付いた彼女が首を捻る。 「黒子、マスクしてるとさ」 「…あ。そういえばつけたままでした」 「口元見えないじゃん?目元だけじゃん?たぶん周りから見たら、表情の変化、いつも以上にめちゃくちゃわかりにくいね」 あはは、と笑う声に、む、と何も言えなくなる。そんな僕の口元も、やっぱりマスクに覆われていてわからないとは思うけど。いや、でも、きっと。 「表情、わからないですか?」 「多分みんなわかんないと思うよー?元から分かりやすくはないしね!」 「みんなじゃなくて、あなたは」 「私?私はねぇ…」 たしかに、マスクを着けるのが当たり前の日常になってる今、表情を読み取ってもらいづらいというのは、少し不便なのかもしれない。いや、彼女の言う通り僕は普段からそうなのかもしれないけれど。わかりにくいのかもしれないけれど。でも、さんは、わかっていると思う。そんな気がする。僕が、言いたいこと。僕が、あなたがいるから、こういう日々に、退屈なんかしないってこと。 「当ててみせましょう。黒子が今考えていることを」 「はい、お願いします」 「ずばり。『お外から帰ったので手洗いうがいしなくちゃ』ですね。そうしないとお菓子は食べられない」 「すごいですね。正解です」 「やったね!以心伝心ポイント獲得です」 「おめでとうございます」 そうだった、手を洗わなくては。遠回しに促されて、気づいた。 「そしてそのあと私にただいまのちゅーをしたいと思っている!」 「そうですね。マスクを外してから」 「マスク越しっていうのもなんか、ディストピア感あってすてき」 「嫌ですよ」 「嫌ですねえ」 蛇口を捻る僕の後ろで、彼女が楽しそうに笑う。ああ、僕は、本当にこの人のことが好きだな。唐突に、改めて、そう思った。気付いていないかな、気付かないかな、僕の言いたいこと、考えていること。僕のわかりにくい表情からは、伝わらないかな。マスクを取ったら、伝わるかな。唇を重ねれば、伝わるかな。 僕の幸せは君の声で笑うよ //200504 |