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「真ちゃん!」 俺のことをこの呼び方で呼ぶ人物は、一人しかいない。いないはずだった。が、今聞こえた声は高尾のものではない。高尾は今目の前にいる。俺の前方の席に座って、体だけこちらに向けてちょうどどうでもいい話をべらべら喋っていたところだった。そんな高尾も、どこからか聞こえたその「真ちゃん」というフレーズに驚き、首を捻った。俺を呼んだ人物は教室の入口のドアを開け放って、今一度「真ちゃん真ちゃん!」とデカイ声で騒いでいる。高尾以外のクラスメートの数人もそちらを見ている。その視線を集めても、全く気にしない(むしろ気づいていない)とでもいうように、ヤツはきょろきょろと教室の中を見渡していた。「…なあ、真ちゃん。チャン呼んでるけど?」これは高尾だ。俺がの方へ行く気配がないことに気づいて、そう耳打ちしてきた。しかし俺はすぐにから視線を外す。 「勝手にやらせておけ」 「ギャハハ!相変わらずつっめてーの!貴重な『おさななじみ』だろ〜?」 「うるさいのだよ。アイツはああやってデカイ声を出せば俺が勝手に寄って来ると思っている。いい加減それはもう通用しないということを覚えさせねばならん」 「しつけかよ!えっ何真ちゃん調教とかそういう趣味し」 調子よく椅子を傾けさせていた高尾のその椅子の足を思い切り蹴る。バランスを崩した。すかさず机を引いてそのまま倒れさせようとしたのに失敗した。ガッと俺の机に手をつき、椅子ごと倒れるのを回避した高尾は「あぶねえだろ!」と文句を言っていたが無視をする。そんな俺の態度が気に入らないのか、高尾は口を尖らせながら立ち上がり、「じゃあ真ちゃんの代わりに俺がちゃんの相手してきてやるよ」と教室の出入り口へ向かった。 「お〜い!ちゃん、こっちこっちー」 「…フン」 手をブンブン振りながら近づいてきた高尾に気づき、へらりと笑う。その様子を横目でちらりと見やって、溜息を吐く。俺は自分の席に座ったまま。用があるなら勝手に入ってくればいいだろう、別に他のクラスの生徒は絶対に踏み入れてはいけないというわけでもないだろうに。俺に用があるなら、俺のところに来ればいいんだ。ノートと教科書をトントンと机の上で軽く叩いて整える。ちらりと高尾とのほうを見る。まだ話している。(おい、俺に用があったんじゃないのか。なんで高尾とニコニコ話しているのだよお前は)じとりとそちらを睨んでいると、高尾が笑いながらくしゃくしゃとの頭を撫でた。教科書をトントン、どころか思い切りバシン!と机に叩きつける。わりと大きな音がした。クラスメートの数人がこちらを見る。 「……(なんの話をしているのだよあいつらは…!)」 いらいらしていると、高尾がふいにこちらを振り返り、何やらに耳打ちしてから、俺を指さした。人を指さすとは腹立たしいやつめ。そう思っていると、「あ、なーんだ真ちゃんいたー!」…デカイ声を出してが俺を指さした。だめだ、こいつらはもう、だめだ。無視しようと思ったが、クラスメートの視線がそろそろ痛くなってきたので俺はガタンと席を立つ。そのままツカツカと達のほうへ近づく。 「いちいちクラス全体に注目されるような行動をするんじゃないといつも言っているだろう」 「え?私のクラスここじゃないよ!真ちゃんと高尾くんのクラスじゃんここ!」 「そんなこと知ってるのだよ!(だめだほんとうにこいつははなしがつうじない)」 「ぶっは!あーやっぱおもしれーのな〜ちゃん!」 「あ。あのね真ちゃん真ちゃん!私真ちゃんのこと探してたんだけどさ!」 「……」 「…えーと」 「なんだ」 「…えーと?なんだっけ?」 「ぎゃはは!俺に訊くの!?」 「だって呼んでるのに真ちゃんがなかなか出てこないから!忘れちゃったじゃんか!」 頬を膨らませて俺を見上げる。高尾がげらげらと下品な笑い声をあげながら、その頭をまたわしゃわしゃと撫でる。途端に苛立ちが募って、俺は思わず大きな舌打ちを漏らす。それに耳聡く気づいた高尾はこちらを振り返るが、驚くわけでもなく、むしろ狙ってやったかのように、俺の不機嫌そうな顔を見て笑いを堪えていた。苛立つ。 「…用が無いなら俺は席に戻る。お前もクラスに帰れ、」 「えー!やだ!私が用事思い出すまで真ちゃんおしゃべりしよう!多分そのうち思い出すから!」 「断るのだよ」 「えーえーえー真ちゃん冷たい!真ちゃんの心はかき氷の苺味のようだね!」 「ぶは!意味わかんねー例え!つかなんであえてのイチゴ!そこはメロンとかじゃねえの!」 「だって私イチゴ味が一番好きだもん!あ、そーだあのね夏に真ちゃんちでかき氷を作ってね!」 「どうでもいい。自分のクラスに帰れ。戻るぞ高尾」 「はは!あー、え?ああ俺はいーや、もうちょっとちゃんとおしゃべりしてるから」 「……は」 「さっきまでの話の続きしよーぜ。あ、いーやかき氷の話だっけ?そっち先に話してよ」 胡散臭いほどの微笑みを浮かべて高尾はに話の続きを促す。もにっこりと笑ってそれに応えようとする。ぶちりと何かが千切れたような音と共に、俺の苛立ちがいよいよ頂点に達する。(さっきの話、とは何だ)(さっきからお前らは何を楽しそうにべらべら喋っていたんだ)が身振り手振りぺらぺら喋り出した直後、俺はの頭の上に手を置く。がしりと上から掴み上げるように、手のひらを置く。俺から見ると随分低い位置にあるその頭。「ぎにゃ!」が小さく訳の分からない悲鳴を上げるが、ぎぎぎと振り返ったやつの顔は怯えているようには見えない。ただ不思議そうに、丸い目でこちらを見上げていた。 「え?なになに真ちゃん!私とおしゃべりしてくれるの!?」 「ぶっ くく…真ちゃん分り易すぎ!ひー、ウケる〜」 「………」 「ね!ね!真ちゃん真ちゃん!しーんちゃん!」 「ほら呼んでるぜ?しーんちゃん♡」 とりあえず高尾を蹴り飛ばして教室の中に押し込んでからぴしゃりと戸を閉める。 「真ちゃん真ちゃん、かわいそうだよ高尾くん蹴ったら」 「放っておけ。それで、どういうつもりなのだよ」 「え。真ちゃん何がー?」 「その呼び方で呼ぶな、と言っただろう」 ぎろりと睨みつけると、はきょとんと丸い目をもっと丸くして、首を傾げる。「怒ったの?」「わざとだろう。そこがいらつくのだよ」「わざとじゃなかったらいい?」「そう言い出す時点でわざとだ」くどくどと俺が説教している間に、はピンと背筋を伸ばして「あ!思い出した!」といきなり言い出した。「真ちゃん呼ぼうとした理由!うちのお母さんが北海道旅行いったときのおみやげをね、真ちゃんちにもお裾分けしたいんだって!」「そうか」「うん」「じゃあ話を戻すぞ」「うん!」「呼び方を改めろ」はにこにこと笑ったまま、首を傾げるどころか大げさに上半身を反らして「えー?」と言った。 「あのね、真ちゃん。私気づいてるよ」 「何がだ」 「あのね、もし呼び方とか変わっても、私と真太郎の関係って、昔のままだよ。今もこれからもずーっと」 へらりと笑って、が俺の手を取る。右手を。こいつの手はこんなに小さかっただろうか。無理矢理に握って、「握手握手」と上機嫌に唱えている。どういう意味の握手だ。いつも行動が突拍子もなくて困る。困るのは、いつも俺の役目だ。俺だけで、いいけれど。確かに、呼び方を変えられるのは嫌だった。昔と変わることを恐れていた部分があった。幼馴染だの、腐れ縁だの、そんなのいつまでも保たれる関係じゃないだろうと思って、離れないようにしたかった、と思う。できるだけ、昔のままで。今のままで。けれど、俺だって気づいている。(変わりたくない反面、変えたいということに) 「」 「ん?」 「高尾と、何の話をしていた」 「真ちゃんの話」 「そうか」 「嘘。真太郎のはなし!」 馬鹿め。小さく呟いて、左手をぽんとの頭に載せる。くすぐったそうに、その手を見上げる。くしゃくしゃと少し雑に頭を撫でる。そうだ、気づいている。ただの幼馴染ごときに、こんなに、高尾に触らせたくないなどと思うだろうか。思わないだろう。特別なままで在りたいのは、何も幼馴染のこの関係のままで満足したいというわけではない。そういうことに、最近、気づき始めている。お前が同じ気持ちなのかは、まだよく分からないけれど。 「あ、でもね高尾くんにね!『俺がいる前では真ちゃんって呼んでやって』って言われてるんだー!」 「…おい高尾貴様」 「え。だって真ちゃんが怒ってんの見るのおもしろくてさー。つい?みたいな?」 「『二人きりのときだけ真太郎って呼ぶのもなかなか燃えるだろ?』ってアドバイスをくれたしね!」 「なんのアドバイスなのだよ」 「まーたまたとぼけちゃってー」 「……」 「けどさ、本当にちゃんってお前の話しかしねーぜ?」 (知ってる、そんなこと) いつまでも (変わらず隣にいられればいいと思っている。だけどほんの少し欲張りにもなってもいいだろう) |