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言 葉 よ り 大切なもの (あ、やばい) 始業のチャイムが鳴る数分前、クラスメイトが好き勝手おしゃべりしたりじゃれあったりしている中、一人私は「あ、やばい」と口の中で呟いていた。「あれ」だ、また来た、「これ」。初めてではない「その感覚」に、私は息を呑んだ。暑さのせいの汗とは違う、もっと気持ち悪くて冷えきった汗がぶわっと噴き出す。やばい、な。うん、やばい。じわじわと、焦りが募って、胸の中がざわざわして、堪えきれない!といった感じに私は勢い良く椅子から立ち上がった。ガタン!と大きな音が立つはずだったんだ。私はそれを期待していた。騒がしい周囲の雑音が一瞬ぴたりと止み、「なにいきなりどうしたの」と誰かに声をかけてもらえたら、いいなあと期待していた。だけど望んだ「音」も「声」もなかった。確かに私は大袈裟に、勢いよく椅子から立ち上がったのに。「ガタン」はない。けれど、周囲の人間が音に驚いてきょとんとしている風景だけは、望みどおりのものだった。近くの席の友達が私に寄ってきた。口を動かす。彼女は、しゃべっている。私に向かってしゃべっているはずなのだ。だけど私にはただ人形のようにぱくぱくと口を動かしているようにしか見えず、それはそれで滑稽なのに、ちっともおもしろくなんかなくて笑えなくて、私は曖昧に笑って、「ごめんちょっと具合悪いから授業抜けるわ」と言った。言えているはず。友達が心配そうに眉を下げて口を動かした。あ、今のは分かる。きっと「大丈夫?」って言ったんだ。私は応えず逃げるように教室を飛び出した。 走って、走って、走って走って走って走って、走っているのに、「足音」がついてこない。 気づくと非常階段の方まで来ていて、私はきょろきょろと周りを確認する。もう授業も始まる時間だ。廊下は無人になっていた。それでいて「無音」だった。私は走ってきたせいで乱れた息を整えて、階段の二段目に腰を下ろす。廊下が、周りが、学校が、世界が、静まり返っていた。まるで死んでしまったようだ、全部が。階段の端に寄って、壁にゴン、と頭をつけた。多分「ゴン」で合っているはずだ。その音すら、分からない。私は目を閉じて、隅っこにうずくまる。膝を折りたたんで、小さく小さくなった。目をつむれば、真っ暗で、なんにもなくなった。だけど、それでいいや。そんなに私から世界を切り離したいんなら、視界だってくれてやろう。もう、いい。もういい。怖い。 「なんで聞こえないの」 水の中にいるようでもあるし、耳にきっちり栓をされたようでもあるし。なんだろう、閉塞感が、ひどい。たまにあるんだ。「あ」と思った時にはもう遅い。一瞬で私は、ぽいと無音の世界に放り込まれる。最近、たまにある。一時的なもので、早ければ数分、長ければ数十分程度で、それは治るけれど。どんな理由でこうなってしまうのかは分からない。ただ気づいたら教室内のザワザワが消えていて、椅子から立ち上がった音がしなくて、友だちが喋りかけていても声が届かない。うっすら、小さな小さな音はしている気がしても、その内容は聞き取れない。その微かな音が言葉になってくれない。聞こえない。聞こえていない。今だって本当は授業中に関わらずあちこちの教室から声がしていておかしくない。喋り声、チョークの音、先生の話、ノートを捲る音。生活においてそんな音があふれているはずなのに、今私には何も聞こえない。授業に支障が出るだろうととりあえず教室から出てきたけれど、本当はとにかく一人になりたかっただけかもしれない。この状態で人のたくさんいる「絶対に音がたくさんあるはずの場所」にいたくなかった。一人になって現実逃避したかったんだきっと。だって、こんな、自分だけ周りから切り離されたようで、怖い。夢であってほしい。早く戻れ私の耳。早く戻れ。 ふと、誰かに肩をトントンと叩かれた。びくりと私は身を強張らせる。誰か、先生にでも見つかったんだろうか。のろのろと顔を上げると、見覚えのある長身の男が立っていた。っていうか、クラスメートだ。そして同じ中学だった。 「水戸部」 「………」 「授業は?」 「……」 彼は口を結んだまま首を横に振り、しゅんとしたように眉を下げた。いや、しゅんとしているんじゃない、これは心配してるんだ。そもそも、授業は?と訊いたところで返事が返ってくるとは期待してない。こいつは本当に、冗談抜きに、喋らないから。私がそれ以上質問しないでいると、水戸部は黙って私の隣に腰掛けた。何か言いたそうにしているけれど、彼が口を開くことはない。言いたいことがあるなら、言えばいいのに。そう思ったけれど、言ってくれたところでどうせ今の私には聞こえないんだった。 「水戸部?」 自分の声がどれくらいの音量で相手に届いているのか分からなくて、不安になる。名前を呼んでから、続く言葉が見つからなかった。追いかけてきてくれたの?とか、それはどうして?とか、聞きたいけど。なんとなく聞けなくて、黙って私はまた自分の膝に顔をうずめた。うずめながら、「水戸部」ともう一度彼の名前を呼ぶ。すると、頭の上にふわりと大きな手のひらが降ってきて、子どもをあやすようによしよしと何度も撫でられる。心配されている。慰められている。それが痛いほど分かる。 「最近ね、耳がおかしいの。音が聞こえなくなるの。一時的にだけど」 「……」 「あはは。病院行けよって思うでしょ。けど時間ないしさー少し経ったらいつも治るから放っといちゃってさー」 「…」 「っていうか多分病院行くのが怖いんだよね。原因分かるのが怖いの。病気だったらどうしようって思うけど、病気だって認めたら余計、怖くて生きていけなくなる気がして、意地はっちゃってるというか、たいしたことないよなーって、無理矢理思ってて」 「……」 「うん、平気平気」 それまで優しく控えめに撫でていた手が、私の言葉を聞いて少し雑にわしゃわしゃと撫でてきた。髪をわざとぐしゃぐしゃにするみたいに。それが水戸部のどんな心情を表しているのかは、あんまり分からない。怒ってるのかなあ。ばかなこと言ってないでちゃんと病院に行けって、いってるのかなぁ。言ってるのかもしれないけど、水戸部は「言わない」し、私は「聞こえない」んだ。世界は未だに私を無音の世界から解放してくれない。閉塞感が、圧迫感にも繋がって、なんだか息苦しく思える。閉じ込められてる気分だ。音が聞こえないだけなのに。「だけ」では済まない。世界に一人ぼっちにされたみたいだ。顔を上げて水戸部の顔を見れば、目が合って、困ったように眉を下げて。それは「見えてる」のに、聞こえるはずの雑音がBGMにならないだけで、どうしてこんなに現実味のない、遠いものに見えるんだろう。無声映画の中に入り込んだみたいだ。しばらくトラウマになりそうだなあ無声映画。絶対見たくない。 「私達って、へんだね。水戸部は喋らないけど、私どうせ聞こえないから、ちょうどいいね」 水戸部は少し悲しそうに、私の言葉を黙って聞いていた。 「ちょうどいいんだよ。水戸部で良かった。嬉しかったの。ばかみたいだけど、今この瞬間、水戸部は私のためにいて、私は水戸部のためにいるんじゃないかとすらおもえてしまう。馬鹿みたいだねえ、わたし」 世界に追い出されて、仲間はずれにされて、違う空間に放り出されて。私が私の居場所を失ったんじゃないかと思っても、水戸部がいてくれるなら。怖くて怖くてたまらないのに、隣にいる水戸部という存在が頼もしくて、私はちょっとだけ笑う。耳が聞こえなくても、水戸部とならいいんだ、水戸部の隣にはいられるんだ、と思えば思うほど、ほっとした。大丈夫だ、私は消えてしまってなんかいないんだ。世界に追い出されてなんかいないんだ。ちゃんと存在していられるんだ。気づいたら、水戸部の制服の端をぎゅっと掴んでいた。「ねえ水戸部」 「わたし、いつか耳、ぜんぜん聞こえなくなるのかなぁ…」 上手く声にならない。かすれているのかもわからないけれど。自分の声すら、遠い。私は唇を噛んで、俯いて、目から零れそうになった熱いものをどうにか押し戻そうとしていた。泣いたらだめだ。わかんないけど、たぶん、だめだ。水戸部の大きな手のひらが、ふいに私の肩に置かれた。そしてぐいと引き寄せられて、私はそのまま頭を水戸部に預ける。私に触れている手が、あつい。 「 大丈夫だから 」 声が、聞こえた。聞こえた気がしただけかもしれない。でも、あれ、今の声は?ううん、あれ、なんで今、聞こえた?え、と私が唇を小さく開く。ぱちんと目が覚めたように、「感覚」が戻ってきていた。それまでの無音じゃなくて、いつもどおりの。身近な教室から届く、黒板に板書する音、ノートを捲る音、先生の授業、どこかのクラスが英語の発音練習してる、どこかのクラスの生徒が大きい声で先生に質問してる。ざわざわ、ざわざわ。ああ、風の音だってする。私は顔を上げて水戸部を見た。いつもより近い位置にある水戸部の顔を見て、密着してる事実も、今更恥ずかしくもなんともなく、私は小さく、呟いた。 「聞こえた…よ。治ったみたい。ごめん、大丈夫、心配かけて」 自分でも状況が把握できてないみたいに、どこか間の抜けた声が出る。言いながら、水戸部の目を覗きこんだ。ふ、と安心したように微笑むので、私はぽかんと口を開けて、それからもう一度「聞こえたよ」と繰り返した。その言葉に今度は水戸部がきょとんとするけど、「聞こえたから」と私はさらに念を押す。すぐに彼はふわりと笑って、よかったねとでも言いたげに頭を撫でてくれた。違うよ、耳が聞こえた、じゃなくて、それよりも。ねえ聞こえたの、あなたの声。 |