けれどぽんと簡単に頭から抜け落ちたことは、同じようにぽんと簡単に思い出せたりするものだ。

部活行こうぜと声をかけて真ちゃんと二人で部室に向かう途中、ふいに忘れ物をしたことに気づいて俺だけ教室にUターンした。たったっと上履きで廊下を軽く走り、教室のドアを開けた瞬間、ちょうど扉を引こうと手を前に伸ばした状態のサンに出くわす。相手はぴしっとその状態で石化し、俺もいきなり目の前に人がいて「うおっ」と一度身を引いた。けど、それも一瞬。ぽかんとつっ立っているのがさんで、教室には他に誰もいないということに気づいた俺は、なんだかイタズラを思いついた子どものようにピンときて、ニィっと笑みを浮かべた。昼間、俺に話しかけようとして結局逃走したサン。いつもガチガチに緊張しまくりですぐ顔真っ赤にするサン。石化が徐々に解け始めた彼女が、さーっと顔の色を変えて一歩後ろへ下がる。それと同時に俺が一歩前へ踏み出した。

「教室出ンの最後?もしかして日直でもないのに戸締り消灯確認してるとかそんな感じ?ってのは俺の勝手なイメージだけど」
「あ…、え、えっと、あの…」

大人しいイイ子ちゃん。真面目ちゃん。そんな押し付けイメージ。俺の言葉にどこから返していくか迷うように、さんはぱくぱく口を動かし、「えっと」「あの」「その」を繰り返した。けれどその先の言葉が出てくることはなく、みるみる焦り始めて顔が赤くなり、摺り足でだんだん後ろへ下がっていく。そういう反応されるのは想定内…っていうかむしろ本当に予想通りの反応だったから俺は噴き出すのを堪えて、表面上ニコニコニコニコをずーっと続ける。さんの目が泳ぐ。たぶん、人の目が見れないタイプの人間なんだろーなーと。出口は俺が塞いでいて、流れ的に逃げられなくて、さんがだんだん涙目になってくる。顔を真っ赤にしながら。怯える小動物のようだ。べつに俺は取って食おうってわけじゃないのに。

「やー、俺忘れ物しちゃってさー。サンは?」
「……う、あの…わ、わたしは……」
「うんうん」
「わた、私も……」
「あ、サンも忘れ物」

ちょっと意外だなぁという感じで、へぇ〜と軽く相槌を打つ。さんが余計に恥ずかしそうに肩をすぼめた。相変わらず、泣きそうな顔。べつに責めてるわけじゃないのに、今にもごめんなさいごめんなさい叱らないでくださいとでも言ってきそうな。まあそういう反応が俺のイタズラ心を刺激するわけですけど。「ああ、けど今教室から出ようとしたってことは、もう忘れ物回収し終わったのか」訊きながら、俺は自分の席に移動して机の中からノートを引っ張りだした。俺の忘れ物もすんなり回収終わり。おどおどしながら視線を泳がせているサンは、やっぱりなかなか俺の質問に答えようとしないけど。少し経てば恐る恐るといった様子で、声を発した。

「…な、無かった……です」
「へ?…えーと、教室にあると思って取りに来たのに、やっぱり無かったってこと?」

確認するように俺が言うと、さんがこくこくと頷いた。そりゃあとんだ無駄足だったみたいだなぁ。相手が真ちゃんとかだったらけらけら笑いながら「あははドンマ〜イ真ちゃんドジっ子ー」なんてからかってるんだけど相手が相手だから言わない。災難だったなー、と言いつつ、「ちなみに忘れ物…つーか探しものって何?」と付け加える。さんが俺の言葉にぎくりと肩を強張らせ、まばたきを異常な回数繰り返し、それから俯いてスカートをきゅっと握り、もごもご口ごもった。そんな言いづらいものなのか?なかなか答えないさんに少しだけ焦れてきた頃、ぽつりと、小声でやっと返事が返ってきた。

「自転車の、鍵…を…」
「え。チャリ鍵?サンってチャリ通だったんだ…っつーかそれ見つからなきゃキツくね?」
「探しても、無いので……あ、諦めて歩いて、帰ろうかと……」
「ふーん?」

ああ、ちょうど諦めて帰ろうとしたところで俺が教室に顔を出したわけか。そんで、足止めされちゃったわけね。理由を一通り話し終え、俺も納得したようにふぅんと相槌を打ったところで、ようやくさんはほっとしたように肩の力を抜き、じりじりと教室のドアへ向かう。早く帰らせてください早くこの場から解放してください、と言わんばかりに。だけどあからさまにそんな様子見せられちゃあ、俺も黙って帰すのおもしろくないなー、なんて。ちょっと意地悪するつもりで、「サンっ」と語尾に星マークでも付きそうなくらい弾ませた声で名前を呼んだ。音符マークでも良し。すると大袈裟すぎるくらい大袈裟にさんの肩が縦に揺れて、びくびく震えながら俺の方を見た。半泣き。もうお願いですから構わないでください、な弱々しいオーラが出てるけど気にしない。

「俺も一緒に探したげるよ。鞄の中見た?」
「み、み、見たけど、な、なかったので おおおおかまいなく…」
「あー、じゃあポケット!片っ端から見たほうがいいってー、鞄ももっかい中身出してってさ」

うわあめちゃくちゃ困ってる。俺の言葉にどんどん追い詰められていくみたいにさんががくがくと震えた。いいねーそのキョドっぷり。超ウケる。かなり困ってもう逃げ出したくてたまらないだろうに、逆らえないという頭もあるのか、びくびくしながらポケットの中身を机の上に出す。取り調べみたいな威圧感は出した覚えないんだけど、万引きした商品を店員に差し出して謝罪するような、そんな感じ。コレが済んだら解放される、みたいな考えなのか、ポケットの中身を出し終えるとそのままそそくさと鞄のファスナーを開けた。無いって確認して納得して許してください、みたいな?もちろん俺は心底彼女の自転車の鍵の行方を心配しているわけでも親切心が働いているわけでもなく、暇潰しのような、からかい半分のような、気まぐれな言動だったわけだけど。ふと、彼女がポケットから出した「あるもの」に目が止まる。俺は音を立てずそーっと近づき、それを拾い上げる。サンは鞄の中をまさぐるのに夢中で俺に気づかない。昼間のやり取りを思い出す。紙で手を切った俺、絆創膏を切らしたと言った真ちゃん、誰か絆創膏持ってないかと呼びかけた俺、さんと目が合った、さんが立ち上がる、こっちへ来る、向井が俺に絆創膏を渡す、そして逃げるさん。

「………」
「……」
「…さん」
「は、はいっ!?」
「もしかして昼間さ、俺の方見たとき?コレ、渡そうとしてた?」

そう言って顔の前で絆創膏をぶらぶらさせると、サンは目をぱちくりさせて、ぽかーんと口を開けて、ちくたくちくたくそのまま数秒固まって、そして急にぼんっと顔を赤くした。泣きそうに眉を下げて、っていうかもう本当に目に涙浮かべて、バッと俺の手から絆創膏を奪い取ると、どしゃあっとその場に崩れ落ち、「ごめんなさい!!」と大きな声で謝ってきた。これにはさすがに俺もへらへら笑っていられない。え、と今度はこっちが口をあんぐり開ける番。…っていうか、え、ちょ…マジ、え?なになんでそんな必死に謝ってんの。俺べつに怒ってないっていうか怒られるようなことじゃなくねふつうに考えて。え?は?え?え?どうしたらいいのか分からず俺が柄にもなくおろおろしてると、さんが涙声でさらに頭を下げてゴメンナサイゴメンナサイを繰り返す。ひたすら焦る俺。さっきまでの余裕はなくなった俺。しかし形勢逆転どころか二人してオロオロしてるっていうこの状況。

「本当にごめんなさいごめんなさい図々しく名乗り出ようとしてすみませんでした話しかけようとしてほんとすみませんでした身の程知らずでした私なんかの絆創膏なんて使わなくてほんといいんでほんとごめんなさい!!」
「いや、だからべつに、え?え!?いや謝れとか言ってねーから俺!そうなのかなーって聞いただけだし!?」

うわー俺女の子に土下座させてる最低男なんですけどどうすればいいんだこれ。とりあえず他人の目が恐ろしくて教室のドアや窓際をキョロキョロ見回して人が見ていないことを確認。その間にも呪いの言葉のようにさんは頭を下げて「ほんとごめんなさい調子乗りましたすみませんでしたごめんなさいごめんなさい」と唱えている。なんとかその壊れたカセットテープ並みの声をぶち切ろうと、「ストップストップ!ちょい落ち着いて深呼吸しようぜさん!」と声をかけると、やっと止まってくれた。恐る恐る、下げていた頭をもちあげて、俺のことを見上げる。涙を瞳いっぱいに溜めて、今にもぶわっと泣き出しそうな顔で。謝罪が中断したことに一瞬ほっとするも、未だ頭の中でさっきのかなり必死なゴメンナサイゴメンナサイが流れていて、…、…いやだめだここは笑っちゃいけない、笑うところじゃない、と言い聞かせているのに口元やら腹筋がぴくぴく震える。怯えつつも、ちょっと不思議そうにサンが首をかしげる。それでもう、堪えられなかった。

「ぶっ」
「あ、あの、すすすいません高尾くん…なんかもう本当ごめんなさい…」
「いや〜、だからさ?…なんっつーか、なんだ、その…サンいいわ!超おもしれえ!」
「へ?」
「謝られる意味がわかんねーし!必死すぎるし!」

ついに隠さずけらけら笑い出す俺に、さんが頭にハテナを浮かべながらアワアワし始める。何はなくともとりあえず困ったら謝るという信条でもあるのか、「はい、あの、すみませんでした」なんて言ってる。これまた俺のツボにはまって、「まだあやまんのかよ!」とツッコミながらげらげら笑い続けた。腹が痛い。ちょーうける、何この人。なかなか周りにいないタイプの女子で、いちいち反応が楽しい。未だ床にぺたりと座り込んでいるサンの肩をぽんぽん叩いて、「まーとにかくさ!」と励ますように声をかける。ぽかんとした顔でさんは俺を見上げているけれど、その目に浮かんでいた涙はもう乾いてきていた。

サンいい子すぎっしょ!絆創膏一つであんな…ねぇ?」
「ね、ねぇ、と言われましても…ご、ごめんなさい…」
「いやいや嬉しいんだって!超感動!…あ、そーだ一応俺貰っといていい?バンソーコ」
「ででででも私の絆創膏は向井さんのやつみたいにピンクでも水玉でもなくてかわいくないし…」
「ぶはっ!え、何それそこ気にするとこ!?サンぜってーズレてる!けどそこがウケる!あははは!!」

相変わらず笑いの堪えきれてない弾んだ声で言う俺と、相変わらずおどおどあわあわしてるさん。だけど、まだ断固として手の中の絆創膏を渡そうとしない。だから俺はわざとらしくにんまり笑って、「いーじゃん。一度は俺に渡そうとしたんでしょ。ならもうそれ半分くらい俺のものってことじゃね?」と我ながらジャイアニズムな脅迫を持ちかけた。だいぶ無理のある言い分だったと思うんだけど、さんはびくっと身を引いて、おなじみの「ごごごごめんなさい」を口にしながらおずおずと絆創膏を差し出してくる。確かに今俺の手に貼ってある絆創膏とは違う、ふつーの、ごくごくふつーの、絆創膏。目を細めて、にぃと笑う。あーおもしろい。これ渡すだけなのに、この子はあんな、必死に、ねぇ。思い出して、また少し笑い出しそうになった。だけど平然を装ってポケットに絆創膏を突っ込んで、サンに向き直る。見れば、そそくさと荷物をまとめているところだった。おー、ほんとにいつでも逃げ腰だな。

「んで結局鍵ねーの?」
「あ、はい、まあ…でも職員室いってみます…落とし物で届いてるかもしれないし…」

一緒に探したげるよと一度口にしている手前、見つからないまま帰すのもなんだか気がひける。頭の後ろで手を組んで、「あ、じゃあ俺もついてってやろーか?」と言おうとしたとき、サンが珍しく、俺と目を真っ直ぐに合わせた。「た、高尾くんは部活があると思うので、私に構わず行ってください…お時間を取らせてしまってすみませんでした本当ごめんなさいごめんなさいなんかもういろいろとごめんなさい」うん、目は合わせてくれたけど言ってることは相変わらず腰が低いというか自分を卑下しすぎっていうか。言い終わるなり、深々と頭を下げる。俺が何か言おうと口を開きかけたところで、ダッシュで出口に向かいそのままのスピードを保ちながら廊下を疾走していった。あっという間に、いなくなる。教室に残された俺は、逃げ足の速さにぽかーんとして、それからすぐ腹を抱えて笑い出した。何あの人、ほんと逃げることだけに必死すぎ!下手に出すぎ!一人教室でひいひい笑ってる俺の姿はかなり異常だったろうけど、誰も見ていないんだから構わない。そこへ、俺の携帯がヴーヴー鳴った。

「く、っはは!あーもしもし真ちゃん?いいとこに電話してくれたわー、聞いてくれよ!今さぁ〜……ん?あー、わかってるわかってる今行くって悪い悪い!んじゃ後で話すから!今俺超おもしろ、」



あ。ひでえ電話切られた。