サン!…っさんってば!」

追いかけてこられるなんて予想してなかった。背後から聞こえた私を呼ぶ声に、うるさかった心臓がより一層大きな音を立てる。気づいた時には全力疾走だった。廊下を歩く人達が迷惑そうに、怪訝そうに眉を寄せているのにも構っていられない。とにかく、逃げなきゃ、逃げなきゃ。そればっかりが頭の中をぐるぐる回る。こんなところ先生に見つかったら絶対怒られる。そうしたら私の後ろを走っている高尾くんも一緒になって怒られちゃうんだろうか、廊下で追いかけっこなんかしてるんじゃない!って。そんな想像してさーっと自分の顔が青くなっていくのが分かる。だけど、だけど、どうしたって今高尾くんと顔を合わせちゃいけない気がするんだ。さっきの教室での高尾くんの言葉が頭のなかで何度も何度も繰り返される。

――俺とサンがキスなんかするわけねぇだろ。

頭が痛くなるくらい、恥ずかしさで死にそうになった。するわけない、あたりまえだ。するわけない、のに、私の夢の中で繰り返されるあの行為。するわけない、高尾くんはしたくない、当たり前だ、好きでもない相手、恋人でもない相手、当たり前だ。嫌に決まってる。なのに、なのに、あんな夢を見る、私。キスをさせてる、私。最低だ、気持ち悪い気持ち悪い、私。今までだってさんざん申し訳なさを抱いていたはずなのに、高尾くんが優しいから、きっと心のどこかでそれに甘えていた。だけど今、高尾くん本人の口から、きもちわるいって言われたみたいな気分になって、恥ずかしくて、消えたいくらいに、――かなしい、んだ。

「つかまえたっ」

腕をぱしりと誰かの手が掴む。誰かって、もちろん、「つかまえた」っていう声の主。私を追いかけて走ってきた男の子。短い距離とはいえ全力疾走したせいで、胸が苦しい。ううん、それだけの理由じゃ、ないのかもしれない。さん、」名前を呼ばれる。掴まれた腕はそのままだ。高尾くんが掴んだまま。掴まれた部分に意識が集中して、かあっと頬に熱が帯びていく。さん、あのさ、俺」私をどうにか落ち着かせようって、気遣うような、優しい声。そうだ、私、腕に触れられてどきどきしてるような場合じゃない。そんな資格はないじゃないか、余計にきもちわるいじゃないか。顔を合わせたくはなかったけれど、つかまってしまったんだからしょうがない。ちゃんと、謝らなきゃ。目を見て、ちゃんと、

「た、たかお、く…」

びくびくしながら振り返ったとき、不安げな表情の高尾くんと目が合う。眉を下げて、困ったような、焦ったような顔。そんな表情、初めて見た。いつも、笑ってる高尾くん。よく笑う人だった。へらへら、けらけら、にやにや。その高尾くんが、不安そうな顔をしている。一瞬で、頭が真っ白になる。「どうして?」って、そればっかりに、なる。だって、「どうしよう」って顔してる、高尾くんが。私なんかを泣かせたって、私なんかに嫌われたって、高尾くんになんの損もないのに、どうしようって困った顔してる。そう感じた途端、ぶわりと目の前の光景が滲む。泣いちゃだめだ、だめなのに。こんなにやさしい人に対して、やっぱり私がしていることは最低で、きもちわるくて、迷惑で。そう思えば思うほど、涙が零れた。それを見てぎょっとした高尾くんが、ぱっと手を放して「ごめん!」と謝る。掴まれて嫌だったか、とでも心配してるのかもしれない。ちがう、違う高尾くんが謝ることなんか一つもない。

「…ご、めんなさ…」
「や、べつにサンが謝ることじゃねーから…」
「っちが、ちがうの…ごめんなさい…ごめ…」

拭っても拭ってもぽろぽろ涙が出てきて止まらない。高尾くんが優しくしてくれるたびに胸の苦しさが増す気がした。落ち着きなく高尾くんが「いや、だから…あー」とごにょごにょ呟いた末に、サン、場所変えてもいい?」と小さな声で尋ねる。それを聞いて、はっとした。涙を拭うのと謝るのに夢中になっていて気づかなかったけれど、道行く人からの視線が、痛い。私と高尾くんを見てひそひそ何かを話している。明らかに、いい内容ではない。これじゃあ、高尾くんが女子を泣かせている図になってしまってる。なんて、迷惑!私はさあっと顔を青くして、「ごめんなさいっ!」と頭を下げ、その場から離れようとする。泣いてる私が一緒にいるところをみんなに見られちゃいけない。そう思って。だけど高尾くんがぱしっと私の腕を取る。え、と思った時にはそのまま引っ張られていた。その場所から一番近くの空き教室の扉を開けて中へ入ると、ぴしゃりと閉める。扉に背中を預けて、脱力したようにしゃがみこむ高尾くん。私も思わずストンと座り込んだ。外からは死角だ。かくれんぼみたいだ。ぽかんと、そんなこと考えた。

さん」
「! は、い…」
「あのさ」
「…」
「泣かないで」

くしゃ、と自分の髪を掻きながら、私の顔は見ずに高尾くんがそう呟いた。紛れも無く高尾くんの声なのに、聞いたこともないくらい、弱々しい響き。おねがいだから、と私に頼むような、そんな声。私は、視線を床に落とす。高尾くんの顔が見れなかった。なかないで、って言われたのに、その「なかないで」って声が頭の中で何度も何度も反響して、その声だけで、なぜだか無性に泣きたくなってしまう。堪えなきゃ。きゅ、と自身の脚を抱えて体育座りして、高尾くんから泣き顔が見えないように顔を埋めた。ぐず、と鼻を啜る音が、私と高尾くん以外誰もいない静かな教室に響く。こんなときでも、夢の内容を思い出した。消えたくなるくらい、苦しかった。

「…悪い。泣くなっつって止まるもんでもねーよな」
「っ、ちが…」
「ごめんな。びっくりしたよな。怖かったよな。けど、しねーから、安心して」
「……、…え…?」
「はー…向井のバカは…いや、けどアイツにも悪気は無かったっつーか」
「高尾くん…は、何に、謝って…」
「へ?」

すん、と鼻を啜りながら、涙目のままに私は隣に座る高尾くんを見る。すると高尾くんも、キョトンとした顔で私を見た。顔を、見合わせる。

「え…だって、俺にキスするとかいう話になったから、泣いて出てったんじゃねえの?」
「それ…は…」
「泣くほど嫌なんだなーとか」
「! ご、誤解!」

身を乗り出して首を振ったら、高尾くんがぽかんとした表情のまま固まった。でも、だって、誤解だ。「そんなんじゃ、ないの」言いながら、まだぶんぶんと首を左右に振る。泣くほど嫌とか、そんなの失礼すぎる。まったくの、誤解。嫌がるべきはむしろ、高尾くんのほうで。「謝るの、わたしの、ほうだから…」つっかえつっかえにしか言葉が出てこないけれど、それでもなんとか、「ごめんなさい」を繰り返す。高尾くんは口を噤んで、何かをじっと考えるような素振りを見せて…小さく、呟いた。サンってさ」

「前から思ってたんだけどなんで俺にそんな謝んの?」
「…、…そっ」
「だって今回の、さっきのことだってサンが謝る意味がわかんねーっつうか」
「ご、…ごめ…」
「誰にでもこうなのかなーって思ったけど俺にだけ特にひでー気がするし…あーーもう!」

いらいらして頭を掻き毟ったのかと、私はビクリと肩を強ばらせる。だけど高尾くんはパッとこっちに顔を向けると、「違う違う、問い詰めたいんじゃなくてさ」と片手をパタパタ振って「違う違う」のジェスチャーをする。私はほっと安心するどころか、どくどくと心臓の音がうるさく、速くなっていく。高尾くんの「モヤモヤ」は、私がつくっている。私のせいだ。私が、はっきりしないから。彼からしたら確かに、わけもわからず謝ってくる変なヤツだ。嫌な気持ちにさせているのだろうと思う。だけど、理由を話せない。話したほうがいいのかな、と一瞬だけ考える。だけど、だけど、話したらきっともっと意味わかんないし、もっと気持ち悪くて嫌な気持ちに、させる、し。考えていたら、高尾くんが深く溜息吐いて組んだ腕に顔を埋めた。伏せられた顔が今、どんな顔をしているのか、分からない。口を開けばいいのか、意地でも閉じていたほうが彼のためなのか、考えている間にも沈黙が気まずさを絶えず与えてくる。もうすぐ、予鈴、鳴るよね。やがて時間が経ったことによってだいぶ落ち着いてきた心臓を押さえて、高尾くん、と唇を動かそうとする。それより先に、高尾くんが首を動かして、腕元からうずめていた顔を覗かせて、私に言った。

さん、俺、さんを嫌がらせるようなことしちゃってんだったら、謝りたいし直したい」

高尾くんの瞳は、まっすぐだった。言葉だって声だって、真剣だった。どうして私にそんなに優しくしてくれるのって、泣きたくなるくらい彼は真剣だった。謝ることなんかなにもないのに。治すことなんかなにもないのに。私は思わず立ち上がって、「違うよ!」と声を発していた。

「私のほうなの、嫌がらせることしてるの、私…だから、謝るの、わたし…」

言ってるうちに乾きかけていた涙がまた滲んでくる。もう泣いたりひっこんだり意味がわからない。都合いいときだけ泣いて、泣き止んで、もう、めんどうくさい自分。どんどんどんどん自分をしゃきっとさせようと自身への悪口を頭のなかで呟くけれど、余計に悲しくなってくるだけだった。

「嫌がらせる…って!いやいや、俺全然そんなことされてねーから、」
「し、してるの!高尾くんが、絶対絶対気づかないところで、私、ずっと…っ」

ぶわっと泣き出す私を見てぎょっと目を見開く高尾くんが、慌てて立ち上がる。言ってる意味が分からないとでも言いたげな困り顔で、「いや、だから、えぇ?」と首を捻った。だけど私は「言わなきゃ」という気持ちがどっと溢れてきて、つっかえながらも言葉が止められない。

「だからほんとに、高尾くんに優しくしてもらう、資格、ない…のに、ごめんなさい、ごめんなさい…」
「いや…あのさ、俺ホント覚えが無いんだけど…」
「絶対気づかないこと、なんです…でもすごく、きもちわるくて、最低で、高尾くんに悪いことしてて…私高尾くんの近くにいないほうがいいんだよ、絶対そうなの、これ以上高尾くんに、あんなこと…」
さん」
「ご、ごめんなさい意味わかんないですよね、気持ち悪いよね、ごめんなさ、」
さんってば!」

ぎゅ、と手のひらが高尾くんの両手に包まれる。はっとして口の動きが止まった。高尾くんは子どもに言い聞かせるみたいに、手のひらをぎゅ、ぎゅ、と握ったまま、「ちょっと落ち着こうぜ、な?」と私に言う。ぽかんと口を開けたまま黙る私。さっきまでの焦りは、ふっと軽くなってしまう。

「なんかよく分かんねーけど、俺気にしてねーよ?」
「そ、れは…高尾くんが、気付かないところの、話だからで…」
「つーか、本人が気づかない程度のことだったら嫌がることに入んなくね?」
「で、でっ、でも!」
「それが、理由?俺にずーっと、謝ってた理由?必要以上にビクビクしてたの、そのせいなんだよな?」
「そう…です」

高尾くんの顔を見ていられなくて、そろそろと視線を床に落としていたら、ひょいと高尾くんが覗きこんでくる。びくっと後ずさりそうになるけど、手を高尾くんに握られたままだから、逃げようがない。何を言われるのだろう、とどくどくうるさい心臓が緊張を訴えてくる。意味がわからないもっと詳しく教えて、と言われたら、私は正直に話してしまいそうだった。(夢を見るんです、高尾くんの夢を)だけど、高尾くんは私と目を合わせると、ふっと笑う。ほっとしたような笑みだった。その笑顔の意味が分からなくて、私はまばたきを繰り返す。

「迷惑じゃねーよ、さん」
「え…」
「気持ち悪くなんかないし、最低なんかじゃない。嫌じゃねーよ、俺」
「で、も…そんなの、分かんないよ、高尾くん…!私がしちゃってること知ったら、だって…」
「んー?そーかも。知らないから、分かんないから、嫌がってないだけかも」
「うん…」
「でも、それでいいじゃん。俺、さんが知られたくないなら、知らないままでいいし」
「なんで、」
「だってさんの言う『俺が嫌がること』が何なのか全然わかんねーけど、さんのこと嫌いになることのほうが多分、俺、もっと嫌だ」

だから、知らないままでいい。俺はちっとも嫌がってないから、迷惑がってないから、さんが罪悪感抱く必要なんかちっともない。そう私に言い聞かせる高尾くん。薄く唇を開いたままなんにも言えないでいる私を見て、にぃっと笑う。握っていた手を離される。かと思えば、彼はぽんと私の頭に手を乗せた。「話してくれてありがとな」って、小さく言う。きゅうっと心臓が縮こまったように苦しくなる。重要な所、ちっとも話せていないのに。聞かないでくれるの。

「っつーわけで!これからは俺、サンにびくびく謝られたり逃げられたりしないで確実に済むってことだよなー」
「へっ!?」
「だってそうじゃん?俺に迷惑かけるのが心配だったんだろ?んで、俺は気にしてないって分かって、悩み解決!…な?」

清々しいくらいににぱーっと笑う高尾くんを見て、頭のなかが混乱し始める。言われてみればそう、のような…いやでも、それじゃあ単純すぎるというか、そういう問題ではないような。答えに迷って視線をあちこちに彷徨わせておろおろする私に、高尾くんは機嫌よさそうにますます笑って「解決、してねーの?」って首を傾げる。とても笑顔で尋ねてくる。この笑顔に「解決してません」なんか言えなくて、咄嗟に首を横に振った。ほぼ同時に、予鈴が鳴る。「あ、やべ」高尾くんが私の手を引いて、教室を出る。え、と思うのに、握られた手は離されない。

「あ、そーそー。向井のヤツ地味にへこんでるっぽいから、たぶん後でめっちゃ謝ってくると思うぜー」
「え…あ、う、…た、高尾くん!」
「んー?」

一歩先を歩く高尾くんが、首だけで振り返る。私はぱくぱくと口を動かしながら、視線で訴えた。なりゆきで繋いでしまっている手と手。その繋いだ手と、高尾くんの顔を交互に見る。高尾くんも私と同じように、つないでいる手と私の顔を交互に見る。ついその場の流れで引っ張ってしまったけど、離すのを忘れていた。そう言って今にパッと離すものだと思った。けれど高尾くんはへらりと笑ってまた前へ向き直る。ええ!?っと声にならないままに叫ぶけど、余計にぎゅっと手を握られるだけだった。どっと顔に熱が集まる。脚を止めてしまいそうになるけれど、なんとか彼についていく。

「た、かおくんっ」
「んー?」
「いいの?」
「何が?コレ?」

繋いだ手をひょいと持ち上げて「これ」を示す。かーっと顔を熱くしながら、「これもだけど!」と私は声を絞り出した。

「私、これからも、続けるかもしれないんだよ?高尾くんの気づかないところで、」

あんな夢、見続けるかもしれないんだよ。

「高尾くんの嫌なこと…」
「いーよ。全然いい。俺はサンとこうやって目ぇ見て話せれば全っ然いい」
「! な、んで…私に、そういうこと言ってくれるの…?」

いつか、同じような質問をした気がした。「なんで私に、そうやって…バスケのこととか、喋るのゆっくりでいいよとか、言ってくれるの?」いつだったか、そんなことを訊いた。どうしてこんなに優しくしてくれるのか、分かんなくて。あのとき高尾くんは、なんだかちょっとぎこちなく笑いながら、「さんと仲良くなりたいからに決まってる」って、茶化すように言ったんだ。今、目の前にいる高尾くんも、あの日のように、不意を突かれたような顔をする。そして、わらう。あの日の笑顔とは少し違う。ぎこちなくじゃなくて。眉を下げて困ったような笑顔、だけど、その困惑さえも楽しむような笑顔で、言った。

「俺もわっかんねーんだわ、これが!」

なんだか、その笑顔が、胸に焼き付いてはなれないの。