100万回死ねなかったねこ


「やっほー、ちゃん。退屈だから僕と退屈なおしゃべりでもしようぜ」

背後から聞こえた声に振り返れば、そこには床に引きずりそうな位長い髪を揺らして、図書室の机の上に座っている安心院なじみさんがいた。お行儀が悪いと叱られてもいいくらいなのに、そのテーブルは最初から彼女の尻に敷かれるために用意されていたんじゃないかというくらい、目の前の光景にしっくりきてしまう。最近までカラコロと音を立てていた下駄も今は履いていなくって、かわりに今の彼女はみんな大好き黒ニーハイをお召しになっていて、制服のスカートとニーハイの間に見える綺麗な肌色に一瞬、目を奪われる。だけどすぐにハッとして、視線を手元の本に戻す。そうして顔も見ずに、わざと呆れたような声を出した。(どうせ、そんな取り繕った余裕、この人には通じないけど)

「安心院先輩、お行儀が悪いですよ。図書室は静かに本を読んだり勉強したりするところなんだから、おしゃべりするところなんかじゃないし、机は座る場所なんかじゃありません。椅子に座ったらどうですか」
「わはは相変わらずつれないなぁ。心配しなくても机の方も僕に座られて喜んでいると思うし、僕は何もピチピチの女子高生よろしく騒がしい声でちゃんとおしゃべりしたいわけじゃないんだよ。静かに、大人しく、君と話がしたいのさ。それからね、ちゃん」
「なんでしょう」
「僕のことは親しみを込めて安心院さんと呼びなさい。中学時代はちゃんと呼んでくれていたじゃないか」

その一言に、頭痛がした。はああ、と大袈裟に溜息を吐いて、棚から引きぬいた本をぱらぱら捲る。ちゃんこそお行儀が悪いぜ。立ち読みは厳禁だ。ちゃんと座って読みなさい」彼女は笑ってなんかいないのに、くすくすと声が聞こえた気がした。私は顔を上げて安心院先輩を軽く睨み、彼女が座っている長机とは少し離れた席へ座った。ああいう人には、無視が一番こたえるのだ。本を机の上に置いて、開く。「大体、僕は前生徒会長であるめだかちゃんのおかげで今じゃ箱庭学園の一年生だ。君と同い年だよ。『先輩』じゃないし、中学時代でさえ君に『先輩』とは呼ばれなかったのに、今更そう呼ばれてもねえ」声はすぐ近くから降ってきた。顔を上げたら、すぐ隣から顔を覗きこまれる。いつのまにか移動した彼女が、私のすぐ隣、長机に腰掛けながら身をこちらへ乗り出していた。また溜息が漏れる。視線を手元に落とす。「中学時代の君は可愛かったなぁ。安心院さん、安心院さん、と僕に付き纏…おっと失礼、僕に懐きまくってくれてさ」もう一度顔を上げたら、今度は私の向かい側にいた。ちゃんと椅子に座っているようだ。長机を挟んで、そこに。

「君の言うようにちゃんと椅子に座ってみたよ。これで君の不満はなくなったかな?それにしてもここの椅子は硬いなぁ、人吉現生徒会長に提案してみるのはどうだい?図書室の椅子は理事長室のものと同じふかふかのソファーにしてくれって」
「無理だと思う」
「それで、面白いのかな?その本は。いや、絵本だね」

彼女が指すのは、私が持っていた一冊の絵本だった。すぐにはその言葉に反応できず、ぱちくりとまばたきを繰り返す。それから、ちょっとだけ胸を高鳴らせ、「この本、読んだことがないんですか?」と尋ねた。この人でも知らないもの、というのは、存在するのか。そんな期待をした私を小馬鹿にするように、「いいや?あるとも」と即答した彼女。私はむぐ、と乗り出しかけた身を引っ込めて、舌打ちしたい気持ちのままページを捲った。独特なタッチで描かれたとらねこの絵。声に出したくなるほど、すんなりと頭に入ってくる淡々とした文。私はしばらく黙って、それを眺めた。

「僕もなかなかその本は好きだぜ。考えさせられるよね。きっと、読者としては子どもよりも大人の支持が多いんじゃないかな。子どもじゃあその話の本質は理解できない…と言うよりも、大人と子供じゃあ捉えられる本質が違うと言うべきか」
「…そうですね。私も、これを読んだのは小学生の頃だし、それっきりでした。けど、今ふと読みたくなった」
「いいんじゃない?子どもの頃に読んだ絵本を時を経てまた読んでみるというのは、なかなか楽しい。むしろ、本の楽しみ方というものの一番の意義は、そういった行動にこそ隠されているのかもしれないし」
「あなたも好きな本を読み返したりする?」
「まっさかー。僕は面白くなければ途中で放り投げることの出来る程の読書家だぜ?」
「…矛盾していると思う」

ぱらり、ぱらり、ページを捲る。次のページにも次のページにも、主人公であるとらねこはいた。どこかふてぶてしい、ねこ。どこか、すべてを達観したような、ねこ。ちら、と彼女を見やると、ぺったりと机の上に頬をつけて、私を見ていた。退屈なんだかなんなんだか。本を読む私を、じーっと観察している。

「しかし、その本は…そんなに面白いのかな?」
「さっきあなたもこの本好きだって言ったじゃないですか」
「うーん。まあまあ好きなんだけどね。簡単に言えば、何度死んでも何度も生きてしまう猫がいて、彼はどの人生でも人間に飼われていたが彼自身は飼い主を嫌っていた…、ある時誰の猫でもない野良猫としての人生が巡ってきた際、彼はとある白猫に恋心を抱き、真実の愛というやつを知って、白猫の死を悲しみ自分も死んで、100万回生きた猫はもう二度と生き返ることはなかった、めでたしめでたし!という内容だろう?」
「…簡単にというか、オチまで全部言い切りましたね…」
「僕がどんな感想を抱けばいいのかいまいち分からない。だってほら、たかが100万回だぜ?三兆年を生きる僕としては、主人公である猫に共感を示せばいいのか、示さないべきなのか。難しいところだ」

私は彼女のセリフを聞き終えたとき、同時にパタンと絵本を閉じた。口元だけで笑った彼女が、「読まないのかい」と視線で訊いてくる。読むも何も、だいたいの内容を今さっき彼女が話したし、結末だって知っている。いや、結末は、彼女が要約する前から分かっていたけど。だけどなんだか、彼女の言葉を聞くと、読む気が失せてしまった。私は本を閉じ、手を膝の上にそっとのせて、真っ直ぐ、目の前の席に座っている彼女と向き合った。彼女は私の中学の先輩で、生徒会の副会長だった。球磨川さんに顔を剥がされて、それから、しばらく姿を見なかった。だけど最近また私たちの前に姿を表して、いろいろやって、一件落着して、一年十三組の生徒となった。だけど変わらずこの人は人外中の人外で、不老不死な女の人だった。なんにも変わっていないのだ。いいや、いろいろ変わっているのだけれど。とてもいろいろあって、いろいろ変わったんだけど。変わっていないのは多分、私なのだ。中学時代からずっと、私が変われていない。そして、彼女もそれに気づいている。

「そうですね、三兆年間、きっとあなたはあの猫のような真実の愛なんて見つけられていないんでしょう」
「ふふ。だから死なないとでも?」
「いえ、べつに。だって死なないのは、あなたのスキルの一つなんだし」
「ふむふむ。だけど、僕だって無駄に三兆年生きてきたわけでもあるけど、だからこそいろんな『愛』とやらを見てきたよ。なんたって僕はみんな大好き安心院さんだからね。愛され憎まれた経験は数知れずだ。球磨川くんもその中の一つになるのかな」
「厄介な愛だったでしょう。球磨川さんからの好意は」
「そうでもないよ。僕も彼を可愛がっているわけだし。ああ、ほら、何度も言うけど愛にもいろいろあるからね。中には、同性なのに僕のことを心底慕ってくる人間だっていた」
「へえ、だけどそれは、友愛かもしれないじゃないですか」
「そうかな?僕にとっては等しく、平等に、愛されたという記憶でしかないよ」
「嘘つき」
「おいおい、それは球磨川くんの専売特許だろ。僕の言葉のどこに嘘があるっていうのさ」

私は答えなかった。どうして自分の口から、「うそつき」なんて言葉がでてきたのかも、分からない。だけど、うそだと思いたかったのだ。彼女の言葉を、否定していたかった。ずっとずっと、否定していたかった。私は一度俯いて、自分の拳が膝の上で痛いくらいぐっと握られる様を他人事のように見つめていた。震えている。自分の手が。だけどそれさえ他人事だ。どうしてそんなに、悲しむ?悔しがる?胸を焼かれるような痛みを抱く必要がある?大丈夫だ、私。呼ばなければいいの。あの気持ちを、口にしなければいいの。あの人の名前を、あの人に対して抱いた気持ちを、ぜんぶ、ぜんぶ。(そんなことできやしないの、わかってる)

「死ねたら、いいね。死ぬことができるといいですね、…あ んしんいん、さん」
「……そうだね。とりあえず僕も、白猫くんを探すところから始めるとするかな。否、白猫ちゃん…でも構わない」

おそるおそる顔を上げたら、目の前の席は空席だった。ハッとして視線を移せば、安心院さんは図書室の出入り口の引き戸に手をかけていた。数十センチ開いたその戸の向こうには、半纏さんの背中が見えた。ずっと待っていたんだろうか。(安心院さんのすぐ背後でなく、外で?なんて、めずらしい)私は何か言おうと立ち上がり口を開くけど、言葉が出てこない。そんな私を見透かすように、彼女は、いつものように、綺麗な微笑を浮かべて、綺麗な声で、私に告げた。「やっと呼んでくれたね。待ちくたびれたじゃねーか。僕の可愛い子猫ちゃん」彼女は…「安心院さん」は、そんなキザなセリフを平気な顔して吐いて、扉の向こうに姿を消した。数秒固まって、私はストンと椅子に腰を下ろした。はあ、もう、かなわない、かなわない、頭痛がする。顔も体も熱い気がする。きっとこれは風邪か何かだろうな。


(死ねたらいいね、なんて、失礼だったかな。死ねっていってるみたい)(けどそうだ、あの絵本は、主人公が死んでハッピーエンドなのだし…それとおんなじだよね、だからまあ、いいか)(あれ、なんで、死んだらハッピーエンドなんだっけ?)(死んでしまうのに?)


私はもう一度、絵本を開く。本のタイトルは、そう、なんだったかな。(ねえ、あなたのいない世界を生きたことがないから分からないよ)