のろくうごめく太陽を待つ



「なあ、もうやめないか」

 北谷菜切が、「彼」の背中に向かってそうつぶやいた。夜、主に呼ばれてその部屋に向かっていた男は、振り返る。自分よりも小柄で、子供のような愛くるしい見た目の兄弟が、酷く悲しそうな、しかし真剣な顔で、自分を見上げていた。困ってしまう。眉を下げて、男は苦笑した。その表情を見ると、北谷菜切はもっと悲しい気持ちになったけれど、それでも兄弟として、引くわけにはいかなかった。「彼」のためにも、許すわけにはいかなかった。自分が許してしまえば、認めてしまえば、きっと兄弟のこの悲しい在り方は、ずっと続いてしまうから。

「北谷菜切。俺を心配してくれるのは嬉しい。だが、いいんだ。これで正しい」
「正しくなんかない。おれが心配してるのはー…」
「いいんだよ。大丈夫。なんくるないさ、だよ」

 今度こそ眉は下げずに、穏やかに、優しく彼が笑う。どこか覚悟を決めたように、もう誰の言葉にも自分を曲げさせない態度で。北谷菜切が、まだ何か言いたげに「彼」の名前を呼ぼうとして――…奥の部屋から顔を出した主に気付き、はっと声を引っ込めた。

「千代金丸。そこにいるの?」

 北谷菜切と向き合っていた「彼」は、ぴくりとその声に反応し、背後を振り返る。「主。俺ならここにいるぞ」穏やかな声で言えているはずだ。北谷菜切は「彼」のその声を聞き、棘が刺さったように顔を顰めたけれど。

「もういかないと。主のところへ」
「…、…がねまる」
「ごめん」

 兄弟に背を向けて、男は主の元へ向かった。背を向けるその一瞬、悲しそうにしていたのを北谷菜切は見逃さなかったけれど。きっと自分が浮かべている表情が、あんまりにも情けない顔だから、それを見て心を痛めたのだろうと分かっていた。北谷菜切に背を向けたその人物は、廊下を静かに歩いて、奥の部屋へ向かっていく。主が、嬉しそうに微笑んでいた。いとおしそうに、その名前を呼んでいた。

「千代金丸、千代金丸」

 透き通った海や空の色を思わせるその刀が戦いのさなかに折れてから、しばらく経った。

「そんなに呼ばなくても、聞こえてるさー。俺はここにいる、大丈夫」

 主と千代金丸が、そのような仲だったと、気付いている者は多くなかった。けれど、千代金丸の「兄弟」は、気付いていた。千代金丸が主を呼ぶ時のやさしい声も、その声を聴いて頬を赤らめる主のいじらしさも、兄弟にとっては微笑ましいものだった。からかって茶化して、けれどのんびり屋な千代金丸のことだから、いつも恥ずかしそうにするのは主の方ばかりだった。
 千代金丸がいなくなって、主は酷く心を病んだ。それを見ていられなかったのだ。「彼」は、彼にしかできないやり方で、主を救ってやりたかった。他人になんて言われようと、残ったもう一人の兄を悲しませようと、これが自分の役目だと信じて疑わなかった。これでいい。自分は、このために在ったじゃないか。人の身になる前から、ずっと。この為に、自分は、千代金丸の影だったのだ。

「なんだか怖い夢を見てしまいそうで、あなたを呼んだの。ごめんなさい、千代金丸」
「主は怖がりだなあ。……今夜は、一緒に寝るか?」
「…いいの?」
「もちろん」
「ありがとう…千代金丸」

 治金丸は、主の手を取った。きっとだい兄の手のひらはもっと大きくて頼りがいがあるんだろうなあ、と胸の内だけで呟く。けれど、主は自分の手をきゅっと握ってくれていた。それだけで、心の端にある躊躇いや罪悪感が消えていくような気がした。やっぱり、間違っていない。自分の選択は正しい。オレたちは、何も間違っちゃいない。自分の在り方を正当化する理由になった。最初は、騙すような気持ちになって気が引けた。けれど、今はなんだかもう、自分の気持ちがどこにあるのかわからなかった。千代金丸の代わりとして在ろうとするうちに、感情さえも融け合っていくような。主に向けるこれは、同情であったのか、愛情であったのか、もうそんなもの、どちらだっていい。この手を、離したくなかった。離されたく、なかった。

 ごめん、ごめんな、だい兄。ごめん。何に対する謝罪だろう。もうきっと数えきれないくらいの、罪だ、たくさん。音も立てず静かに襖を閉める。月明かりの届かない、暗く、自分の輪郭なんて見えない闇の中で、その女の体を抱きしめた。ごめん、と聞こえたのは自分の声じゃなかった。

「ごめんね、治金丸。ごめんなさい」


(よばないでくれ。その名前で呼ばれては。今夜も、あいしているとは言えそうにないじゃないか)