コツコツと、ミルグラムの冷たい床を鳴らす靴音がした。聞き慣れた音、だけれど今日はどうやら音の主は機嫌が悪い。わざとらしく大袈裟に音を立てて、足早に、その人物はやってきた。私が振り返るのとほとんど同時に、私の後ろの壁に、バン!とその手をついた。すぐ耳元で聞こえた乱暴な音は、怯えさせるためのものだと分かってはいたけれど、私の表情は変わらない。

「何か御用?エス」

 私のすました顔が心底気に入らないとでもいうように、彼――性別なんて分からないが、便宜上、彼とする――は睨んでくる。美しい顔を歪ませて、幼い見た目ながらも出来うる限り低い声を出し不機嫌さを演出しながら、私の名前を呼んだ。返事をする暇もなく、ぐっと顔が近付いてくる。

「また僕の許可無く囚人達に接触したそうじゃないか」
「……仕事ですから」
「仕事?お前は僕の為に在るのが仕事だろう。囚人達の小間使いでも、遊び相手でもない」

 自分より背の低い人物に壁へ追い詰められる自分は、傍から見れば滑稽だろうな。そんなことを頭の端で思いながら、至近距離にあるエスの瞳を見つめた。視線だけで縛り付けるように、彼は目を逸らさない。こちらが逸らすことも許さない。あと少し顔を近付ければ唇が触れ合うかもしれない、なんて、微塵も考えていなそうな目。

「勿論。私はエスの為にしか動かない。エスがよりこの監獄を管理しやすいように、手伝うだけの存在。確かに囚人達のちょっとした我儘やおしゃべりに付き合ったけど、それだって貴方の為。くだらないことでわざわざエスの手を煩わせるわけにはいかないと思って」

 監獄とはいえ、囚人達にある程度の自由は与えるというのが、看守であるエスの方針だ。嗜好品の類も、要望があれば用意する。そのあたりの準備、囚人達の食事や衣服の提供も、私の仕事だ。いや、食事に関してはジャッカロープが自身を料理長として張り切るから手が届かない細かなところのお手伝いだけだし、支給品もエスを通さないと私の一存では用意しないし、本当に、看守二人の手伝い程度の仕事しかしないけれど。
 エスが、滞りなく、なんの邪魔する要素もなく、「罪を判断する」という仕事に集中できるように。私の存在意義はそれだけだ。エスの力になる為に、私は存在している。
 だというのに、最近のエスは、やたら苛々している。私が、囚人達と接触するだけで、すぐにこうして不機嫌になる。

「心配しなくても、ただ当たり障りのない会話をしただけだから。余計な情報を与えてもいなければ、逆に聞き出すこともしていないし……」
「そういう問題じゃないだろう。囚人達と仲良しごっこをする必要は無いんだからな」
「だから、特別仲良くした覚えはないってば」
「どうだか!ジャッカロープが言っていたぞ。今日はやけに楽しそうにシドウと話していたと。その前はフータと、さらにその前は……」
「ちょっと、ちょっと待って!」

 ああ、あのおしゃべりウサギ、余計なことを。面白がって下卑た笑い声を上げるジャッカロープが目に浮かぶ。本当にそういうところがめんどくさくて嫌いだ。
 私の抗議の声に、エスがムッと眉根を寄せながらも、近付いていた体を少し離した。

「からかわれただけよ、エス。あのウサギは貴方の反応を面白がってるだけ」
「……」
「私とあのテキトーで胡散臭いジャッカロープ、どっちを信じる?」
「…………だが、二人きりで話していたのは本当なんだろう?」

 不機嫌というよりも、拗ねた子供のような声音だった。それに私は少しびっくりして、目を瞠る。言葉に詰まった私を、「図星をつかれて」だと判断したエスが、また懲りずに私の背後の壁に手をついた。今度は両手だ。私の顔のすぐ横に、エスの黒手袋がある。マヒルに見られたら騒がれそうだ。「きゃあ、壁ドンだなんて大胆!」と、能天気なコメントをしてくるに違いない。

「お前は僕の為に存在している。謂わば僕の所有物だ。違うか?」
「でも、エス、」
「何故僕以外の奴らと親しくする必要があるんだ。僕の目の届かない場所で」

 鋭く睨みながら、冷ややかな声でエスが言う。子ども扱いを彼はいつも嫌うけれど、確かに、子供らしからぬ言動だ。空気がぴりぴりと肌を刺す。どうして、そんなに怒っているのだろう。そんなセリフ、だって、まるで……やきもちみたいだ。歪で、勝手な嫉妬。
 ああ、駄目だ、駄目だよ、エス。貴方はそんな感情を知ってはいけない。囚人にも、私にも、そんな感情を向けないで。貴方はただ、純粋に、罪を見極める存在でいなくちゃ。鈍らせる何かを、知ってはいけない。

「自分の玩具を他の人に触られたから腹が立ったのね」
「……何?」
「じゃあ私に自分の名前でも書いておいて頂戴。間違えて他の人が触らないように」
「……」
「貴方の言う通りだよ。私はエスの物だから。私にとってはエスがすべてで、エスが一番。決まってる」

 歌うように、あるいは言い聞かせるように。私の言葉に、エスが口を噤んだ。じっ、と何かを見定めるように、私の瞳を覗き込む。この目の中に偽りの色なんてあるはずがない。その証明に、私も見つめ返した。私はエスの為に在る。エスの為だけにしか、存在しない。それ以上でも以下でもない。
 やがて、はぁ、とエスが脱力したように息を吐いた。納得してくれたんだろうか。こちらもほっと息を吐こうとした、直後。エスの顔が近付いてきた。ぴくっと思わず身構えるけれど、唇が触れ合うことはなかった。倒れこむように、ぽすっと私の肩口に頭を預けてくる。甘えられたのかと思って少し意外に思っていると、突然首元に痛みが走った。

「い、痛ッ!」

 痛いんだか熱いんだか分からないけど、エスにガブリと噛まれたことはなんとなくわかった。体が離されてから、痛みの箇所を触ると肌がへこんでいる。歯形つくほど、噛んだのか、このひと。いきなりのことにいろいろと混乱してエスの顔を呆然と見る。私の反応に、彼は満足気に鼻を鳴らして笑った。

「名前でも書いておけと言ったのはお前だぞ?確かに、所有物には印をつけるべきだ」
「だ……だからって……っ」
「あいにくとペンが見当たらなかったからな。この程度の痛み、すぐ引くだろう」

 そう言うと、エスは私に背を向ける。「仕事に戻る」の合図だろう。まだ少し納得のいかない気持ちでその小さな背中を睨むけれど、エスは振り返らない。振り返らないままに、ぼそりと呟いた。

「……そうだ、僕のものだ。記憶も、過去も、何も持っていない僕の、唯一の……」

 耳を澄ませば聞こえてきた言葉に、はっと胸が掴まれる。「僕のもの」と言い聞かせる声が、まるで私に、「どこにもいかないでくれ」と訴えてくるようだった。どんな表情でその言葉を口にしたのか、確かめることはできなかったけれど。やっぱり、私はエスの為に、ここに存在している。改めて思った。
 首元にくれた、所有の印にそっと指を這わせる。消えなければいいのにな、痛みも痕も。消えたくないな、エスのやるべきことすべてが終わっても。泣きそうになる。どこにもいかないでほしいのは、私だって同じだ。

独占欲のやり場