「蒲生くんの本当の記憶が戻ったときにさ」
図書館からの帰り道、ぽつりと零した。蒲生くんは顔をこちらに向けて、心なしかきょとんとした目で、私を見る。
「んー……いや、いいや。なんでもない」
「……なんだ、それは。言いかけたなら最後まで言えばいいだろう」
少し不満げにム、とした口元、眉。私はそれにへらっと笑って誤魔化す。
蒲生くんは意外にも、表情豊かだ。怒る顔、真剣な顔、ちょっと悪そうに笑うときもあるし、照れて顔が赤くなることもある。私はその表情のどれもが好きだ。いとおしいという言葉を日常でなかなか遣うことはないと思っていたしこう言ってしまえば蒲生くんの顔は赤くなってしまうだろうけど、本当に、これはたぶん、「いとおしい」のだ。
こうやって、お互いの都合があった日には図書館デートをする、そんな関係になってからは、特にそう思う。
「蒲生くん、今日は何借りたの?私はね、この間言ってた映画の原作の……」
「おい。話を逸らすな」
「えー」
「えー、じゃない。お前がそうやって言いかける話は、大抵なんでもなくない内容だろ。気になるから話してくれ」
「えー」
「えー、じゃない。しつこいぞ」
「じゃあ手ぇ繋いでくれたら話す」
「なっ!?」
ほら、一瞬で耳まで真っ赤になった。彼のばちばち開いた耳のピアスをじっと眺めて、笑う。彼は顔が赤いまま、ぐぬぬ、みたいな表情で口元に手をあててしばらく黙っていた。「手ぇ繋ぐったって、お前……」とごにょごにょ言いながら、周囲をそわそわ見回している。べつに、キスしろとか頼んだわけでもないのに「こんな人目のあるところでそんなこと……」みたいな反応されちゃうと、なんともいえない気持ちになるな。そんなところもまあ、可愛いところなんだけど。ふふ、と思わず肩を揺らした直後、ガッ!と手首を掴まれた。びっくりした。人とぶつかりそうで危ないから引っ張られたのかと思った。けど、そうじゃないらしい。掴まれた手首は、そのまま。蒲生くんは顔を逸らしていたけど、私がじーっとしばらくその掴まれた手首を見つめていたら、パッとこっちを向いた。
「こ…これでいいだろ!」
「あー……蒲生くんの『手を繋ぐ』はこうなんだねえ」
「なんだ、その不満そうな顔は」
「だってなんか…万引き犯を横から捕まえるような手首の掴み方されてびっくりしちゃった」
「なっ!ち、ちがっ……くっ……いや、すまねぇ。そんなつもりじゃなかったが…」
「ううん、いいよ。ありがとね、繋いでくれてね」
言いながら、そっと緩んだ彼の手に指を絡ませる。ちょっと驚いたような顔をした蒲生くんが、またすぐに顔を背けた。でも少し赤くなっている耳は見える。かわいいね。いとしい、いとおしい。とっても。
「蒲生くんの本当の記憶が戻ったときにさ」
冒頭の台詞を、もう一度口にする。赤い耳を眺めて、胸が少し、きゅっとした。初めて見たときびっくりしたくらいの彼の耳のピアスの量、その空洞が生まれた時期も理由も、その耳の柔らかさも、そういえば私は知らないんだった。
「可愛い恋人がいたらどうする?」
「……は?」
「恋人。カオスイズムに記憶を改竄されてるせいで今は忘れちゃってるけど、大切な人」
「……」
「本物の恋人」
手を繋いで歩いていたのに、蒲生くんが足を止めたので、私も先に進めなくなった。蒲生くんには悪いけど、犬の散歩中に犬が立ち止まってしまってリードがぴんと引っ張られたときのあの感覚を思い出した。咄嗟に繋いでいた手の力が緩んで、指先が離れそうになったけど、それを蒲生くんが許さなかった。ぎゅっと、強い力で私の指を握り込む。痛いくらいに。視線をやった先の彼の表情は、真剣だ。まっすぐ。あんまりにもまっすぐで、見つめ返すのがこわいくらいで、でもそんな私を見透かすように、彼の声が私の視線をそちらへ縫い留める。
「なんでそんな話になる」
「だって、可能性はゼロじゃないなあって」
「だとしたらそっちが本物で、お前が偽物だって言いたいのか?」
「……そうだね」
「ふざけるな!お前は、…っお前は!」
感情が弾けたように、少し声が大きくなる。でもそんな自分にすぐはっとしたように、蒲生くんは唇を結び、やがて小さく悔しそうに「くそっ」とつぶやいた。苛立って、怒っている、いや、怒ってくれている。きっとこれが嬉しいことなのだと分かる。蒲生くんが優しい人なのだということも、わかる。
「ごめん、蒲生くん」
「……いや、俺のほうこそ悪い。お前が謝る必要は無い。お前がそう不安になる原因は俺の方にあるんだしな。デカい声出して悪かった」
「あ……原因とか、そういうんじゃないよ。蒲生くんが悪いことなんて一個もないんだし」
「ならお前にだって無いだろ」
「うーん……さっきの『ごめん』は、蒲生くんの気持ちを軽んじてごめんね、っていう、ごめん」
蒲生くんが少し、不意を突かれたように言葉を詰まらせた。薄く開いた唇が、何か言いたげに僅かに震える。
「怒ってくれてありがとう。多分さっきのは……ばかにすんな!お前は俺の気持ちがその程度だと思ってんのか!みたいな…怒り方、だよね?」
たぶん、蒲生くんは私が思ってるよりずっと、私を大切におもってくれているね?って、そう訊いた。私の、もしかしたらちょっと自惚れかもしれない、恥ずかしい台詞に、きっと蒲生くんはまた顔を赤くすると思ったのに、そうじゃなかった。じっ、と真っすぐに私を見た。また少し見つめ返すのが怖くなった私に、彼は小さく溜息を吐く。いやなものでなく、やれやれとでも言うように、優しく。
「……そうだな」
「納得するんだ」
「そもそも、俺だけじゃなくてお前にも言えることだろう」
「何が?」
「俺が記憶を取り戻したとして……記憶が改竄される前の本当の俺は、お前が思っているような男じゃないのかもしれない。そうだった場合、お前はどう思うんだ?」
「……」
「………」
「なんか、やだな。今私の目の前にいる蒲生くんが、本物じゃないみたいに言われるの」
「そ…そう思うなら、俺が言いたいことも分かるだろ!」
怒ってるんだか照れてるんだか、またちょっと声が大きくなった蒲生くんに、私はふきだすように笑った。ああ本当、そうだ、そうだねえ。笑い続ける私に、蒲生くんはちょっとムッとした表情をして、だけど繋いだ手を離さないでいてくれていた。
「うん、やだね。だって私にとっての蒲生くんは、蒲生くんだもん。今目の前にいる、蒲生くんだから」
「俺だってそうだ。俺はお前を偽物なんかにするつもりはねぇ」
「あははっ!ありがとう、蒲生くん」
「……」
「ごめんね、変なこと言って。なんで不安になっちゃうんだろうね。確かなものだって、ちゃんと思いたいのにね」
「言ってくれない方が困る。不安なら言ってくれ。俺は絶対に同じ答えを何度でもお前に返す」
泣きたいくらい真っすぐで、しっかりと噛みしめるように声に出されたその言葉に、私は微笑みながらちょっとだけ胸を詰まらせた。こんなにも頼もしいのに、私たちの関係が、あり方が、どこかずっと不確かで、少し怖い。もしも本当に、今のこの私たちの関係が、本来あるべき誰かの幸せを踏みつけていたとして、それに気付けていないとして、それでも私は、手放したくないと思ってしまうんだろう。べつの誰かに、この人をかえしたくないと、思ってしまう。その人の方が私なんかより蒲生くんを思っていたらどうしよう、記憶を失う前の蒲生くんもその人をとっても想っていたらどうしよう。私は誰かの、蒲生くんの、不幸を願うずるい女になってしまうのかもしれない。
「私、やっぱり好きだな、蒲生くんのこと。大好き」
幸せになるのが怖いくらいに。不幸になってほしいくらいに。あなたのことが大好き。