(…薬品のにおいだ)


うっすらと目を開けて白い天井が目に入った。視覚よりも嗅覚が真っ先に反応したけど。白い天井や壁なんかよりも、まず認識したのは鼻につく独特なにおい。病院かな。私どこか痛いのかな。救急車で運ばれたとか、かな。生きてる?生き返ったのかな?なんか少し頭が痛いような気もするけど。…いや、たぶん気のせいだ。体はちゃんと動かせるし、自分が誰かも分かってる。ただ、自分がどうしてベッドに寝かされているのか分からないだけで。ぼんやりと靄がかかったように、頭、覚醒しない。今、何時だろう。ふつうに学校来て…シンヤちゃんたちと喋ってて…なんだっけ、どうしたんだっけ、私。もぞもぞと布団を被りなおして、白い天井も薬のにおいも遮断する。布団にもぐって目を開けてみると、真っ暗だった。さっきまで真っ白だったのに。

「…さん?」

もぞもぞ布団の中で動き回る私に気付いたのか、布団の外から声がかけられた。誰の声だっけな、聞いたことある。すごく、馴染み深い声。いつも学校で聞いてるような…あれ、ここ、学校なの?そうすれば、納得もいく。ここは病院なんかじゃない。学校だ。学校の中で、薬のにおい、白い部屋といえば、ひとつしかない。私は布団からのそのそと顔を出して、声の主を探した。でも探すまでもなかった。白衣を着た先生が、今まさに布団を捲ろうとする位置まで近づいていたから。顔を出した私と目があって、「あ」と声を出す。ああ、やっぱり。ビンゴだ。ここは病院じゃない、保健室だ。

「ハデス先生?」
「ああ、よかった。気がついたんだね、どこか痛いところはない?」

ほっとした表情で、伸ばしかけていた手をひっこめるハデス先生。私は「大丈夫です」と答えて体を起こそうとしたけど、ハデス先生がすかさず「まだ寝てていいんだよ」と優しく言うので、数秒迷った後ぱふんと枕に頭をおっことした。しばらくその状態のままぼーっとしてたら、ハデス先生が布団を掛け直してくれた。お礼を言うのも忘れるくらい、私はぼーっとしたまま。ようやく口を開いたとき、出てきたのはお礼の言葉じゃなかった。まだぼんやりとした頭のまま、私は先生に無意識に尋ねていた。

「先生、私どうしてここにいるんですか」

すぐには先生も口を開かなかった。ベッドの横に置いてあった丸い椅子に座って、先生は私をじっと見ている。視線をあげて私も先生のことを見つめ返す。本当に何も思い出せなかった。どうして保健室にいるのか。具合悪くて急に倒れたとか?でも私べつに朝から体調になんの異常もなかったはずだし…分かんないや。先生がちょっとだけ困ったように切なそうに苦笑いして、話し始めようとしたとき。それより先に、私はひとつの予想を口にした。

「病魔ですか」

手の甲を瞼に乗せて、先生から視線を外す。だけど先生の表情は読み取れた。おそらく、少し驚いたように目を丸くして、それからきっと真っ直ぐに私を見る。私は私で、なんだか苦笑いだ。話には聞いてたけど、まさか自分もかかるなんて。保健室にちょくちょく遊びにくるたび、先生が病魔を退治するたび、予感めいたものはあったんだけど。「あーあ、明日葉くんと私だけは罹らないでいようって話してたのにな」わざとけろりとした風を装ってそう笑ったら、先生はそんな私を諭すように優しい声で、「さん」って名前を呼んだ。だけど私はそれに構わず、ひとりで喋り続ける。

「予感は、最近ちょっとあったんですよ。自分でも危ないなぁって思ってたんです」
「…さん、君は…」
「ほら、あれです。精神的にちょっと追い詰められたときにくるって聞いてたから」

「最近ちょっと嫌なこと続いてて、もういろんなことに苛立ってて、あー自分超性格悪くなってくなぁ、と」やっぱりそういうとこにつけこんでくるもんですねぇホント迷惑なやつですねぇ病魔って。早口にべらべら喋っていたけど、先生は話を遮るわけでもなく、黙って聞いてくれた。聞いてくれてたのかな?先生が何を言ったって聞こうとしていなかったのは私のほうで、ただ自己満足にべらべら喋っていた。むしろ、何も言ってくれないでほしかった。言い訳みたいに、私は言葉を続ける。

「恥ずかしいなぁ。なんにも悩みなんかないような顔して過ごしてるやつが病魔にやられちゃうんですよ。みんなきっと笑ってるだろうなぁ。ね、先生。みんななんて言ってました?笑ってましたか?…あ、やっぱり聞きたくないなぁ、私かっこわるいんだもん」
「…誰も笑ったりしてないよ。みんな君の心配をしてる」

ぴく、と私の指先が震えた。耳に入ってくる先生の声は、いつもどおり優しい声だ。だから余計に私は、戸惑った。どうしていいのか分からなかった。なんていっていいのか分からなかった。ただ、一言。未だ目は伏せたまま、「先生、藤くんは隣のベッド、いない?」とか細い声で聞いた。すぐに「大丈夫、いないよ」と返ってくる。分かってるみたいだ。ぜんぶお見通しみたいだ。誰にも聞かれたくない話だってこと。

「心配してほしくなくて、みんなにずっと言わないでいたのに」
「…病魔はおしゃべりな奴が多いから、ね…」
「そう…言っちゃったんですね。みんなにバレちゃったんですね、私のこと」
「うん、そうだね。君がずっと胸の中に溜めておいたこと、病魔が全部吐き出していたよ」
「ふふ。めーわくな話です、まったく」

小さく笑ってみたけど、実際ぜんぜん、笑えなかった。それに気付いた先生も、慰めるようにもう一度優しく名前を呼んだ。さん。大丈夫だよ、さん。せんせい、なにがだいじょうぶなの。私は全然大丈夫じゃないんです。目を押さえてた手の甲を僅かにずらした。目を少しずつ開いていったら、光がまぶしかった。天井が白い。すぐ隣に先生は椅子に座ってる。だけど顔を覗き込んできたりはしなかった。だから、私は泣かないで済んだ。まだぼんやりとしてるみたいに、独り言っぽく声を絞り出した。

「私、家族とうまくいってないんですよ」
「…うん」
「どうしたらいいのか分かんないんです。家に居場所がないんです」
「うん」
「少しでも家にいる時間を減らそうと思って学校行くんですけど、」
「うん、」
「その学校でもちょっと嫌なことがあると、よけい全部全部嫌になってどうでもよくなって」

ぜんぶこわれちゃえばいいのにって思ってしまったんです。わたしほんとうにさいていなんです。急に、もう全部に苛立つんです。仲のいい友達にも、ぜんぜん知らない男子生徒にも、苦手な先生にも好きな先生にも、いらいらしちゃうんです。楽しそうに笑ってる誰かの笑い声も教室中に響く騒ぎ声も、全部嫌になる。廊下の窓ガラス全部割ってやりたいって思うし机ひっくり返したくなるし、学校に時限爆弾仕掛けたくなるんです。馬鹿ですよね、でも本当に思っちゃったんです。これって病魔のせいだったんでしょうか。私は早口に喋って、その言葉の最後に先生へ質問する。こうすれば先生はそれ以前の言葉をスルーして、最後の質問にだけコメントしてくれると思ったから。

「そうだね…さん、今この瞬間も、全部壊してやりたいって思う?」
「…思わないです。仲のいい友達は大事だし、好きな先生のこともちゃんと好きでいられてます」
「うん。じゃあやっぱり病魔のせいなんだよ。君は何も悪くないんだ」

ただ、家のことを思い出して悲しくなるのだけは、まぎれもなく君の自然な感情なんだ。そう言って先生が椅子から身を乗り出し、私の顔を覗き込んできた。「具体的な、危険な破壊衝動は君の本心じゃないから、大丈夫」そう言って、にこ、と笑う。ああそうか。さっきまで繰り返されてた「大丈夫だよ」はそういう意味か。私はぎこちなく笑顔を返してみる。なんだ、鬱病とかじゃないのか、わたし。ちょっと安心したかもしれない。

「でも、話してくれて良かったんだよ。僕じゃなくてもいい、仲の良い友達にでもいいから」
「……話さないですよ、こんなの。家の問題なんて、友達に話したって困らせるだけです」

優しい言葉を跳ね返すように、突き放すような言葉を口にする。しまった、と思ったときにはもう遅い。先生は悲しそうな顔をして、私を見ていた。その表情を見てると堪えきれなくなって、唇を噛む。寝返りを打って、背中を丸めた。先生が何か言いたそうにしているのが背中越しに伝わる。「ごめんなさい、」私は小さな声で呟いた。「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん…」呟くたびもっともっと声が小さくなった。嫌になるけど、もう「壊してやりたい」なんて思わなかった。ただ、消えちゃいたいと思った。

「でも、しょうがないんです。友達は、家の外の友達じゃないですか。家のことなんか忘れて過ごせる。その友達に家のこと話しちゃったら、どこにも家が関与しない場所なくなっちゃいます。嫌なんです。すごく怖いんです」

言ってるうちに声が震えてきて、私は布団を頭まで被せて、もぐった。ぽろぽろと涙が出てきて、声が漏れるのを必死におさえた。唇を噛んで、口を押さえて、堪えた。ばかみたいだ。こんなこと言ったって、どうせもうみんなにバレちゃってるのに。先生困らせるだけなのに。ああ、やだなぁ、みんなどんな反応するだろう。みんな優しいから、家のことについて聞いてくるかもしれない。力になろうと。だけど、駄目なんだ。嫌なの。知ってほしくない、関わってほしくない。「家のことなんか関係ない友達」でいてほしいの。心配させたくないなんて理由じゃない、結局は全部自分のため。話したくないのは、自分のため。こうやって布団にくるまってずっと逃げていられたらいいのに。音も景色もにおいも全部全部なくなって、何も考えなくて済めばいいのに。だけど布団越しに、確かにきこえた。私を呼んでる声が。さん、と。

「僕は、それでも話してほしい。君は誰にも話してないから、解決策が見つからないのかもしれないよ」
「そんなの、違う。分かんないじゃないですか。話したって何も解決できない、きっと」
「出来るよ。君が諦めなかったら絶対だ」
「…っ」
「ねぇ、さん。さっき僕は、病魔が君の言いたかったことを吐き出したって言ったよね。君は自分がなんて言いたかったのか、わかる?」
「……なんですか、私、なんていったんですか」
「助けて、って言ったんだ」

どくん、と心臓が鳴った。息が詰まりそうになる。喋っているうちにとまりかけてた涙が、急にまた溢れてくる。ちがう、そんなんじゃない。私はみんなに助けてもらいたかったわけじゃない。違う。ただ逃げたかっただけで、ちがう、はずなのに。もう声を抑えられなくなって、気が済むまで泣いた。布団の中でずっとずっと泣いた。布団が濡れちゃうけど、これってハデス先生が洗ってくれるんだろうか。藤くんが隣のベッドにいなくて本当によかった。こうなることを知ってて先生が追い出してくれていたんだとしたら、本当に感謝しなくちゃいけない。何度拭ってもとまらない涙と、噛み殺せない泣き声。みっともない声を漏らして、泣いて、泣いて泣いて。


それから何分経ったんだろう。数十分くらい経った気がした。自分がずっと泣いていたのか、泣き疲れたのかも分からない。ただ、ふと私は布団から顔を出して、先生のほうを振り返った。もう自分のデスクのほうに戻っているだろうと思ったのに、先生は変わらずその椅子に座っていた。そして振り返った私と目が合った。ずっとそこにいたの、かな。ずっとずっと、私が振り向くのを待っていたのかな。目が合って、私は自分から振り向いたくせにどうしたらいいかわからなくて恥ずかしくなる。だけど先生は、ふっと笑って、「お茶淹れようか、さん」と提案する。私は戸惑いつつもコクンと頷いた。それを確認して安心したように微笑み、先生はようやく立ち上がる。背を向けた先生に縋りつくように、「先生、」と声をかける。先生が振り返った。

「どうしたの?」
「…先生、あの…ありがとうございました…」
「ああ…病魔のことは心配しないで。君のせいじゃないし、僕の仕事だと思ってるし…」
「ううん、そのことだけじゃなくて…」

いろいろです。いつもありがとうなんです。視線を合わさずに私が小さな声で言うと、先生はやっぱり微笑みながら、「気にしないで」と言う。その声が優しすぎて、私は胸がきゅうっと痛くなる。先生がさっき言った言葉を思い出す。誰にも話してないから解決策が見つからないんだよ、か。私は、みんなにうまく話せるだろうか。話していいのかな。話さないほうがいいのかな。でも先生が、ああ言ってくれた。私は信じないといけないんだ。逃げないで、居場所を作らなくちゃいけない。私はベッドから身を起こして、お茶を淹れる先生を見る。そして、のそりと移動して、ベッドの端に腰掛けた。「ねえ、先生」懲りずに私は声をかける。先生は振り返る。

「話してもいいんだよね。居場所、なくならないんだよね」
「…さん…」
「私、いてもいいんだよね」

先生の言葉に頼るしかなかった。欲しい言葉を、ぜんぶぜんぶ先生からもらいたかった。私は先生をじっと見つめながら、自分でも情けない、震えた声を出す。私、泣きすぎてひどい顔をしてるかもしれない。だから、みんなと余計に会いにくかったけど。だけど、前へ進みたかった。何もしないのは、もっともっと怖い。先生は、淹れ終わったお茶をベッドまで持ってきて、私に手渡す。そして、何度目か分からない「大丈夫だよ」を口にして、こう続けた。

「辛いときは、保健室へおいで。居場所ならここにつくってあげられる」

優しい先生がくれるその力強い頼もしい言葉。私は、とまったはずの涙がまた出てくる気配を感じた。受け取ったコップをきゅ、と握って、俯いて黙り込む。ああ、もう、ないちゃうよ。だって優しいんだ、先生。なきそうな私に気付いてか、先生がそっと頭を撫でてくれた。大人の男の人の手だ。大きくて、その手の優しさに泣きそうになる。やがてチャイムが鳴って、休み時間になる。心配してくれてたシンヤちゃんや明日葉くんたちが保健室へやってくる。美作くんがハデス先生に、何泣かせてんだって誤解する。藤くんが隣のベッドまで眠りにくる。私は、全部きっと話せる。みんなに力をもらえる。大丈夫、大丈夫、ぜったい大丈夫だ。私の居場所は、きっとここにある。






BANDAGE