「先生、具合悪いので保健室で休んでもいいですか?」

ノックもせずにがらりと引き戸を開け放ったら部屋の奥でベッドのシーツを整えていた「保健室の先生」が振り向いた。あまり利用者の多くない保健室に人が来たのが嬉しいのか、ある意味不気味なまでの笑顔をこちらに向けて。いらっしゃいどうぞゆっくりしていってお茶でもだそうかお菓子もあるよ、と上機嫌に言いかけた唇が途中でぴたりと止まる。私の姿を見て、足元からつつつと視線を徐々に上へ。そして先程の笑顔は消して、変なものでも見るような顔で、「」と私の名前を呼んだ。呆れたように溜息を吐き頭の後ろを掻く。

「なんで学校に来るんだよ。経一といい、鈍といい、お前達は…」
「生徒だと思った?私のぴちぴちボイス中学生でも通用した?」
「…紛らわしいことするな。こっちは勤務中なんだ。、今日仕事は?」
「夜にちょっと付き合いの飲み会があるくらい。昼間はオフ」

中学校に保険医として勤務してる私の、ふるい友人。久しぶり、くらい挨拶してよと思ったけれど、生徒を装ったセリフと共にここへ入ってきた私も私だった。とりあえず部屋の中のソファーに勝手に座り、きょろきょろと辺りを見回す。学校という場所自体、なつかしいものがあるけれど。この「保健室」という特殊な空間は、あの頃と本当に変わらないんだなぁと思った。その保健室にいる先生が自分の知り合いだということがなんだかおかしくって不思議な気分だ。本当に教師とかやってるんだな。清潔感のある白の部屋。まあ保健室が清潔じゃなかったら問題だけど。私が好き勝手にきょろきょろしているのが心底おもしろくないといった様に、この保健室の主はお茶も出さず叱ってくる。

「用がないなら帰ってもらおうか。っていうか用があっても普通、仕事中に…昼間の学校に来ないだろ」
「…なあに、厳しくない?経一の話じゃあ生徒達に舐められっぱなしのへなへな優しい保健室の先生だって…」
「経一がそう言ってたんだな?」
「うん、多少の脚色は加えたけど」

でも、最初私が室内に入ってきた時のあの様子じゃあ確かにそうなんだろう。どっちかっていうと生徒の御機嫌でも取ってるんじゃないかって、好かれるように必死なんじゃないかって、そう思ってしまう。帰るときそこらへんの生徒捕まえて「派出須先生ってどんな先生?」って聞いてみることにしよう。うん、決めた。一人で納得してうんうん頷く。その間も当の本人は「経一のやつ…」とぶつぶつ呟いていたけど。お茶を出してくれないなら自分で用意しようかなー。いいなあ、学校でお茶を淹れられるって教師の特権だなあ。立ち上がろうとしたら、それより先に彼が私に背を向け、お茶を淹れにいってくれた。なんだちゃんと優しい先生じゃないか、と思ったけれど「飲み終わったら追い出すからな」と釘を刺された。つれないわ、派出須先生。

「ねえ、逸人」

呼べば、白衣を纏ったその背中は振りかえらずに「なんだよ」と返事をした。すこし、おかしかった。ここは学校で、逸人は学校の先生なのに、そんなこと全然関係ないように、そんな設定どっかに放り投げてしまったように、私たちは「逸人」と「」で話しだすから。我ながら、うん、改めて。学校でなにしてんだろうって思う。だけど罪の意識も後ろめたさも感じない。社会だの常識だのに正面から喧嘩を吹っかけているような気分で気持ちがいい。そうだ、中学生のときに体育の授業をサボって屋上で昼寝したときのあの感覚と似ている。なるほどやはり、ここは学校だった。「なんだよ」と私の呼びかけに返事をした逸人だって、教師なんて格好と名ばかりで、家に遊びに来た友人をもてなす感覚でいるに違いない。

「鈍と経一、結婚するんだって」

ぽつり、水を打つように。沈黙の中に声を落とすと、逸人は音もなく静かに振り返った。それから私をじっと見て、また顔の向きを戻す。目を逸らし終えてから、「知ってるよ」と返ってきた。まあ、そんなことだろうと思ったけど。このところ私なんかより全然、逸人のほうがあの二人と連絡を取り合っていただろうから。仲間はずれなんて寂しいわ。そんな文句を垂れることも出来ない。きっと距離を置いていたのは私なのだ。私だけが、いろんな現実から目を背ける道を選んだのだから。(鈍と経一が、逸人のために躍起になってるのを分かってても、逸人が心配でも、なんにもしてこなかった私だ)

「逸人って鈍のことが好きなんだと思ってた。それか鈍が逸人のこと好きなのかなって」
「…それ、経一の前で言ってみろ。泣くと思う」

用意したお茶をテーブルの上に置いて、逸人は溜息を吐いた。わりと、本気でそう思ってたんだけどな。そう言いたかったけれど、ひとくちお茶を飲み、そんな言葉も一緒に飲み込んだ。学生時代から、そうだ、逸人も鈍も経一も仲が良くて。私はぼんやり、その一歩後ろをついて歩いた。ときどき鈍が「もいらっしゃいな」と腕を引っ張ってくれて、それだけで良かった。仲の良い三人を見ていると、楽しかったから。ああ、そういえばこの学校には三途川先生もいるんだっけ。あとで挨拶にいこうかな。ぼんやり思った。

「そうだな、仮にそういう気持ちを持っていたとしても」
「…うん?」
「鈍を幸せに出来るのは、経一の方だったと思うよ。間違いなく」

そう言って小さく微笑む逸人は、改めて見るととても、大人だった。出会った頃の荒々しい感じはすっかりなくなっている。こんな、おとなっぽく笑える人なのか、と眩しいものでも見るように目を細める。逸人は私の向かい側に座った。自分の分のお茶に一度くちをつけて、それから私へ視線をやって、そういえばというように「、お前は」と話を切り出す。けれど、言葉が続く前に私がそれを遮った。

「じゃあ、逸人は誰を幸せにできる?」

逸人は、口を半分開けたまま言葉を失って、固まった。いきなりなにを言い出すんだ、と驚いているようで。私は彼の淹れたお茶をもう一口飲んで、からからに干上がりそうな喉を潤した。自分がどういうつもりでそんなことを言ってしまったのか、私も不思議だ。だけど言ってしまったものは、仕方ない。保健室の先生の逸人だ。「ここへやってくる生徒たちを幸せにするのが仕事だよ」とか言ったら、それはそれで正解なのかもしれないけど。だけど、そうじゃなくて。よく知る知人が、友達同士が、結婚するんだと聞いて、さ。鈍を一人の女性として幸せにできるほどの器はないと言っておいてさ。じゃあ、あなたが幸せにできそうなのって例えば誰ですかって、そう訊いた。「先生」としての意見は、訊いていなかったから。

「あのね、わたしね」

あのね、あのねいつひと。うまく声が出ない。頼りない声を絞り出して、私は名前を呼ぶ。いつひと、あのね。言葉をなかなか続けられないでいたら、見計らったようにチャイムが鳴った。その音も学生時代を思い出して懐かしくってしょうがないけれど、ゆっくり懐かしんでもいられない。私ははっとして立ち上がる。我に返ったように。逸人も同じ様にはっとして、壁にかけてある時計を見た。「休み時間になったら、生徒が少し、遊びに来るかもしれないから」そう、小さく彼は呟く。わかってるよ、と胸の内だけで返した。

「さすがに現役中学生に混ざって教師さんの業務を妨害するのもね、気が引けるものね」
「帰るのか」
「帰るよ。お邪魔しました。お仕事、頑張ってね。ハデス先生?」

いたずらっぽくそう言って、お茶をいっきに飲み干し出口へ向かう。先ほど逸人に言おうとした言葉はもう、お茶と一緒に飲み込まれてしまった。もう、思い出せない。口にだすこともないだろう。とうとう、言えずじまいか。引き戸に手を置いたとき、背後から名前を呼ばれた。「」と、私を呼ぶ声。足を止めて、でも振り返るのもなんだか躊躇われて、黙りこむ。逸人の言葉を、じっと待った。

「今度、ゆっくり話さないか。こうやって仕事場に押しかけるんじゃなく、ちゃんと」
「…今度?」
「ああ。また機会を、」
「じゃあ今夜にしましょう」
「………は?あ、いや、だってさっき夜には仕事関係の飲みがあるって」
「そんなもの、どうだってなる」

振り返りはしないけれど、逸人の困惑したような、はてなマークを頭に浮かべた表情が想像ついた。私は扉と向きあったまま、後ろにいる逸人に言う。「今日。今日にしよう。どこでもいい。どこかへ連れてってよ」ふたりでどこかへ。それは私にとってすこし、贅沢な願いだったけれど。ねえ逸人。そうしたら、その席でなら、言えるかもしれない。さっき言いそびれたことばたちを、口にすることが出来るかもしれない。何年も前から、言えそうで絶対に言えなかったこと。やっと、言えるような気がするの。「わかったよ。一緒に、いこう。(ねえ逸人、あのね、私ね、あなたが好きだったの。幸せにしてくれなんていわないから、これから一緒にいてもいい?許される、かな)



Ready To Fly