|
両親の離婚が決まったとき、父親の借金が原因だと聞かされて、中学1年生の私は漠然とこう思う。 『どれくらいのお金が私にあったら、家族は元通りになるんだろう』 それは何万円くらいなんだろう。何十万、何百万、何千万。その頃の私にとっては一万円でさえなかなか馴染みのない大金で、その紙片が分厚く積み重なったところなんてテレビのなかでしか見たことがない。テレビの中の世界っていうものはほぼ自分にとっては架空に近くて、つくりものじみていて、夢みたいな話で。ということはきっと、壊れた家族の絆が元通りになるなんて夢みたいな話なんだろうとぼんやり思った。だけど、つい先日まで何事も無く普通の家族だったのに、どうして変わってしまったんだろう?とも思った。金が原因だと分かってはいても、そんな話これっぽっちも知らなかったから。いや父親が隠していたんだろうけど、それでも。私はやっぱり思った。「私にお金があればきっとママもパパも元に戻るんだろう」って。お金さえあれば。夢みたいな大金があれば。借金なんてなくなって、生活がとっても裕福になれば、なんの不自由も不満もなく、ママもパパも笑っていられるんだろうと思った。 借金はオプションに過ぎなくて、もっと大きな原因は父親の不倫だと知ったとき、中学1年生の私は呆然とこう思う。 『結婚も、子どもも、価値なんて無いんだ。なんの重さも無いんだ』 何か意味があるのだとしたらきっと、特定の誰か以外を愛すのに障害になるくらいで。「邪魔」っていう、それだけの意味。感動的に思われる結婚式にも意味はない。一生涯その人を愛しますなんて、口約束に過ぎなくて。父親は結婚式で何を誓ったんだろう、と疑問に思った。なんにも誓ってやいないのか、誓いなんて簡単に破れるものなのか、よく分からないけど。ママはパパを愛していたわけだから、問題が借金だけだったら、一緒にどうにかしていきましょうって言うつもりだったって話していた。でも自分以外に好きな人がいるような男と結婚生活を続けられるほどの力はないんだって。私は今でもたまに離婚が決まったあの夜を思い出す。深夜の私の部屋。泣き喚くママに抱きしめられながら、部屋の入口で土下座してる父親の姿をわけもわからずぼんやり眺めていた、あの夜を思い出す。 母親が自殺未遂をしたと分かったとき、中学1年生の私はこう思う。 『金があったって、なんだって、もうきっと何にも戻らないんだ』 だって今回は未遂でも実際ママが死んでいたら、何千万のお金があったってママは戻ってこないんだから。もう全部きっと手遅れなんだ。もうぜんぶぜんぶ壊れてしまった。狂ってしまった。周りの大人にあなたのおかあさんはいまとってもつかれてしまってすこしあたまがおかしくなってしまっているから、そばでみはっていてあげてねと言われた。見張っていろというのは自殺しないように監視していろという意味で、ママは結局今の今まで私に自殺未遂の話を打ち明けてくれていなくて私が気づいていなかったと思っているだろうけど中学1年生の私にはとってもショッキングな事件だった。夜が来るのがとても怖くなった。ママを一人にさせたらきっと死ににいってしまうんだって思った。ふらりと車で出かけていってしまった夜、私はもう一生ママが帰ってこないんだろうと思って布団の中で丸まって朝まで泣いた。眠ってしまいたかったのに眠れない自分を恨んだ。朝になってから何事もなかったように笑って家に戻ってきたママが恐ろしく思えた。なんでこの人は笑っているんだろうと、人間以外の生き物に見えてしょうがなかった。怖かった。 きっと今にママに嫌われるんだろうと思った。だって未遂とはいえ自殺しようとしたということはつまり、私を見捨てることができるということで。親を失ってからの私を考えずに死ににいけるということで。でも結局未遂ということはつまり、見捨てたいけど見捨てられない優しい人で。見捨てたいのにそれができないのはとっても苦しいことで。父親似の私のことなんかきっとすぐに嫌いになるんだろうと思った。顔も見たくないと、嫌われるんだと思った。 出かけた先で見かける、仲良く買い物をしている見知らぬ家族を憎く思った。私だってつい最近までそうだったのに、と思った。だけどすぐに羨ましくもなんともなくなった。きっとあの家族も、今はなんにも知らない顔で幸せそうにしているけど、明日にでもその家庭が崩壊して、地獄を見るんだろうと、そう思うことにした。だから幸せそうな家族を見たら、同情してあげることにした。いつからか、それくらい、脆い物にしか見えなくなった。家族ってなんだろう。私は父親のことを「パパ」と呼べなくなっていた。 父親と母親の愛の証に私が生まれたんだったら、その愛が無くなったとき、「私」は何になるんだろう。
「あのねえ浜田、わたしねぇ、きっとかわいそうな浜田が好きなんだ」 ちくちくと応援団関係の縫い物に没頭する浜田にそう声を掛けたら、彼は「え?」と声を上げてこちらを見た。視線はこちらに寄越したくせに手をとめなかったから、手元が狂って針を指に刺す。小さい悲鳴を上げて浜田は指を口に含むけど、やっぱり目はこっちに向けてあった。口から指を離すと、「なにいきなり」と短く訊いた。私は浜田の部屋の出しっぱなしの布団に寝転がって、視線を合わせないようにした。誤魔化すように、天井だけを見上げた。 「浜田がかわいそうじゃなかったら、ただの幸せなバカだったら、私好きになってないんだよ」 きっとそうなんだ。確かめるように呟いた。声にしてみると、ずいぶん酷いことを言っていることに気づく。怒り狂って当然な台詞なのに、浜田はやれやれみたいな呆れた声で、「人のことカワイソーカワイソー言うなっつーの」とだけ言った。それからおとなしくなる。上半身を布団から起こして見やると、浜田は縫い物を再開させていた。目が合うと、「ん?」とだけ言う。どうかしたのか、と目だけで聞かれる。なにごともなかったように。全然気にしてない顔で。 「どうして怒らないの」 「…へ?なにが」 「今の」 「いま?…あー、あぁ…いや、怒ったじゃん。カワイソーカワイソー連呼すんなって」 「そこじゃない。そうじゃないでしょ。なんで怒らないの。どうして怒らないの!」 私はいきなり腹が立って、枕を床に叩きつけた。浜田がぽかんと口を開けて私を見ている。自分でもなにがしたいのか分からなかった。どうして腹を立てているのかも分からなかった。自分でも頭がおかしいと思った。ああ頭がおかしくなったんなら、次はそうだ自殺未遂でもしてしまうのかもしれない。馬鹿みたいな考えが浮かぶけれど、私はただ浜田を見る。ただじっと、睨んでいた。彼は私の様子がおかしいのに気づいたのか、動かしていた手を休めて、針を置いて、正座して、私をじっと見る。睨み合って、見つめ合って、しばらく経つと浜田は困ったように頭の後ろを掻いた。 「俺が可哀想ってなに。家のことだろ?いーよ、それは。なんかもう、なんだろ。慣れてるっつーか、うん」 「馬鹿にしてんのかって怒鳴るでしょ普通。どうして怒らないの」 「どうしてそんなに怒られたいの」 そんなに言うならこっちからも言ってやる。そんな感じで、浜田は返してくる。呆れたような、つまらなそうな声で。私は浜田をじっと見る。浜田も私を見ていた。ただじっと、黙ったまま。声こそ呆れ気味だったけど、視線は本当に真っ直ぐだった。 「浜田はずるいよ。ねえなんでそうやって優しく出来るの。なんで自分だけ、って誰かと比べて嫌になったりしないの。人を嫌いになったりしないの。恨んだりしないの。浜田はずるいよ。私はこれっぽっちも人に優しくできないのに、ずるいよ。うらやましいんだよ。家族がバラバラになったのに、一人で生きていける浜田が、受け入れていられる浜田が、かわいそうでかわいそうで、うらやましくて、それで」 それで、すこしだけ、あこがれるんだよ。そこがすきなんだよ、わたしは。言っている内にわけがわからなくなって、悔しさが溢れて、胸がつっかえて、泣きそうになる。浜田はただ黙って私の話を聞いていたけれど、すっと立ち上がって、それから私のすぐ目の前に座った。さっきよりもずっと近くで見つめ合う。浜田は怒らなかった。ただ小さく、子どもに教えるような優しい声で、「お前はきっと、自分が可哀想なんだろうな」って呟いた。私は彼の悲しい目を見ていられなくて、俯いた。きゅっと唇を噛んで、小さな自分を見下ろす。 「なあ、」 「うん」 「俺のこと好き?」 「好きだよ」 「その気持ちはさ、同情なの?」 「最初はきっと、そうだった。私は自分が自分で可哀想で、同じくらい可哀想な誰かが傍に欲しかった」 「今は違うの?」 「憧れてるの。一人で生きられる浜田が、強くて、眩しくて、ちっとも可哀想に見えなくて、優しい」 手が伸ばされる。その手は私の頭をよしよしと撫でる。いつもはへらへらしてて、馬鹿みたいなのに、こういうときの浜田の表情は大人びていて、普段が演技みたいに思えるほど。私のくしゃくしゃな髪を、もっとくしゃくしゃにするように、浜田は撫でる。どうしてだろう。どうしてこんなに優しいんだろう。分からなかった。こんなに優しくしてくれる人が、私には他にいなくて。どうして私に優しくしてくれるんだろう、と思った。「どうして」ばかりが頭に浮かんで、そのひとっつも、解決されない。分からなかった。 「俺はさ、一人でなんか生きてないよ。そりゃあ一人暮らし始める時は、これからはなんでも一人でやらなきゃとか、一人で生きていかなきゃって思ったかもしんないけど。でもさ、一人でなんか生きられないんだよ。俺には友達もいるし、離れてるけど家族も確かにいるし、あとお前もこうやっていてくれるし、一人じゃないんだ。なあ、きっとさ、一人でなんか生きようとしちゃ駄目なんだよ」 中学1年生の頃、親が離婚してそれ以来、多少自分の中の価値観が変わったんだと思う。自分は、一人にならないといけないのかもしれないって漠然と思ったんだ。一人でなんでも出来るようにならなくちゃいけないって思ったんだ。ママに頼ったり、負担をかけたり、いつ死なれるのかってびくびくしたり、それじゃあいけないんだって思ったんだ。浜田は私の肩を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。その腕の中はあったかくて、どうしてかどんな場所より安心できて、私はまた少し泣きそうになる。 「ねえ浜田わたしね、父親がどうして不倫したのか、分からなかった。二人が愛しあったから私が生まれたのに、その愛を嘘にされたら、私の存在も嘘にされた気分になったんだよ。愛が消えたなら、私も一緒に消えてしまえたら良かったのにって。どうせママ以外の人を好きになるんだったら、私のことは産んでくれなくてよかったのにって思った。どうして私は生まれてしまったんだろうって、ずっと、思っていたんだよ」 ばかみたいかなぁ、馬鹿かなぁわたし。浜田の腕の中で小さく小さく呟いた。 「ねえ、浜田、わたしね。それでも私はね、結婚したら子どもが欲しいと思うんだよ。私は絶対同じ思いを子どもにはさせないんだ。自分が欲しかった分、子どもにいっぱい安心をあげたいんだよ。いっぱいいっぱい愛したい。結婚相手のことだって、たくさんたくさん愛したいの。ママと父親みたいには絶対ならないんだって決めてるの。あの二人に、どうだお前らとは違うんだぞって胸を張っていいたい。ねえ浜田、私はもう可哀想じゃないかなぁ」 浜田の背中に手を回して、ぎゅっとこちらからも抱きしめ返した。そうしたら浜田はもっと強い力で私を抱きしめる。私の肩に顔をうずめる浜田は、なんだかすごく男の子のにおいがした。「あのさぁ」と彼が私の名前を耳元でささやく。「俺も、お前と一緒なのかもしんない」と言う。私はなんにもいわずに、ただその声を耳に入れる。 「俺もさ、一人でいられないような弱い女の子のお前が、好きだよ」 一人で生きられないんだったら、俺と一緒に生きようって言えるから。どうして生まれちゃったんだろうって思うなら、俺を好きになるために生まれたんだよって言えるから。お前が生まれてなかったら、俺はお前を好きになれなかった。だから、その存在には確かに意味があるんだって、何度だって言ってやるよ。お前のお父さんとお母さんが結婚したのは、子ども生んだのは、俺のためでもあるんじゃないかって。意味のないことなんかじゃないんだよ。嘘になんか出来ないことなんだよ。時間が経って壊れてしまったからって、無意味になんかならないんだよ。浜田は何度だってそう唱える。照れくさそうに、ちょっと笑いながら。私は何度も頷いて、その言葉を聞いた。 「裏切られた分、誰かを信じて。神様に優しくされなかった分、人に優しくして。愛されたかった分、愛して。お前が両親に裏切られた分の、幻滅した分の愛を、俺が少しずつ与えられたらいいなって思うから。人を好きになるってさ、嫌なもんじゃねーよ。なんにも怖くないよ」 |