(……あ。)


何か考え事をしていたわけではなかった。むしろ全く逆で、何も考えていなかったからこそ、ぼーっとしていた。仲の良い人たちからすれば「またお前はすぐぼーっとすんだから」の一言で終わる。つまり一日の半分くらいをぼーっとしながら過ごしているような人間が私だ。思い出したように顔を上げて、前を見た。「ように」という言葉は実は必要ない。実際に、「思い出した」から顔を上げた。何をって、私はたった今まで、キルアの後ろをついて歩いていたことを。そして顔を上げれば、自分の前方に広がる景色に、しまったと思った。予想はしていたけれど、またやってしまった、と。ガヤガヤした人ごみに流されるままに歩いていた私は、完全にキルアを見失っている。っていうか人が多いんだよこの町。私はとりあえず、焦りつつもどこか焦りきれない、「いつものことだけど」「いつものことだし」を頭の中で繰り返す。どこではぐれてしまったのかも分からない。とりあえず来た道を戻ったほうがいいのだろうか。流されるままだった足をぴたりと止める。…と、私の後ろを歩いていた人がドンっとぶつかってきた。なるほど。急に立ち止まったら迷惑だ。人ごみにも人ごみの中なりに「人波」がある。まあとりあえずその波に逆らって歩くのはかなり困難だということだ。じゃあ、反対方向の波に乗ってしまえばいい。…だけど、困った。さっき立ち止まったときに「ああ立ち止まったら迷惑なんだな」と思った私は適当に足を止めず歩き続けていた。そのせいで、自分が最初どっちの方向から来てどっちの方向に進んでいてどこを目指していたのか、さっぱり分からない。


(つまり、…迷子だ。分かってたけど)


迷子っていう歳でもない気がするんだけど、実際4、5歳の幼い子と変わりない。迷子になったときはとりあえずどこかあたりを見下ろせる場所まで行って、立ち止まって、周りを見渡すようお母さんによく言われたっけな。あんたは何も考えずにとりあえず進もうとするから余計迷子になるのよって。その通りすぎる。でもこの人ごみの中じゃしょうがないでしょう。反抗するように、私はやっぱり行き先も分からず歩き続ける。そのうちキルアに会えるだろう、と。そもそも、キルアが歩くのはやすぎて置いていかれたのか、気付くとしらない方向へ私が勝手に歩いていってしまったのか。この人の多さじゃ、よく分からない。人ごみは嫌いだ。知らない人が大勢いるということほど、怖いものはない。自分の目に映るたくさんの人間、聞こえてくるたくさんの声、ひとつも見知ったものがない。それはかなり、不安。もともと人見知りする性格ではあるけど、自分の知り合い以外の人間が、あんまりにも他人すぎて、同じ人類なのかということすら疑いたくなる。


(このままキルアにあえなくなったらどうしよう)


ふいに頭を掠めた嫌な想像を、慌てて振り払う。そんなことあるわけがない。初めて迷子になったわけではないのに、急に不安になるから困る。こんなのいつものことだ。いつも迷子になるたび、誰かが見つけてくれる。キルアだって呆れ顔で、叱ってくれる。私のほうが年上だっていうのに、いつも叱る。だから、すぐ合流できるはずなんだ。すぐに。何時間か、かかるかも、だけど。もしかしたら、一日かかったり… あ、やばいそれ結局会えなくなったらどうしようっていう想像に繋がっちゃうじゃないか。すっかり弱気になっていた私は、自分の足元ばかりを見つめながら歩いた。だけど、これじゃ見つかるもんも見つからない。バッと顔を上げた直後、人と人との波の間に、キルアと同じような背格好をした子が視界をかすめた。一瞬で人ごみに紛れて、見えなくなる。それにハッとして、私は思わず駆け出す。


「キルア!ちょっと待ってよ!キル、」
「俺こっちなんだけど」


聞きなれた声がしたのは私の背後からだった。え?と振り向くより先に、ぐいっと腕を引っ張れる。犯人はもちろん、背丈的には私とほとんど変わらない、年下の銀髪少年。ほぼ引きずられるような形のまま、私はキルアのあとを追いかけた。あれ?あれれ?今自分の腕を引っ張っている人物と、さっき自分が追いかけようとした人物が消えていった方向を交互に見る。ハッとしてキルアに向かってとある文句を言おうとしたとき、それより先に「言っとくけど『さては瞬間移動したな!わざとはぐれたんだな!』とか思ってんなら大ハズレ。お前がさっき追いかけようとしたの俺じゃないから。見間違いだから。あとお前が勝手にはぐれただけだから」と的確なツッコミを入れられた。ぐうの音もでません。私の手を引いたまま、キルアはだいぶ人波が薄れた所へ連れて行ってくれた。だけどそこへ着くなりさっさと手を離し、ポケットに自分の手を仕舞いこむ。


「お前いい加減その方向音痴直せよな」
「ほ…方向音痴じゃないよ!ただちょっとぼうっとしてたらキルアが置いてったんじゃん!」
「よく言うぜ。全然見当違いの方向に向かってたくせに」
「だ、だから、今のは!キルアに似てる子がいたから…」


自分の方向音痴っぷりはよーく理解しているんだけど、キルアに言われると否定したくなる。ぶつぶつと私が文句を言うと、キルアはハァとわざとらしく溜息を吐いて、「俺の後ろ姿くらい分かれって言ってんだよ」と言った。私はうぐっと言葉に詰まって、それから、肩をすくめる。悔しいけど、キルアの言うとおりだ。人ごみが苦手で、他人が苦手で、キルアに会えなくなったらどうしよう、なんて不安で不安で、ただ見つけてくれるのを待ってるだけだった私をちゃんと見つけてくれた。なら私は、言い訳をするべきじゃない。素直になるべきだ。


「…ごめんね、キルア。見つけてくれてありがとう」
「……」
「……キルア?」
「素直すぎても気持ち悪い」


くっ…なんなのこの子。ムリだ私この子に対して駆け引きとか通じないわ。キルアくん攻略ゲームとか絶対数分でゲームオーバーだわ。しかも、照れながら「素直すぎても気持ち悪い」だったらいいけどいつものしらっとした顔で言われたからね。でも、怒っちゃいけない。キルアらしいといえばキルアらしい。私は小さく溜息を吐いて、「はいはいすみませんね」と投げやりに返事をした。そんな私を見て、キルアはチェシャ猫みたいに口の端を器用に歪める。「そうそう、それでいーんだよ」と。満足げに言えば、ポケットに手突っ込んだままくるりと私に背中を向ける。


「ほら。はやく行こーぜ。もう迷子になんなよ」
「…なら、もう置いてかないでよ」
「だーから俺が置いてったんじゃなくて、お前が勝手にはぐれたんだよ」
「キ、キルアが歩くのはやいの!」
「お前がトロいの」
「…うぅ…じゃ、じゃあ置いていかれないように、私が前歩こうか!?」
「ハハッ!バーカ、俺まで迷子にする気かっての」


一歩前を歩くキルアが、後ろを向きながら私に笑う。前向いて歩かないと、危ないのに。けどキルアのことだ。前なんか確認しなくても、障害物はひょいひょい避けることができてしまう。悔しいけど、そういうもんだ。こうやって、キルアとおしゃべりしながら歩いていれば、迷子にならなかったのに。追いつかないときは、「待ってよ」っていえたのに。そんな言い訳が頭に浮かんだけど、全部見透かしたように、キルアが言う。「お前はたまに、ぼーっとすんだもん」私がはぐれた理由は、お見通しだ。ぼーっとしてたから。意味もなく。これはもはやくせみたいなものだ。


「分かってたなら、声かけてよ」
「…んー、べつに声かけようと思えば、かけられるけどさ」
「けど、なあに」
「お前はたまにさ、ほんとたまに、気付いたら俺が声かけられないとこまでいっちゃってんだよ」
「…えー…なにそれ。声かけてほしくなさそうにしてるってこと?」
「まあ、そうじゃないけど、そんな感じ」


なに、それ。もう一度私は口に出してみたけれど、キルアはちょっとだけ作ったような笑みを浮かべるだけで、答えなかった。だけどきっと私も、同じ様な表情をしている。それきりキルアは黙ってしまって、私も黙っていた。意味もなく、ぼうっとする。それはクセだけど。直す予定もないような、通常運転の私だけど。自分でも気付かないうちに、自分から迷子になっているようなものかもしれない。声をかけてもらっても、すぐには戻ってこないような、そんな気がする。キルアはそれが分かっている。きっと。さっき思わず「前を歩こうか」と言ったけど、私はたぶんそれができない。キルアも、分かってる。重度の人見知りも、怖がりも、キルアは知っている。キルアの後ろ姿を見て歩くことが落ち着くくせに、すぐ見失う。じゃあ自分が気をつければ済むのに。それができないのは、なぜ。


「…ねえ、こういうときって多分ね、はぐれないように手を繋ぐもんだと思うよ、私」
「ふぅん。そうなんだ」
「うん」
「繋ぎたいの?」
「べつに、違うけど」
「じゃあ、いいじゃん。俺はやだよ、子どもっぽい」


そっけない声が、私を急かす。いい案だと思ったんだけどな。ちぇ、っと拗ねて、自分の足元をコツンと蹴った。繋ぎたいわけじゃないよ、と制止をかけたのは私だ。だけど…でもだって、「繋ぎたいの?」って、なんだよ。そこはさ、男の子のほうから、「じゃあ繋ごう」って言うとこじゃ、ないのか。…なんて、こんなのきっと、女の子特有のわがままだ。これを言えば、キルアはきっとめんどくせーやつーと口を尖らせるだろう。だから、言わない。だけど…だけど。繋ぎたいの?の質問に、繋ぎたいよと答えていたら。それでもキルアは、嫌だって言っただろうか。そんな救いようのない期待をしても、なんにもならない。足元を見つめて、そんな考え事をして。それで、ハッと我に返った。言わんこっちゃない。また私はぼうっとしていた。またはぐれたかもしれない、と勢いよく顔を上げた。すると私の視線の先には、足をとめて私を待っているキルアがいた。どきっと胸を突かれる。


(「またぼうっとしてただろ」って顔、してる)


慌てて足を速めて、キルアの背後まで追いついた。だけどキルアは何も言わずに、追いついた私を確認したら、また歩き出す。それが彼の優しさだと、気付かないほど私は鈍くない。ごめん、か、ありがと か。ふたつの言葉が頭に浮かんで、とっさには選びきれなくて、言葉に詰まって、私はタイミングを失う。ふいに、「」と名前を呼ばれた。顔を上げたけど、キルアはこっちを見てなかった。「どうしてもって言うなら、俺の服の端っこでも、掴んでろよ」キルアは言う。どきり、と心臓が高鳴った。本当に全部、お見通しだ。キルア、と小さな声で私も名前を呼んだ。そこで彼は振り返って、私の目を見る。


「見失うなよ。俺だって、振り向いたときにお前がいないと、やだ」


「実はちょっと、焦る」ぼそりと付け加えて、キルアはまた前へ向き直った。私も追いかけた。一瞬で真っ白になった頭の中。だけどもう一度、「ごめん」と「ありがとう」が浮かぶ。どちらが、正しいだろう。迷って、まよって、答えが出なくて。気付くともう一度、「キルア」と私は名前を呼んでいた。キルアは振り返らずに、「なに。」と答えた。


「キルアが見つけてくれるって、迷子になるたび、私いつも信じてる」


「見つけてくれなかったら、って、たまに不安になるけど。」小さな声で私も付け加えたら、キルアがくくっと笑って、「それ信じてるって言うのかよ」と茶化した。たしかに、と少し恥ずかしくなって、私は黙る。キルアもなんにも言わなくて、ただ、ポケットから手を出して頭の後ろで組んだ。だいたいキルアって、ポケットに突っ込むか頭の後ろで組むか、どっちかだなぁ。ふとそんなことを考え付いた。だけど、声には出さない。でもポケットに手を入れたまま歩くのは危ない。なんて。やっぱりキルアなら転んだりしないだろう。「ねえ、キルア」私は呼ぶ。「なんだよ」と、今度は振り返った。


「いなくならないで、キルア」


思ったよりも、情けない声だった。分からない、わからないけど、伝えたかった。いなくならないで。おいていかないで。わたしを、待っていて。理由なんてない、ただなんとなく。そのはずなのに、声に出した直後、無性に泣きたくなった。でも、ここで泣いちゃだめだ、変なのって思われるし、恥ずかしいし。必死に堪えたのに、気付くと距離を詰めていたキルアがいきなり顔を覗き込んできた。いきなり視界がキルアでいっぱいになって、思わず顔を背ける。「やだ、ちょっと待って、今、見ちゃだめだから!」泣きそうになってるのをどうにか隠そうと、手を顔の前でぶんぶん振って、そっぽを向く。だけどキルアがそんな私の手を押さえて、やっぱり顔を覗き込もうとする。


「き、きるあさん、だめです…ちょ、ちょっと」
「やだね。顔ちゃんと見せてよ」
「…だから…っ」
「そんで、泣きそうな理由、言えよ」


泣き顔が見たいなんて、キルアはやっぱり、サディストの気質があるんだ。そう生意気なことも言ってやりたいのに、キルアの声がちょっと切なそうだったから、私は余計に泣きたくなった。なんで、なんで泣くんだ、わたし。私だって泣きそうな理由、知りたい。手を離してくれないから、私は観念してキルアと向き合った。吸い込まれそうな、キルアの綺麗な瞳。泣きそうなとこ隠そうだなんて、しちゃいけないな。だってやっぱり、お見通しなんだから。キルアはじっと私の目をみる。まるで、私の目の中に、泣きそうな理由を探してるみたいに。見つかったのか見つからなかったのか、キルアはしばらく経って、小さく笑った。


「…いなくなんないよ、俺」


私を安心させようと、精一杯の慰めなのかもしれない。いなくなんないよ、と言って、笑う。それを聞いて私も、同じように小さく笑った。私もキルアを、安心させたかったのかもしれない。だから、二人で笑った。おかしなやりとりだ。だけど確かに、安心したんだ。さて、とキルアが前に向き直って、歩き始める。先ほど掴んだ私の手は、まだ彼の手の中だった。こどもっぽくていやだって、いったくせに。キルアの手はちょっとつめたかった。二人で人の波に入っても、私はキルアしか見えなかった。キルアの声しか聞こえなかった。もう、見失わない。






帰るための





呪文



(いなくならないで。おいていかないで。わたしを、まっていて)