「ねえ、怜。遊ぼう?」

その声を聞いた瞬間、それまでノートにすらすらと文字を書きつらねていたシャープペンの芯がぼきりと折れた。一瞬でドッと噴きでた汗に不快感を抱く。彼女のたった一言で、この場の空気はおかしいものに変わってしまう。それでも僕は無視を決め込んで、新たにシャーペンの芯をカチカチと指で押し出すと、ノートに向かった。その間にも、さんが僕のすぐとなりにぴったりと身を寄せてくる。書きづらい。肘でそれとなく押しやったけれど、ちっとも離れなかった。それどころか、そっと僕の太腿をやわらかい掌で撫でる。服の上から触られているのに、やけにその掌が、あつく、湿っぽく感じる。撫でる、というより、撫で回す、…いやむしろ、舐め回すような、と表現したくなるくらいに、手つきがいやらしい。その掌が一つの生き物みたいに蠢く。

「離れてください。勉強の邪魔です」
「どうしてそんな冷たいこと言うの」
「…今日は、おとなしく勉強するって約束したじゃないですか。そういう約束だったから、貴女の部屋に来たんです」
「もうじゅうぶん勉強したよ」
「僕はまだやっておきたい予習があるんです」
「なあに、どこ。教えてあげる」

ぎゅっと自分の体を押し付けるようにして僕のノートを覗きこむ。かすかに香る甘い匂い。なんの匂いか、なんて、「誰の」といったほうが適当かもしれない。さんの、におい。いつもいい匂いがする。たまにくらりと目眩がするくらいに、いいにおい。それに気を取られていたら、自分の肘にやけに柔らかい感触が当たっていることに気づいて、思わずバッと腕を引いた。その拍子に机に肘を打って声は出さずに悶絶する。横から聞こえたくすくすという笑い声に、恨めしさが募る。

「教えていただかなくて結構です。こういうのは、自分でやるものでしょう」
「じゃあ、私が暇になっちゃう。やっぱり遊ぼうよ。怜」
「嫌です」
「どうして?」

ずるいくらいに可愛く小首を傾げた生き物にぞっとした。脳裏を過ぎったつい先日の「遊び」を、首を振って頭から消し去る。気づくと、先ほど僕の太腿の上にあった手のひらが僕の頬に添えられる。そのまま、まるで壊れ物を扱うみたいに優しく優しく撫でた。するりとその指先が僕の唇に移り、感触を確かめるように指の腹を押し付ける。下唇を右端からつつつと撫でて、それから、閉じた唇に指を割りこませようとするから、ようやく思い出したように首を捻って抵抗した。

「怜」
「…っ」

怜、こっち向いて。甘えるような声なのに、どこか強いるような響きを持っていた。ごくん、と喉を鳴らしたのは彼女ではなく僕の方。おずおずと顔をそちらに向けると、さんが真っ直ぐに僕の瞳を覗きこんだ。ただ見つめられただけ。それだけなのに。息をするタイミングが、わからなくなる。どうして。やっとの思いで吐き出した息は、おぞましいくらいに熱を孕んでいた。何かを期待するような顔の自分が、彼女の瞳に映る。ああもう抵抗は終わりか。結局また、この人につかまってしまうのか。自分に向かって嘲るけれど、同時に首が絞まる。

「今日はなにして遊ぶ?」
「……」
「新しい遊び、考えなくっちゃね」
「…そんなの…、」
「それとも、怜はもう一回この前の遊び、したい?」
「なっ!」

そんなわけないと声をあげようとした唇に、さんの唇が押し当てられる。触れるだけのキスで終わらないことは分かってた。首を傾けて、酸素を奪うように深く深く口付けられる。閉じた歯列の間を彼女の舌が無理やりこじ開けて、僕の舌を絡め取った。くぐもった声がお互いから漏れて、それが余計に興奮させる。うまく息が、できない。わざと音を立てて唾液を交じ合わせる彼女のキスは、人の羞恥心を煽ることに長けている。強く舌を吸い上げて、やっと唇が離れた頃には、彼女の腕は僕の頭の後ろに回されていた。

「はぁ…ベッド、行く?」
「…っ…行きませ、ん」
「カーペット敷いてあるとはいえここで遊ぶのは背中痛いと思うけど…」
「…そう思うなら、こんな馬鹿なことやめてもういい加減大人しく勉強、」
「ベッドがいい」
「ひとのはなしをきいてください」
「ベッドにしよう。ね、怜」
「……」
「ベッドに寝て」
「…、…僕がですか」
「そう」

はあ、と大きく息を吐いて、僕は大人しくベッドへ移動する。腰を下ろすと、ぎしりと軋んだ。「ちゃんと横になって。足を伸ばして、ちゃんと」要求通り、僕はベッドの上で足を伸ばし、手をついてゆっくりと上半身を沈めた。

「いいこだね、怜」

言いながら、彼女は僕に跨った。男としてなんともみっともない体勢。ぐっと唇を結んで、彼女を見上げた。屈辱に耐えている僕とは正反対に、上に跨る側の彼女はとても機嫌が良さそうだ。僕の腰の上にわざと体を擦りつけるような動作をして、「騎乗位ってこんな感じかなあ」なんて下品極まりない冗談を言ってきた。うつくしくない。うつくしくない。けれどそんな小さな冗談にも、かあっと自分の体が熱くなる。浅ましい自分に一番腹が立った。

「怜、シャツ脱いで」
「…っはぁ!?い、やです…」
「じゃあ、勝手に脱がす」
「わけがわからな、」
「怜は脱ぐより脱がされる方が好きだもんね。ふふ、変態っぽい」
「っ!」

くすくすと小さく肩を揺らして笑う姿は誰がどう見ても、可憐で、庇護欲さえ掻き立てられるというのに、言っていることとやっていることはその正反対だった。自尊心を平気で傷つけるような物言いに、小さく体が震える。だけど込み上げてくる熱い感情の波に、「怒り」は見つけられなかった。羞恥心ばかりが押し寄せる。否定の言葉を吐き出すタイミングどころか、そんな言葉咄嗟には全く浮かばなかった。だから余計に、否定しないんだねとでも言いたげな瞳が、僕を見下ろす。彼女の白くて細い指先が、僕の首元のネクタイに触れた。なぜだか首を絞められるような気がして、思わずきつく目をとじて、息を殺した。しゅるりと音を立てて抜き取られるネクタイ。続けてぷちりとシャツのボタンが一つ外される。恐る恐る目を開いたとき、僕を見下ろす彼女がぞっとするくらい愉しげな表情を浮かべていて、一瞬言葉に詰まり、さっきの言葉にやっとの思いで遅すぎる返事をした。

「ボタンくらい、自分で外せます…!」
「あれ?脱がされるの嫌?」
「嫌に決まっているでしょう!…へ、変態とまで言われて…」
「ふうん。じゃあ怜は、自分から脱ぐほうが好きなんだ」
「だっ…から!」
「冗談だよ。はい、じゃあ脱いで。私見てるから」
「そ、そもそもいきなり脱がなくてはならない意味が…」
「怜。はやく」
「う…っ」

まただ。甘えるような、媚びるような声なのに、縛り付けられたと錯覚させる声。じ、と射抜くような視線から逃げるように目を逸らして、僕は震える指先を躊躇いがちにボタンに添える。まばたきひとつぶんも見逃すまいとするように、彼女が僕のその手元を見つめた。あんまりにも目を逸らしてくれないものだから、見られているという今の状況に緊張して、心拍数が上がる。寝ながらの作業だったこともあり、時間を掛けて一つ、また一つとボタンを外していると、ふいにさんが僕の手をぺしりと払った。はっとして視線を上げる。眉を下げて、少し拗ねたように口を尖らせた彼女が目に映った。

「早くって言ったのに、怜、脱ぐの遅い」
「…す…すみませ…」
「どうして焦らすの。誘ってるつもりなの」
「は!?…あっあなたがじっと見てくるから!」
「見られると、なあに」
「なに、って」
「見られると興奮するの?」
「ちがっ、ぅあッ!」
「ほら、ここ。勃ってるよ?」

敏感な箇所をいきなり服の上から掴まれて、みっともない声が漏れる。それが自分の声だと自覚した瞬間、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。なんでこんなことになるんだ。なんでこんなことされてるんだ。おかしい、こんなの。もうあんな声二度と出すもんかと、唇をぐっと噛んで堪える。口さえ開かなければ。そう思って、耐える。彼女は、服の上から見ても分かるくらい不自然に盛り上がったそこを、ぐりぐりと指で押し潰すように揉み込む。せり上がってくる何かを誤魔化すように、唇をより強く噛んだ。声が漏れそうに、なる。抑えたつもりでも、小さく鼻を鳴らすような声が漏れる。いっそ鼻まで押さえてしまえば、なんて考える自分は確実におかしくなっていると思った。

「なんでだろうね。まだ変なとこ触ったり舐めたりしてなかったのにね」
「…っン、ふ…」
「ね、どうして?ねえ、怜」
「く、っ」
「意地悪言われるの、好き?興奮する?」
「…、…っ」
「答えなきゃだめ。怜」

そっと掴んでいた手を離すと、途中で止まっていた僕のシャツのボタンを下まで全部何の遠慮もなく外した。黙ったままじっと僕の上下する胸を見つめる。熱のこもった瞳が、視線から犯されているような気にさえさせた。どうしようもなく恥ずかしくなって、視線をそっぽに向け、空いた腕で顔を隠す。怖い。自分が自分でなくなっていくような感覚、ここのところ、この人に遊ばれると、いつも。

「裸見られるの、嫌い?」
「す、きだなんて言うわけ…ないでしょう…っ」
「だって怜、水泳部でしょ。これくらい恥ずかしがらなくてもいいと思う」
「それとこれとは、話が…違います」
「びっくりだよね。怜、泳げなかったのに水泳部なんて。私がいくら教えてあげても、ちっとも上手くならなくて」

言いながらはだけたシャツの間に指を滑り込ませて、また手のひらで好き勝手に蹂躙していく。そのてのひらの動きにいちいち体が跳ねる。もちろん、どうせ、分かってやってるんだろうけど。ファスナーを下ろすことも出来ず、窮屈なままに自己主張し続ける股間の膨らみが息苦しさをもたらした。先程までさんざん服の上からそこを弄っていたというのに、さんはわざともうそっちは触らない。中途半端な快感は苦しいだけでしかなかった。僕の上にそっと体を沈めて、首筋にれろりと舌を這わすと、「汗の味がする」って、当たり前の感想を口にする。

「怜の体、綺麗。いつもいつも見惚れちゃう」
「…っ見なくて、いいです…!」

筋肉の付いた男の裸なんて、見ていて何が楽しいのか。うちの部のマネージャーじゃあるまいし。僕の拗ねたような冷たい返事が気に入らなかったのか、さんが明らかに悪意をこめて胸の突起に爪を立てた。魚のように跳ねる自分の体と、油断していたせいで零れたあられもない声に、しにたくなる。今なら羞恥心で自分を殺せる気がした。本当に。

「怜、かわいい。もっと顔見せて」

囁かれた言葉に、ぞくぞくと背筋を何かが駆け上がった。おかしくなる。ただ、彼女に求められているというだけで、自分の体が反応する。単純で、浅ましくて、どうしようもない、救いようもない。はあ、と吐いた息は、やっぱり自分でも分かるほど、あつい。怜、とまた名前を呼ばれて、顔を隠していた腕を大人しくどかした。ただそれだけで、嬉しそうに彼女がはにかむ。(怜、怜。いい子ね、怜。)綺麗だ。彼女の微笑は、いつも、いつも。

「ねえ、怜。ズボン、きつくない?」
「そ…れは…」
「直接触ってあげる?」
「なっ!何、言って…っ!」
「恥ずかしがらなくてもいいのに。だって、この前遊んだときも…」
「言わなくても、いい、ですからっ!」

人の話を聞かずにスラックスのファスナーを下ろそうとする指にハッとして、それまでされるがままだった僕もさすがに体を起こす。起き上がったことで改めて、不自然に盛り上がっている局部を自分の目でも見た。男のそこを何の羞恥心も抱かず眺めたり撫でたり出来るさんもきっとおかしい。自分がしようとしていた行為を僕に邪魔されて、少しむっとしたような表情の彼女と目が合い、咄嗟にビクリと身を引いてしまった。だけどこれだけは譲ってはいけない。僕は彼女と少しでも距離を取ろうと、背中を向けて壁を見た。

「だって、そのままじゃお家帰れないよね」
「…っく……そ、ん…なこと」
「手伝ってあげるよ、出すの」
「い、いいっ!自分…で…出来ます、っ」

きゅっと両目を瞑って首を左右に振ると、なんだか自分が駄々をこねている子供のようだった。幼いころの記憶が頭の隅に浮かんでくる。なんでもかんでも「やってあげる」「手伝ってあげる」と面倒見の良いことを言うあの人に、僕が見栄を張って「自分でできる」「一人でできる」と言い張った。そうするとあの人は、ちょっとだけ物足りなさそうに口を尖らせて、だけど僕が自分の意見を主張し続けると、最後にはいつも、「じゃあやってみてごらん」って笑う。できなかったら、「じゃあ一緒にやろう」って優しく僕を撫でる。あの頃は、そうだった。

「じゃあ、怜。一人でやってみせて?」

あの頃と同じように、ことさら優しい声が背後から聞こえた。びくりと自分の肩が揺れる。言葉こそあの時と一緒でも、この状況じゃ全く意味合いが違う。自分にのしかかってくる重圧の種類が、違う。ひとりで。やって。みせる。その意味を理解することを拒んで、振り返ることすら拒否していたら、背中にぴったりとさんが体を押し付けてきた。途端に神経が一点に集中する。耳障りな荒い息が自分のものだなんて気づきたくなかった。後ろから抱きつくような図を装って、彼女の指が徐々に降下していく。服の上からまた触れようとしたその指を、きゅっと掴む。けれどその力は弱々しく、指先は小さく震えていた。

「…触らないで、くださ…」
「じゃあ、自分でできる?」
「でも…」
「できないの?怜」

じっと刺すような視線を感じる。振り返らずとも、わかった。掴んでいた指が、そっと僕の指と絡む。撫で付けるように指の間を擦られて、たったそれだけなのに、一度火の付いた自分の体は敏感に反応を示した。いよいよ窮屈で窮屈でたまらなくなったそこを、僕は恐る恐る見下ろす。くるしい。触りたい。触って、出したい。けれど今自分がいる場所はさんのベッドで、ここはいつも彼女が寝ている場所。その場所で、自分が、勃ち上がったそれを扱いて、精を吐き出す、なんて。(そんな想像、しちゃ、だめなのに)

「…は、ぁ…っ」

取り出した自分の性器からはすでに先走りが滲んでいた。余裕のない手つきでそれを掴むと、背後にくっついていたさんが耳元で僕の名前を呼ぶ。そうだ、見られているんだ。すぐ背中に当たる柔らかい感触が、確かに存在を教えてくれていた。さんの見ている前で、僕は、こんな汚い行為を。不思議とこみ上げてきたのは嫌悪感じゃない。手の動きがより激しくなる。それはただ、ただ、背徳的なこの状況に自分が興奮していることを示していた。

「怜、もっと声が聞きたい。聞かせて?」
「…っ、う…やっ、ぁ…」
「ねえ。誰のこと考えて、やってるの?」
「…それ、は…ぁッ」
「私以外の子?やだよ、そんなの。ねえ、怜。私のことだけ考えながら、先っぽ弄ってみせてよ。あ、でも声も聞きたいから、そうだなぁ…じゃあ、『僕はちゃんとえっちなことする想像で自慰するのが好きです』って、言いながらやって。私の名前呼びながらイッて。ね、楽しそうな遊びでしょう?」

耳を疑いたくなるような下品な言葉が、彼女の艶っぽい唇から吐き出される。手の中のものがびくびくと震えて、達するのが近いことを訴えてきた。あと少しの刺激でイける、そう焦燥感に駆られた僕の耳元で、直接脳に訴えかけてくるような甘い声が響く。「怜、はやく。ちゃんと言わなきゃ許さないんだから」――ゆるさない。その一言が、僕を締め付ける。絶対に言いたくなんかない、屈辱以外のなにものでもないそのセリフを言うために、僕の口が開いた。(だって、言わなきゃ許されない)(だから、言わなきゃ)(仕方なく、いうんだ)

「僕、は…っさん、と…え、……えっちな、ことを、する…想像、で、自慰…するの、が…っ」

言いながら、息が上がる。言葉通り、汚い想像が頭のなかいっぱいに広がった。本人は僕の背中にくっついているせいで、顔は見えない。だけど、想像の中の彼女が、僕を見下ろして笑う。あわれむように。だけど、どこか慈しむように。ああどうしていつも その瞳に 見つめられたら、ぼくは、

「好き…ッ、すき、です、ぁ…ア!、さ…あ、っああぁ!」

びくんと背筋が仰け反って、手の中を粘ついた白濁が汚す。辺りに精のにおいがむわりと広がっていく気がして、自分の愚かさに泣きたくなった。もう泣いてるかもしれない。必死に息を整えようとするけれど、上手い呼吸の仕方を忘れてしまった。犬のような荒い息と、上下する肩。汗で張り付いた髪。そのまま力が抜けて、ぐらりと後ろに上半身が倒れそうになるけれど、その体はすぐ背後にあった彼女に、抱きとめられるような形でもたれ掛かった。

「よく言えたね。えらいえらい。怜はいいこね」

ぐったりと体を預け、荒い息のままぼんやりと目がうつろになる僕を、さんが撫でる。子供を撫でるようにではなく、犬や猫を褒めるみたいに、わしゃわしゃ撫でる。いいこじゃない。いいこなんかじゃないのに。目尻に浮かんだ塩水は、涙じゃないって必死に言い聞かせた。この虚しさはなんだろう。(僕は、ただ、)


好き、好きです、さん。あなたが、すき。