|
「もしもし…さん?どうかしたんですか?…ええ、はい、部活なら今日はもう終わりです。…いえ、今終わったところで…」 「怜ちゃあーん!帰っ…あ。ごめん、電話中?」 「ちょっといいですか。…渚くん、先に行っててください」 「え、あー、うん、分かった〜」 「すみません…すぐ追いつきますから。…もしもし?…え?…や、あの、何言ってるんですか!渚ちゃんじゃないです!今『渚くん』って言いましたよね!?…ちがっ…だから、いつも言ってるあの渚くんです!水泳部の…!」 「…あ!!もしかして怜ちゃん、彼女さんから電話!?」 「っ!? ちょ、渚くん!先に行ってていいですってば!」 「ね、ね!彼女だよね!」 「ち…ちがいます! も、もしもし、さ」 「ちゃんっていうんだ!」 「だから渚くんっ!?」 「いいな〜!彼女とラブラブで、」 「…っ違うって言ってるじゃないですか!!…彼女、なんかじゃ…!」 なんでそこでそんなにムキになってしまったのか、分からない。だけど、繰り返し繰り返し渚くんに「彼女」という単語を出されるたびに、焦るような、気まずいような、悔しいような、そんな気持ちが膨らんで、気づくと思わず大きな声で否定していた。渚くんのほうを振り向いて怒鳴ったため、耳元から一度遠ざけていた携帯電話に向き直るのが気まずい。渚くんは丸い目をもっと丸くして、「ごめん」と口を動かし、指でバッテンを作ると自分の口元にぴったりくっつけた。「黙るから続きをどうぞ」ということだろう。ぐぐ、と眉を寄せて、再度通話をするのがなんとなく億劫になりながらも、耳元に携帯電話をゆっくりと押し当てる。「何度もすみません」と断りを入れてまた話に戻ろうとすると、電話の向こうから静かな彼女の声が聞こえた。 『…そんなに力いっぱい否定しなくてもいいのに』 ぎくり、だか、ぐさり、だか。さんのその声を聞いて胸が痛みだす。なんで。べつに間違ったことなんか言ってない。言ってないのに。表情は見えないのに、声が少し悲しそうにも聞こえて、でも拗ねたような声にも聞こえて。僕は息を呑む。沈黙する携帯電話に向かって、やっとの思いで返事が出来たとき、自分の口から吐き出された言葉は、「だって、恋人なんかじゃ、ないじゃないですか」って、それだけ。言いながら、やっぱり胸のどっかがきりきりと痛む。彼女が、そうだねって答えたら?ちがう、僕はなんて答えを期待しているんだろう?彼女の返事は、たった一言。「まっすぐ私の家に来て。今すぐ」 「傷付いちゃったなぁ。さっきの」 彼女の部屋に入った瞬間、そう言われる。幾度と無く訪れている場所だけど、入った瞬間、空気が変だと気づいたのは初めてだった。いつもは前振りというものがそれとなくあった。切り替えるスイッチみたいなものが。だけど、今目の前にいる彼女は間違いなく、最初からスイッチを入れている状態。もういますぐにでも、僕をどうにかしたくってたまらない風だった。わざとらしく肩を竦めて「傷ついた」ように見せているけれど、明らかに、声には愉しげな色が混ざっている。正直この部屋を訪れたことを後悔した。今日は土曜日で、学校自体は無い。僕は部活があったから学校に行っていただけ。彼女は私服姿でベッドに腰掛けて立ち尽くす僕を見ている。後ろ手にぱたんとドアを閉めると、いいこだねとでも言いたげに微笑まれた。逃げ場を自分から塞ぐ僕を、いつも彼女はとても嬉しそうに眺める。 「…さっきのって、なんのことですか」 「とぼけなくてもいいじゃない。今日の怜は意地悪だよ」 「……」 「こっち来て。怜」 無言のまま、鞄を床に下ろして彼女の隣にそっと腰掛ける。けど、その瞬間ぐっと距離を詰めてきたさんに息を呑む。僕の太腿に手を置いて、至近距離で顔を覗きこんできた。本当に、近い。まあるい瞳が、僕の目を捉えてすぅっと細められた。かあ、と自分の顔が赤くなる音を聞いて、思わず顔を背ける。なんでこの人は、恥じらいというものがないんだろう。ずるい。なんで自分だけこんなに余裕がないんだ。どきどきしてるのはこっちだけじゃないか。一人で悔しがっていると、首元に柔らかい感触が押し当てられる。小さなリップ音に、ぴくっと肩が跳ねた。逸らしていた顔を思わずそちらに戻す。キスされた所を押さえながら、さんの顔を睨んだ。ちっとも悪びれる様子もなく、くすくす笑ってる彼女。 「怜はさ、なんでここに来たの?」 「…なんでって…」 「確かに呼んだのは私だけど、どうして大人しく従っちゃったの?」 「どういう意味、ですか」 「無視しようとか、用事があるから行けませんって嘘吐こうとか、思わなかったの?」 「…それは…、そんなことしたら、あなたが…」 「怒るから?…怒らせるくらいなら、大人しくここに来ようって思ったんだ?」 「何が…言いたいんですか、さっきから…」 「ここに来るとき、どんなこと考えてたの?いつもみたいなことされるって、分かってたんでしょう?こうやって、いつもみたいに遊ばれちゃうんだって、思ったんでしょう?この部屋の扉を開けたとき、どんなこと想像した?扉を閉めて二人っきりになったとき、どんなことされるって思った?ねえ、ほんとはいつもすっごく期待してるんでしょう?」 声だけはどこまでも愉しげに、だけど顔に貼り付けてある笑みはぞっとするくらいどこか冷たい。捲し立てるようなその言葉に、息をするタイミングが分からなくなる。――否定、しなくちゃ。頭ではそう思うのに、具体的な言葉が見つからない。なにいってるんですか期待なんかしてないですまるで僕があなたにいいようにされて喜んでいるみたいに、そんなこと――…。あるわけがない。僕はちゃんと嫌がってる。やめてくださいって必死に首を振ってるじゃないか、いつも、いつも。ちゃんと。(ちゃんとって、なんだ)考えれば考えるほど、自分の気持ちがどこにあるのか、分からなくなる。僕はどれほどの間、沈黙していたんだろう。少し呆れたように彼女が溜息を吐いて、「しょうがないな」と肩を竦めた。それから、いつのまにか手に持っていた携帯電話を僕の目の前で操作し始めた。あんまりにも自然と、その手に馴染んでいて、最初は気づかなかった。それが僕の携帯電話だと気づいたのは、読み上げられた名前にハッとしたときだ。 「渚ちゃん」 「なっ!」 「真琴ちゃん…遙ちゃん。ふふ、可愛い名前」 「ちが、だからそれは!」 「分かってるよ、水泳部の子でしょ?男の子だよね?」 僕の必死過ぎる反応がおもしろいのか、肩を揺らしてくすくす笑う。確かにちょっと、焦り過ぎたかもしれないけど、でも、明らかに悪意のある言い方だったじゃないか。渚ちゃん、なんて。あっさり納得されて、なんだか先程の自分の行動が恥ずかしくなってくる。顔が熱いままにプイッとそっぽを向いていると、笑いながら彼女が僕の肩にもたれ掛かってくる。ぴっとりと体を寄せて、楽しそうに笑ってる。 「疑ってなんかないのに。あははっ、おっかしいの、怜ってば」 「明らかに悪意あったじゃないですか!電話の時だって…女の子と一緒にいるのかって訊いてきて…」 「べつに、女の子と一緒にいるのが私にバレたところで何も問題ないじゃない。私、彼女なんかじゃないんでしょう?怜がそう言ったんだよ」 たった今まで笑っていた彼女が、ふっと冷めた声音で口にした。「彼女なんかじゃない。」「怜がそう言ったんだ」そうだ、別の女性と一緒にいたって、この人には関係ない。僕が後ろめたさを感じる必要はないし、それ以前に、さんは、気にも留めない。だって、僕らは恋人同士なんかではないんだし。どこか投げやりに告げるさんを、じ、と見つめる。眉を下げて、小さく笑う彼女。ひどい、顔だと、思った。そんなふうに思ったことなんか今までなかったけれど、はっきりそう感じた。悲しそうに見えるわけじゃないのに、どうしてか泣きそうに歪んでいるように見えて、さんのその表情と、言葉を聞くと、なぜか胸がじくりと痛む。どうして苦しいのだろう、なんにも、おかしいことは言ってない。そのとおりなのに。自分がどれだけ情けない顔をしているのかは、自分では分からない。だけどきっと、自分もひどい顔をしているんだろう。 「事実、そうじゃないですか…僕らの関係。だって恋人同士は、こんなこと…しませんよ」 ぽつりと呟いた直後、またさんが僕の顔を覗きこもうとする。自分の言葉で否定するのは、なぜだかひどく、労力がいる。けれど、彼女の言葉で聞くのは、もっと苦しかった。だからそれっきり話題を止めようと思ったら、彼女は先程とはまた違う、…いや、「いつもどおり」のあの愉しげな笑顔を浮かべて、「こんなことって、どんなこと?」と小首を傾げた。獲物を狙うようにすっと細められた目に自分の狼狽えた顔が映ったとき、咄嗟に距離を取ろうと身を引くけれど、ああ自分は最初からベッドにいたんだって気づく。 「部屋に呼んだり?キスしたり?えっちなことしたりすること?」 「…、その…」 「ふふ…ばかだね、怜ってば。それ全部、恋人同士がやることじゃない?」 「ち、違いますよ!僕が言いたいのは…だからその…恋人同士なら、同意の上ですること、ですし…」 「私たちだって同意の上でしょ」 「なっ…僕がいつ同意したって言うんですか!」 「いつって、いつもだよ」 「そんなわけないです!僕はいつも嫌がってるのに、そっちが一方的に…っ」 「うそ、そうだっけ?一方的?」 「一方的に…ぬ、脱がせたり…触ったり…」 言っているうちに今までのことを鮮明に思い出してしまって、顔がカッと熱くなる。一方的だとか同意だとか、そういう問題以前に、そもそも、僕らは付き合ってないじゃないか。好きだと伝えて、気持ちが通じあった者同士なんかじゃ、ない。どれだけ「恋人同士」がすることと同じことをしたとしても、根本的に、違う。――そもそも、だ。そもそも。さんが僕のことをどう思ってるかなんて、考えたところでむなしい。せいぜい、お気に入りの遊び道具くらいで。(それを望んだのは、誰だ)(もっともっと僕にわがままを言ってほしいと願ったのは)(きっかけは確かにあの「事故」だった)(でも、今は?) 「嫌?私にああいうことされるの」 「…当たり前です」 「そう」 「……」 「じゃあ、『彼女』はどういうことするものなのか、教えてよ。『怜ちゃん』」 いつも渚くんにしか呼ばれない「怜ちゃん」という呼び名が、しらじらしく聞こえる。なにを、と僕が口に出すより先に、さんが機嫌よさそうににこにこ笑って、ベッドから立ち上がった。びくっと反射的に身を引くけれど、僕に何かするわけでもなく、そのままの笑顔で部屋のクローゼットに向かっていった。拍子抜けだと言わんばかりに僕はぽかんと口を開けて、彼女の後ろ姿を見送る。いつもその扉は閉まっているので中を見たことはあまりなかったけれど、ハンガーに掛かってずらりと並んだ服を彼女の背中の向こう側に眺めた。さんはその中でも奥の方にしまってあったワンピースを取り出すと、子どもが見せびらかすように、両手で肩の部分を掴んでひらりと広げてみせる。感想を求められているのかと思って、かわいい服ですねと言おうとして、それより先に聞こえた彼女の言葉に絶句した。 「怜ちゃん、これ着て?」 言葉が出てこない。自分の聞き間違いだろう、と脳が彼女の言葉を理解するのを拒否している。怒るとか、呆れるとか、そういう余裕なんかない。冗談でしょうと言いたいのに、冗談なわけがないと今までの経験上嫌というほど察してしまった。この人は本気だ。本気で言ってる。本気で僕を辱めようとしている。唇は震えるばかりで、嫌だという一言も紡げない。 「この服、可愛いなあって一目惚れしてすぐ買ったんだけど、私にはちょっとサイズが大きくて」 「…、…は」 「でも怜ちゃんが着るなら問題ないかなって」 問題だらけなはずなのに、彼女は本当になんの問題もなさそうに、うっとりとワンピースを抱きしめた。呆然と黙りこむ僕。次の瞬間にはまるで同性にするように、さあ早く脱いでとベッドにぴょんと飛び乗り僕の服を剥がしにかかる。はっと我に返ったときやっとの思いで「嫌ですよ!」と声を発した。伸びてくる彼女の腕をぐいぐい押しやって、なんとか拒否すると、明らかに不機嫌なむすっとした顔でさんが僕を見上げる。どうして嫌なの、とでも訊いてきそうな顔だ。そう思っていたら、そのとおりの言葉が彼女の唇から吐き出された。どうしてって、そんなの、どうしたって嫌に決まってる。 「今日は着せ替え遊びしたい気分なの。私、ちっちゃい頃着せ替え遊び大好きだったんだあ」 「意味わかんないですってば!どうして僕が女の子の服着なくちゃいけないんですか!」 「似合うと思うけどなあ」 「似合いません!」 「ね、お願い。着るだけでいいよ。今日はどこも触ったりしない。いじわる、しないから」 おねがい、ってぞっとするくらい甘えた声を出して、僕を上目遣いに見上げる。意味が、分からない。こんな交渉、成り立つわけがないんだ。だって人を着せ替え人形にする時点でそれは彼女の言う「イジワル」だし、触りも着せもしないのが一番いいに決まってる。どっちに転んだって僕だけが酷い目に遭う。だからきっと、強く言えば、押し通せるはず。流されっぱなしになるから、いつも、ひどいめにあう。上手く言いくるめればきっと。そう思って口を開こうとすれば、笑ったままの彼女が首を傾げながら、おぞましいことを口にした。 「それとも怜は女の子の格好するより、脱がされて、触られて、私に見られながらみっともなく射精するほうがいいの?」 「っ! だ、から…なんでいつもそういう…」 「よっぽど女の子の格好するほうがマシだと思うんだけどなぁ。男の子の感覚って分かんないな。…あ、怜は変態だから、より恥ずかしいほうを選びたがるのか。見られながらイクほうが好きだよね。女の子の服着るくらいじゃ興奮しないよね、そっか、ごめんね。そういうことなら、今日はず…っと夜まで怜のオナニーに付き合ってあげようかな。何回くらい連続でイケるものなんだろう。出し過ぎると精液の色が薄くなってくるって本当かなあ。確かめてみようか。ね、手で扱いてほしい?足がいい?…口がいいかな?」 ねっとりとした笑みを浮かべる口元から、赤い舌がのぞく。わざと見せつけるように唇を舐めたあと、鋭い瞳が僕を射抜いた。その瞳に、動作に、言葉に、ぞくぞくと背筋が震える。喰われそう、だ。逆らい難い感情に、飲み込まれそうになる。どくどくと狂ったようなリズムで心臓が音を立てて、体中の血液が沸騰してるみたいに、あつい。彼女のぷっくりとした柔らかそうな唇、細くて白い指先でさえ、まともな気持ちで直視することが出来ない。(こんなんじゃだめだ)(だめだ、だめだだめだ)おかしく、なる。 「それで…ね?怜ちゃん。着ないの?」 服を脱いでいる間も、着慣れない服を身に付ける間も、意識は、さんの視線にだけ向けられていた。彼女の、じ、と刺すような視線。逸らされることのない、真っ直ぐなそれ。嘲笑するわけでもなく、ただ、黙って彼女は僕を見つめていた。それが分かるからこそ余計に顔なんか上げられなくて、僕は俯きながら着替えを進めた。なんか、ひどく、みじめだ。泣きそうになるのをなんとか堪えながら、着替え終わってベッドの上で正座する。なんだか、変な感じ。当たり前だ。普通に過ごしていれば着るはずのない服を着用されているんだから。もう満足でしょう、と今すぐに脱ぎたい。すぐ目の前にいるさんの顔をそっと見て、けどどうしても目を合わせていられなくてすぐに視線をベッドのシーツに落とす。僕が目を逸らしたところで、こんな恥ずかしい格好を見られている事実は何も変わらないんだけど。どうして、想いを寄せてる人にこんな格好見られてるんだ。いや、この格好を強いたのがその想い人本人なんだから、もうどうしようもない。従った自分も、救いようがない。(泣きたい) 「さん…あのっ…も、もういい、ですよね…着替えて。ちゃんと、着たし…」 「うーん…なんか、違うなあ…」 「ひ、人に着せておいてなんですかそれ!いや似合うって言われても嫌ですけど!そもそも、普段からちゃんと鍛えてる僕には体のラインからして明らかに」 「んー…ちょっと立ってみて」 僕の話なんてとことん耳に入れる気がない彼女は、真剣な顔で唸って、そう注文をつけてきた。ぐ、と眉を寄せて不機嫌さを全面的に出しても、彼女はちっとも悪びれる様子はない。はあ、とわざと大きく溜息を吐いて、投げやりに「分かりましたよ」と返事をする。そして座っていた状態からゆっくり右膝を立てた瞬間、「あ!」と何かに気づいたような声をあげて、さんがワンピースの裾を持ち上げた。捲り上げられて、女性でもないのにビックリして「やめてください!」って抗議の声が出そうになる。 「な、なんですか!?」 「下着も着替えなきゃ。何か忘れてると思った!」 何を言ってるんだこの人は、と眉間にしわが寄る。わけがわからない。そんなもの、僕が着るわけがないじゃないか。着ろと言われたのはワンピースだし、そもそも…、着る、わけが…ない。けれど、ワンピースを取り出した時のように、立ち上がって衣装ケースに向かう彼女の後ろ姿を見て、なんだか胸騒ぎがしてきた。 「私の貸してあげるよ、怜ちゃん」 嫌な予感が的中した瞬間、さーっと血の気が引きそうになった。 「何、言って」 「何色がいい?柄は?水玉とか可愛いんじゃないかなぁ」 「さ、」 「あ、これなんかどう?ふりふりがいーっぱいついてて、私お気に入りなんだけど、可愛い?」 端っこを両手でつまんで、なんの恥ずかしげもなく薄いピンク色の下着を広げて僕に見せてくる。引いていた血が一気に体中に行き渡って、思わずバッと勢い良く顔を背けた。片手で顔を覆いながら、「しまってください!!」とひっくり返りそうな悲鳴をあげる。しんじられない、なんでいつもそうやって、あなたにははじらいっていうものがないんですか。早口に騒ぎ立てるけれど、さんは手に握ったものを元の場所に戻そうとはしない。それを片手に、ベッドに引き返してくる。何をしようとしているのか嫌でも想像ついてしまって、布団に手をついて後ずさった。じりじりと追い込まれて、気づいた時にはベッドの隅、背中にはぴったりと壁。当たり前だ、ベッドの上に最初から逃げ場なんか、無い。僕の開いた両足の間に体を入り込ませたさんは、そのまま押し倒すように顔を近づけてくる。 「やめてください!」 「どうして?せっかく女の子の格好してるんだから、下着も女の子の付けようよ」 「なにがせっかくなのか分かりませんっ!」 「どうして?」 「だからぁ…!」 「そのほうが興奮するでしょ?」 「ね、怜ちゃん」そう言いながら彼女が浮かべる笑みは完全にサディストのそれだった。息が詰まったように声が出ない。一瞬でも否定の言葉を飲み込めば、そのまま流されてしまうんだって分かっているのに。案の定、まるで子ども扱いするみたいになんの抵抗もなくずるりと下着が剥ぎ取られる。普通の女子なら顔を真っ赤にして目も当てていられないだろうに、さんは僕の下着の下を見て、内緒話するくらいのひそひそ声で「もう興奮してるの?」って尋ねた。途端に、かあっと火がついたように顔が熱くなる。顔だけじゃ、ない。下半身にじんとした疼きが広がって、叫び出したいのを堪えて腕で口元を覆う。あつい。いっそ羞恥心すら掻き消えるくらい、何も考えられなくなってしまえばいいのに。そうしたら、僕は、(どうなっちゃうんだろう) 「ねぇ。はきごこち、どう?女の子の下着って、つるつるしてて、ふりふりしてて、軽いのにきゅって締め付けて…きもちいい?私は女の子だからもう当たり前になっちゃって良さって深く考えたことないけど…くせになっちゃって、女性用の下着愛用する男の人もいるんだって聞いたことあるよ。怜も気に入った?」 「…そんな、こと…っ」 「ああ…でも見て?せっかく女の子の下着なのに、ここの膨らみがおもしろいくらい不自然だね」 「ひ、あッ!?」 ちゃんと女性が穿いていれば本来そこに盛り上がるはずの無い膨らみを、さんが細い指でぐりっとなぞる。油断したせいで洩れた声が自分のものだと気づくのに時間がかかった。「今日は…さ、触んないって、言ったくせに…ッ!」睨んだつもりなのに、わけもわからず滲んできた水の膜で、視界が邪魔される。それを見たさんがごくんと唾を飲む様子が、膜の向こうでうっすら見えた。 「……怜、が…かわいいのが、わるい。ちょっと指でなぞっただけじゃない。大袈裟」 「…ぅ…」 「触るっていうのは、こういうこと でしょ?」 「ぅあぁッ!ひ、や、っやめ!」 下着の繊維が敏感な部分を容赦なく擦ってくる。気づけば無意識に首を振って、やめてくださいと繰り返していた。あっという間に下着の中からは粘ついた音が聞こえてくる。にちゃにちゃ、ぐちゃぐちゃ。それでもさんは手を止めない。今彼女がどんな顔をしているのか、分からないけれど、目を合わせるのが怖くて、目をきゅっと瞑っていやだいやだと首を振り続ける。 「やだ、ぁ…だ、め…、離し…ッ!」 「きもちよくない?何がいやなの?」 「…っ…汚い、から…」 「…なにが?」 「僕の…が……っ、さんの、汚しちゃう…」 下着の上から触る指の動きが、ぴたりと止む。さんが言葉に詰まったように沈黙した。自分の荒い息しか、聞こえなくなる。下半身の、湿って、下着が張り付く感触。よごれてしまう。いやだって言いながら、結局、この行為を最終的に受け入れてしまったのは、自分だ。いつも、自分。最終的には、従う自分。そもそも、さんだって気持ち悪くないのか、汚いって思わないのか。自分の下着、男に穿かれて。気持ち悪い、だろうな。成り行きとはいえ、好きな子の、下着穿く、とか…変態って言葉、否定できなくなる。いつも、僕が彼女を汚す。彼女の、指を、足を、言葉を、心まで、僕が腐らせたんだ、きっと。 「……ねえ、怜。あそこに、鏡あるの。見える?」 ふいに聞こえた声と、示された先にはっとする。開けっ放しのクローゼットの中に、確かに全身が映るくらいの縦長い鏡があった。「ちょうど、映ってる。私と怜」淡々とそう続けるさんの言うとおり、ベッドの上の様子が映っていた。ベッドに寝ながら、鏡を見つめる自分と目が合う。「かわいい」格好した、自分。恐ろしく似合わない、女の子の格好した自分。その自分の上には、さんの体。さんは鏡のほうを見てはいなくて、僕の顔を見下ろしていた。だから鏡には、横顔しか映ってない。だけど、その横顔にはっとした。眉を下げて、泣きそうに歪めた表情。なんで。思わず鏡から視線を外し、自分のすぐ傍の、鏡のなかじゃなくて、本物の、実物の、さんを見上げる。そこには、泣きそうな顔でなく、くすくす笑うさんがいた。なんで。 「女の子襲ってる気分。ふふ」 「…、さん…」 「ねえ。鏡映ってる姿見ても、気づかない?」 汚れているのは、誰がどう見たって私じゃないの。小さくつぶやく彼女は、笑ってるんだか泣いてるんだか、分からなかった。 |