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深夜の、二時、三時頃だろうか。放置してあった携帯電話が振動して睡眠を邪魔される。暗闇の中ランプが点滅していて、たった今メールを受信したことを示していた。眠い。こんな時間にメールを寄越すなんて、非常識だ。急ぎの用じゃない限り夜が明けてから送ってくればいいものを。重い瞼と未覚醒の頭が、携帯電を手に取ることを拒否していた。だが心の何処かでぼんやり、もしかしたらメールの差出人は何か重要な急ぎの用を伝えたいんじゃないか、とも心配になる。迷いつつも、結局もぞもぞと布団から顔を出す。手に取った携帯電話を開くと、四角い画面がパッと明かりを灯す。その明るさだけでも眩しくて目がちかちかした。眼鏡もかけずに、ぐっと眉を寄せ、画面を凝視する。メールの差出人は、さんだ。まあ、なんとなくそんな気はした。この人ならこういうこともするんだろうな、という思いと、この人からのメールなら結局は許してしまうんだろうな、という思いが、自分の中にあったからだ。さん以外の人間からのメールだったらどうしていただとか、そういうのは、考えないことにする。目を擦って、メールの本文を確認。「この前の写真」とだけ書かれている。この前、とは。なんだろう。添付されている画像を開く。開いた瞬間、数秒はじぃっと見つめて、その直後さあっと一瞬で嫌でも頭が覚醒した。叫びだしそうになったのをなんとか堪えて、素早く「なんですかこれ!」と返信をする。送り終わってもどくどくと心臓の音がうるさい。やがて携帯電話が震えだすけれど、これはメールではなく電話の着信音だ。迷わず通話ボタンを押して、耳に当てる。 「さんっ!!」 「しーっ…声大きいよ、怜」 子どもに言い聞かせるような声が電話の向こうから聞こえて、一瞬口ごもり、すぐにハッと我に返る。確かに今は深夜だし、家族に聞こえたら起こしてしまうかもしれない。大声は出さないほうがいい。けど、その原因を作っているさんに注意されるなんて納得いかない。声を抑えつつも、「誰のせいですか!」と電話の向こうに向かって文句を言う。するとすぐに、くすくす笑う声が聞こえてきた。ずるい。 「可愛かったでしょ。この前の怜の写真。よく撮れてると思わない?」 添付されていたのは、この前の土曜日、さんの部屋に訪れたときの、写真だ。いつの間に撮られていたのかは分からない。女性物のワンピースを着た自分。いや、顔は映ってないけれど、身に覚えがあるのだからその写真が自分だということは嫌でも分かった。しかも、わざと下半身を大きく映したアングルのせいで、身につけている下着がしっかりと画面に映っている。その下着が着けている男の体液で汚れているのさえ、分かる。思い返してかあっと顔が熱くなった。意味が分からない。いかがわしい本のグラビアじゃないんだから、あんなの、あんなの。さっきはメールの返事を返すのに気を取られたけれど、後でちゃんと消去しておかないと。 「…って、僕の方のデータ消してもさんの携帯から消さないと残ったままじゃないですか!」 「え?消しちゃうの?」 「当たり前でしょう…」 「どうして?オナニーのおかずにすればいいじゃない」 「っ!? なっ、だ、からなんでそう貴女は…!しませんからっ!」 「ふうん…じゃあ私は使わせてもらおうっと」 「!…お、女の子が、そういうこと…言わないほうがいいと思いますけど…」 「えぇ?…ふふ、おんなのこ、か。あはは、かわいい、怜」 くすくす笑う声が聞こえてくる携帯電話に耳を澄ませて、はあ、と呆れた溜息を一つ零す。楽しそうな笑い声。だけどやっぱり、電話の向こうだって夜なわけで、声は抑えめに聞こえる。彼女も今頃布団に入って携帯電話を耳に押し当てているんだろう。…彼女の部屋のベッドというと、いつもの、ああいういかがわしいことしてる場所って感じがして、変な意識が生まれるけど。だけど、布団の中という狭い場所に入ってすごく近くの耳元に彼女の声を感じるだけで、まるで二人で同じ布団の下に潜って内緒話してるみたいな、そんな気持ちになる。子供の頃みたいな気持ち。なのに話している話題は下品極まりないっていうのがなんとも、やりきれないものだけど。 「怜ってば、女の子って生き物はエッチなこと考えない、とでも思ってるの?」 「…そうは言ってませんよ。貴女みたいに、おかしいことばっかり言ったり考えたりする人もいるようですから」 「ふふ、そうそう。よく分かってる」 「わかりたくはないですけど…」 「きらいになった?」 「…え?」 「エッチなことばっかり言う、品のない女の子だから。きらいになった?」 直前まで確かに笑っていたと思うのに、その言葉を彼女がどんな声音で告げたのか、次の瞬間には見失ってしまった。深夜の静寂だけが流れる。電話の向こうからは何も聞こえない。ふと、この間さんの部屋の鏡に映った、彼女の泣きそうな顔を思い出す。「嫌いになんか、ならないです」気づくとそう答えていた自分の声で我に返った。電話の向こうで、同じようにはっと言葉に詰まった気配。彼女を安心させようと告げた言葉だったと思うのに、僕の頭にははっきりと、より悲しそうな顔をするさんが浮かぶ。どうして。どうして、って、いつもそればっかり。僕はあの人を何も理解できやしない。 「……ふうん」 「…さん?」 「ああ…私も、怜が自分の女装写真で抜くようなエッチな男の子でも嫌いにならないから安心して」 「なっ」 「怜は私と『遊んだ』日の夜とか、二人でしたこと思い出して体が熱くなったり、しないの?」 からかう気配は無いけれど、悪気がなさそうなところが一番たちが悪い。どうも、誤魔化されている気がする。こっちはさんの様子を心配してるっていうのに。すぐ、こういう話に持って行こうとする。聞き流してしまえばいいのに、勝手に耳まで熱くなって、ふるふると首を小さく振った自分に気づいたときには、情けなさでいっぱいになった。結局すぐ「そっち」に持っていってるのは、自分も一緒じゃないか。布団をかぶって、きゅっと丸くなる。そんな様子がまるで見えてるみたいに、さんが耳元でちいさく笑った。 「私は、あるよ。いつもそうだよ。ね、怜は?」 優しい声に、びくりと自分の体が跳ねた。途端に脳内を侵す想像をかき消すように、首を振る。なのに、消えてくれない。消そうと思えば思うほど、脳内の彼女が、真っ暗な部屋の中、昼間僕と過ごしたベッドの中で体を捩らせる。いやらしく乱れた彼女が呼ぶ名前は、怜、って、自分の名前で。そこまで想像が及んだところで、実際に耳元で「怜」って呼ぶ声がした。ぴくっと携帯を押し当てる指が震える。なんですか、って尋ねようとしたとき、自分の息の熱っぽさに目眩がした。また、なんで、いつもこうなってしまうんだろう。 「どきどきしてきた?」 「…っ」 「私も、どきどきしてるよ。怜に触りたくて、さわりたくて、あつい」 はあ、とさんが息を吐いたとき、電話越しのはずなのに、直接耳の奥に吹き込まれたみたいに、ぞくぞくと背筋が震えた。いつも、怖い。自分の体が自分のものじゃなくなっていくようで、こわい。こんなんじゃだめだ、抑えろ、落ち着け、落ち着け。何度も自分の頭の中で唱えて、どうにか理性を保とうとする。―ほんとうは、本当のことを言うなら、自分だって、そうだった。いつからか、あの人を想って自慰をする回数が増えて、それでいつも、言い様のない罪悪感と喪失感で、泣きたくなる夜を、何度も何度も経験していた。彼女も僕と過ごした日はいつもそうだと言っていたけれど、自分と同じ罪悪感を抱いてるようには感じられない。僕はそういうときいつだって、くるしくて、死んでしまいたいくらい惨めな気持ちになっているのに。(ああそうか、僕は、彼女が僕を想って泣くところが想像できないから、そう思って) 「…、さん」 「なあに?」 「眠れないん…ですか?」 「……」 「こんな時間に、メールしてきたり、電話してきたり…僕はさっきまで寝てたんですよ」 べつに、迷惑だと言っているわけではないけれど。でも、わざと、彼女にとって都合の悪い事実を突きつけるように、僕は言う。そうすると電話の向こうの彼女が、痛いところを突かれたように押し黙った。その沈黙すらやっぱり、らしくないなと冷静に捉えることが出来た。「何かあったんですか」と尋ねた自分の声は、先ほどまでとは違ってずいぶんしっかりした声に聞こえて安心する。やがて長い沈黙の後、さんは小さく呟いた。 「夢を見たの」 「…夢、ですか?」 「うん」 「……怖い夢なんですか?」 「ふふっ、なんだか子ども扱いされてるみたい」 「えっ!あ、すっ…すみません…」 「ううん。合ってるよ。こわいゆめだったの」 こわいゆめ。そう口にした彼女の声は、本当にいつもより、こどもみたいな、甘えるみたいな、そんな声に聞こえた。なんだか急に、自分がどうにかしなくては、という使命感に駆られる。けれど、次に聞こえた「怜の夢だった」っていうつぶやきに、自分が言おうとした言葉たちは喉の奥につっかえたまま出てこなくなった。僕の夢。それでいて、怖い夢。僕の出てくる、怖い夢。――それは、事故のときの夢ではなくて? そう尋ねる勇気が無くて、自分の唇はただ震えるだけだ。 「だから怜の声が聞きたくなったの。…聴けたから、いいの。もう眠れる」 「…」 「起こしてごめんね」 「…いえ…べつに、平気です…」 「じゃあ、おやすみ。怜」 「あ、あのっ、また眠れなくなったら…また同じ夢を見たら、起こして…ください」 どんな夢なのかは分からない。けれど、僕の声を聞いて安心するのなら、何時だって僕は、起こしてくれて構わないと思った。それしか僕に出来ることは、ないと思ったから。夢の内容を詳しく尋ねる勇気もない僕には、それしかできなくて。だけどそれは僕にしか出来ないことで。だけど、だけど怖い夢を見せているのは、僕かもしれなくて。考えだすと、これは自分のわがままで、迷惑なんじゃないかと思えてくる。けれどさんは数秒の沈黙のあと、「こんなテレフォンセックスみたいな電話なのに?起こしていいの?」なんて、またはぐらかすようにくすくす笑う。僕は真剣に言っているのに、と少しムッとしたけれど、次に聞こえた二回目の「おやすみ」が、泣きそうな声に聞こえて、息を呑んだ。 ぷつんと切れる電話。すっかり眠気なんか吹っ飛んだ深夜の僕の部屋。言いそびれた「おやすみなさい」をそっと呟いたとき、なんだか僕も泣きたくなった。 |