さんっ…さんってば!」

ぼんやりとどこかを彷徨っていた意識が、怜の声でハッと自分の元へ戻ってくる。やけに焦ったような声で、切羽詰まった顔をしている怜が私の視界いっぱいに広がった。なに、どうしたの、なんでそんな焦った顔をしてるの。ぼうっとその表情を眺めてゆるゆると首を傾げたら、怒ってるような、困ってるような、そんな怜に手首を掴まれた。そこではっとする。二度目。私の右手に握られていた果物ナイフに、息を呑んだ。何をしていたんだっけ。なんで自分はこれを持っているんだっけ。わけも分からずひやりとしたものが背筋を伝う。数度まばたきを繰り返して、ふと、膝の上に林檎が一つ転がっているのに気づいた。ああ、とようやく合点がいく。そうだ、怜がうちに遊びに来て(私が無理やり呼んだんだけど)、親戚に林檎たくさんもらったから剥いてあげるって言って、それから、それから、どうしたんだっけ。剥いてたはず、なんだけど。

「指、見せてください、血が…」

ナイフを取り上げられて、怜に言われて、気づく。左手の指が痛い。見れば、すっと伸びた短い一本の筋から、みるみる赤い血が溢れだしてきていた。「なんで包丁使ってるときにぼーっとしだすんですか!」って怜が怒る。いや、叱る。そっか、ぼうっとしてたのか。未だその事実さえ他人事に感じる。「ほんとだ。血、出てるね」ぽつりと呟いたら、そのどうでもよさそうな声に、怜が目を丸くした。それからすぐに眉を下げて、泣きそうなくらい悲しい顔をする。ずくん、と体の奥がうずく。怜はなんでそんな顔をするんだろう。ねえ、って声を掛けようとした瞬間、私の指を引き寄せた怜が、そのまま自分の口元に導く。あ、と思ったときには、指先は怜の口の中にのみこまれていた。

「…ん、」
「っ…」

熱い舌が傷口をなぞる。怜の口の中、熱い。舌を撫で付けるように傷を何往復もして、自分の血が、怜の喉を通っていく、その事実に目眩がしそうだ。口から離す時も、パッと離れるわけでなく、指の第二関節あたりから爪の先までゆるゆると名残惜しそうに舌が撫でていく。舐められた部分が、火傷したように熱い。気づけば心臓が狂ったようなリズムで鼓動を刻み続けていた。おかしい。なんで、こんなこと怜がするんだ。こちらの心臓を脅かすためだけのような舐め方。いつもの怜だったら、しないのに。

「舐めてなんて、頼んでないよ」
「! え…あ…す、すみません!」

私の言葉に、一瞬で怜がかあっと赤くなる。自分でも、何をやっているんだと責めるみたいに。顔を片手で覆って、私から飛び退いた。「体が、勝手にというか、そうしなきゃいけないような気がして…っすみません、ほんとに…」言いながら、ぱたぱたと空いた手を振って否定の意思を表してる。「無意識?」尋ねる私の声は、ちょっとだけ愉しげ。指先の熱が消えないのに。激しすぎる心臓の音は少しずつ、収まっていく。いつからか、誤魔化すのがくせになってる。耳まで真っ赤になった怜は、私と目を合わせないように必死だ。

「頼まれなくても、私が悦ぶこと探してくれるの?奴隷根性?」
「ちっ、ちが…」
「嬉しい。ありがと」

そう言ってにっこり笑い、自分の指を、怜が舐めたそれを、口の中に含む。間接キス?それじゃあなんだか、可愛らしい響きになってしまうから、物足りない。くちゅっとわざと音を立てて指を舐めると、おいしいとはいえない指のしょっぱさの中に怜の味が混ざっている気がして、ぞくぞくする。そんな私の行動を、いつのまにかじっと見つめ息を呑んでいる怜に気がついて、さらに興奮してきた。だけど怜はすぐに我に返って、バッと顔を背けてしまう。

「…えっと、絆創膏、持ってます…ちょっと待って下さいね」
「いいよ。傷浅いし怜が舐めてくれたから治った」
「な、な、治ってません!それよりっ」

おそらく絆創膏が入っているであろう自分の鞄をがさごそ漁りながら、怜はこちらも見ずにべらべら喋る。「最近さん、ぼーっとしてることが多いですよ!注意力散漫は今みたいに怪我の元です!」お母さんみたいな、口うるさい先生みたいな、そんな言い方だ。私が返事もせずにくすくす笑っていると、怜が口を尖らせて振り向く。「笑い事じゃないですから」って、文句を言う声も心底不満そうだ。

「ふふ、ごめんごめん」
「まったくもう…さんは…、その」
「うん?」
「…いや、なんていうか…昨日の夜も、あんまり眠れなかったんですか?」

言いにくそうに、視線を床に落として、小さな声で怜が尋ねる。さっきまでの不機嫌そうな様子とは一変した、不安げな表情。ああ、そっか、そういえば。話したんだっけ。この前の夜に。怖い夢を見るんだって。それは怜の夢なんだよって。私もわざと視線を落とし、怜の目を見ないで「ちょっとね」ってはぐらかす。怜がバッと顔を上げてこちらをじっと見つめている。分かっていても、目は合わせない。眉を下げて、唇を噛んで、ああなんでそんな顔するかな。何かを堪えるような、でも今にも溢れ出しそうな、そんな表情。私は怜のその顔に弱い。その顔が好きで好きで、苦しいくらいだ。何か言おうと怜が薄く口を開き、咄嗟に内心私は身構える。だけど彼はすぐにまたきゅっと唇を結んで、必死にその言葉を吐き出すまいとするように、俯いて、飲み込む。しばらくお互いに無言のまま。それでも怜は私の指にきちんと絆創膏を巻いて、私はその怜の指をぼんやり見つめる。次に怜が顔を上げて口を開いた時、きっとさっき言おうとしていたものとは全くの無関係であろう「じゃあ寝てください」っていう言葉が飛び出してきた。私は目をぱちくりさせて、首を傾げる。

「寝る?…今から?」
「今からです、もちろん」
「だってせっかく怜が来てくれたのに」
「…僕を家に呼んだりしないで、空いた時間は睡眠にあてるべきです」
「やだ、絶対寝ない。怜がいるのに。もったいない」
「何がもったいないんですか?」
「遊ぶ時間が削られちゃう」
「子どもじゃないんですから…」
「そんなこと言って、怜、さっさと帰りたいだけでしょう?私といたくないだけでしょう?」

驚いて目を丸くする怜の表情でやっと、自分の発言の可笑しさに気づいた。何、みっともないことを口走っているんだろう。ここでいつもみたいに、「本当は怜だって私といいことしたいくせに」くらい、言えばよかった。いつもみたいに、馬鹿なこと、言えばよかった。だけど、自分で気づいてしまう。「行かないで。一緒にいて」が何よりの本心だと。分かってしまったことが悔しくって、きゅっと唇を噛む。いつもだったら、前までの私だったら、ちゃんと、ごまかせるのに。それが出来ない自分が悔しくて。自分を誤魔化せない自分が悔しくて。

(あんな夢を、見るから)

「…やっぱり、今日のさん、少しいつもと違いますよ」
「……」
「何かあったんですか?」
「何も無いよ。怜」
「でも…」
「じゃあ怜、キスして」
「…はあ!?な、なんでそんな話になるんですか!?」
「キスしてくれたら、大人しく今日は帰してあげる。ちゃんと寝てあげる」

ね?とにっこり笑って首をかしげると、怜は顔を真っ赤にさせたまま、ぱくぱく口を動かして何か抗議の声をあげようとする。けど結局上手い言葉が見当たらなかったのか、はあ〜っと深く溜息を吐いて肩を落とした。「してくれるの?」人差し指で自分の唇をつっつき、わざとかわいこぶって怜の顔を覗きこんだら、怜が大袈裟に身を引いて仰け反る。顔はやっぱり、真っ赤。可愛いな、って、そう思う。ちょっとしたことで顔赤くして、いつもいつも初々しい反応。腐りきった汚い私を、潤してくれるみたいに、純粋。ああ、でも怜だけ綺麗なままなんて、ずるいなあ。

「…えーっと…あ、さん!この林檎キッチンに片付、」
「話逸らしたー」
「う…き、きすは、後でもいいでしょう!まず布団を被ってください!」
「布団被るのが後」
「キスが後!」
「ずるーい」

文句を言いながらもくすくす笑って、怜の言う通り布団に移動する。それを見届けると、怜は手に持っていた林檎に視線を落とした。中途半端に皮が剥かれたままなのが気になるのか、先ほどの果物ナイフで丁寧にその続きを剥き始める。たぶん怜のことだから、剥き終わったら私に差し出してくるんだろう。こういうの、女の子の役目なのにな。まあ、怪我して取り上げられたんだから仕方ないか。ベッドに横になって布団を首元まで被り、怜の包丁さばきを眺めていると、なんだか本当、風邪引いたときに親に林檎を剥いてもらってる気分だ。

「怜、皮剥き上手ね」
「…さんだって上手いでしょう」
「私さっき指を切ったじゃない」
「いつもなら切らないじゃないですか。そもそも、僕に教えてくれたのは貴女ですし」

そういえばそんなこともあったっけ。両親が共働きで忙しいから、ずいぶん小さい頃から簡単な料理はできるようになっていた。そんな私のもとに遊びに来て、手伝わせてほしいと申し出てきた怜に、包丁の持ち方を教えたことがある。危なっかしい手つきに、すっごくハラハラしたんだ、たしか。ぼんやり思い出していたら、林檎を切り終わったらしい怜がお皿を差し出して、どうぞ、と声を掛けてきた。なんだかあんまり食欲はなかったけれど、突き返すのも嫌だった。だけど、布団の中から手を出して林檎へ伸ばすのも、起き上がるのもなんとなく、面倒。

「食べさせて」
「…駄目です。一回起き上がってください。お行儀悪いです」

そんなふうに言いながらも、添えてあったフォークで林檎を刺すと、口を開けた私にしぶしぶ食べさせてくれる。やっぱり寝ながらじゃ少し食べづらいけど、でも、怜がせっかく剥いてくれたものだし、味は美味しい。

「あとは怜にあげる」
「え…もう要らないんですか?」
「うん」
「そうですか…」

食欲ないのかな、って心配してる表情。すぐ、顔に出すんだから。だけどそれ以上何も言わず、残りの林檎をしゃくっと齧る怜を見つめる。口元、喉元、それから、目元へ視線を移す。私と目が合うと、きょとんとしたあと、妙に居心地悪そうに視線を泳がせる。じっと見つめられること、怜は少し苦手らしい。それが、またかわいいんだけど。

「なんだか、ふつうだね」
「な、なにがですか?」
「やってることが、普通。いつもの私達じゃないみたい」

せっかく、怜がこの部屋にいるのにね。二人っきりでこの部屋にいるとき、いつもいつも、私が怜で遊んでるから。なんにもしないで、普通に過ごすことが、不思議。今まで、いろんなことをした。いつからこんなことになったのかは分からないけど。…ああ、初めて私が、怜にキスした日からかな。おかしくなったのは、そこからかな。思えば、怜からキスしてくれたことなんて、一度もないな。当たり前か。だって、怜は、

「ねえ、怜」

キスして、って言おうと思った。だけど小さな声で呟いた言葉は、「手、握って」っていう一言。怜が一瞬、目を丸くして、何か言いたげに唇を開いて、だけど私がそれより早く遮る。

「私が眠るまで、ずっと。手を離さないで」

おねがい、ってつぶやく。幾度と無く怜に対して使ってきた言葉だ。だけど、今日ほど弱々しい「おねがい」が、今までにあっただろうか。怜は、言いかけた言葉を飲み込むように一度俯くと、皿を床にそっと置いて、手を伸ばしてくる。私も布団の中からそうっと手を出す。大きな手のひらが私の手と重なって、なんにも言わずに優しく指を絡ませる。いつのまに、こんな手のひらになったんだろう。男の子、っていう、手のひらになった。ずっと一緒にいたのに、ふいに寂しくなるよ。こんなに傍にいるのに、遠くに行ってしまいそうで、怖くなるよ。怜の指が、慈しむように私の指を撫でる。それだけで、きゅうっと胸が苦しくなった。


「ねえ、こわいゆめをみるの」(怜が、私から離れていく夢)