怖い夢を見る、と呟いて彼女は目を瞑り、少し経つと寝息が聞こえてきた。夢の内容は詳しく訊かなかったけれど、恐らくまたその夢を見たくなくて、傍にいてほしいと僕に頼んだんだと思う。僕が手を握っていることで安心して眠れるなら、お安いご用だ。先日深夜の電話越しに相談されたときは、何もできない自分にひどく悲しくなったから。こういう形で、傍にいることが許されるなら。それはきっと、とても幸せなことなんだろう。それだけのために、傍にいられたら。

「…眠っているときは、無防備ですね。さん」

いや、当たり前かもしれないけど。むしろ眠っている時くらいそうでなきゃ困る。いつも僕を振り回して、不敵なあなただから。そんなことを思って、少し苦笑いが零れた。それに反応するように、小さくさんが身じろぎする。寝言なのか、吐息に混じって僕の名前が呼ばれた。どきりとして、思わず手を握る力が強くなる。「ここに、いますよ。ちゃんと」言いながら、長い睫毛も、柔らかそうな頬も、じっと見つめているとなんだか妙にどきどきしてくる。あんまり寝顔をじっと見るのも、悪いだろうか。だけど、自然と目が離せなくなっていた。視線はゆるゆると下降していき、彼女の唇にとまる。柔らかそうな、ぷっくりとした唇。その感触を、知らないわけではないけれど。

(そういえば、キス、してないな)

彼女が眠る前に言っていた言葉を思い出す。「キスしてくれたら、大人しく帰してあげる」「キスしてくれたら、ちゃんと寝てあげる」…結局、そんなことしなくってもおとなしく眠ってくれたし、今なら簡単に彼女の手を離して、僕はこの部屋を出ることができる。今日は、なんにもしないまま。彼女の「遊び」に付き合うこともなく、そのまま。「なんだかいつもの私達じゃないみたい。普通だね」って、さんは、そう言ったけれど。そんな日があったっていいはずだし、そもそも「いつもの僕達」がおかしいんだ。これが、普通。あるべき姿なんだ。

(わかってる、のに)(なんで)

さんの手を握ったままに、そっと身を乗り出す。眠っている彼女は、気配に気づくことなく、目を閉じたまま。やけに速い自分の心臓の音だけが、耳障りだった。いけないことをしようとしているみたいな気分。いや、事実、そうなんだ。冷静になれば、今の自分に「何をしているんだ」と制止を掛けられるはずなのに、その背徳感さえ僕の背中を押す。顔を近づけて、あとすこしで唇が触れるというときに、ふと思った。今、彼女が目を覚ましたら、なんて言うだろう。いつもみたいに愉しそうに笑って、人の羞恥心を煽るような言葉を僕に浴びせるだろうか。それとも、驚いて目を丸くして僕を見るだろうか。

そんなものは想像でしかなく、彼女が目を覚ます気配はない。あと少し、顔を近づければ、唇が触れ合う。どくどくと心臓が音を立てるたび、触れたい、って、心が叫んでいるみたいだった。あるいは、触れちゃいけないと警鐘を鳴らしているのかもしれない。


ー?ただいまー。帰ってきてるのー?」

僕の葛藤を遮ったのは、玄関の扉が開く音と人の声だった。ハッとして身を引いて、我に返り手の甲で唇を押さえる。あぶない、なにしてるんだ、自分は。落ち着け。落ち着け。必死に言い聞かせて、さんの顔を窺う。幸い、起きてはいないようだ。さっきの声は、恐らく彼女の母親だろう。いつも帰りが遅いから、幼いころに比べてここ最近僕が顔を合わせることはほとんど無かったけれど、今日は予定より早く仕事が終わったんだろうか。さんのことだから、いつも母親の帰りが遅い日を狙って僕を家に呼んでいるのかもしれない。と、すると、僕を家に呼んでいることは親に秘密なんじゃないか。玄関の靴は見られているだろうし、バレていて部屋に篭もりきりというのも、変に怪しい、気まずい、気がする。意を決してそうっとさんの手を離し、置きっぱなしになっていたナイフとお皿を持って、階段を下りた。

「お、お久しぶりです。お邪魔してます」
「えっ!怜くん…!?久しぶりねえ!」

最後に会ったのはいつだったかな、ちょっと見ない間に身長も伸びたね、いい体つきね、何かスポーツやってるんだっけ、昔から運動神経よかったものね、勉強もできたしね。二階から僕が下りてきたのを見ると目をひん剥くくらいに驚いたその人は、そのままの勢いで次から次へと質問を投げかけてくる。「いや、はあ、まあ」なんて曖昧な返事をして、苦笑いを返す。苦手な人なわけではないけれど、シチュエーションがシチュエーションなだけに、何しに来たのだの、いつも来てるのだの、そういう話題になってしまうとまずい気がして。昔のようにただ遊びに来ました、なんて一言で済むような年齢ではないだろう。

「あ…ええと、さんが林檎を出してくれて…ナイフとお皿は、台所でいいですか?」
「あら、わざわざごめんね。私が片付けておくから、置いておいて。は?お客さんに片付けさせるなんて、何考えてるのかしら」
「いえ。疲れていたみたいで、眠ってしまったんです。僕もそろそろ、」

帰ります、と逃げるように口にしかけて、ふっと、さんのお母さんが僕の顔をじっと見ていることに気づく。ぎくりと後ろめたさたっぷりに言葉に詰まったとき、しまった、と思った。唯一の逃げるタイミングを、逃した。嫌な予感がした。何か都合の悪いことを言われる予感。相手の表情は真剣そのものだ。僕は今すぐこの場から逃げてしまいたい気持ちを必死に堪えて、その口から発せられる次の言葉に身構えた。

「ねえ、怜くん。もしかして…あの子がいつも無理にあなたを家に呼んでるんじゃない?」
「え…っいや、そんなことは…!」
「それとも、やっぱり怜くん自身が…あの事故のことを気にして、に会いに来ているの?」

ぐっと、声が出なくなる。声の出し方を忘れてしまったみたいに。手足の動かし方さえも、息の仕方さえも、一瞬分からなくなる。ブツンと電源が切れたように、思考が働かなくなった。目の前の人物が、悲しそうに目を伏せる。僕が返事をしないから、言葉に詰まるから、それを答えだとみなしたみたいに。何か言おうと唇を薄く開くのに、言葉が出てこなかった。(ちがう、ちがいます、ぼくは、そうじゃない。そうじゃなくて。)否定の言葉か?僕が口にすべき言葉は。否定して、いいのか。僕が彼女の傍にいる理由を、失くしてしまうのに?

「怜くん、あのね、よく聞いて頂戴。誰もあなたのせいだなんて思ってないの。あなたが責任を感じることは、なんにもないのよ。あの子もそんなこと望んでない。もう、忘れていいんだからね。そうじゃなきゃ一生、あなたを縛り付けてしまうことになる。そんなの、悲しいわ。のことは忘れて、怜くんは怜くんのためだけに生きて、幸せになってほしいの」

そうじゃ、ない。僕が望んだのは、そうじゃ、ない、のに。この人が言っていることはきっと正しいのだと、頭のどこかで理解した瞬間、僕は完全に返す言葉を失くした。考えるべきことも、分からない。だって、そうだ。きっと何より正しい選択なんだ。僕もさんもきっと幸せになれる、選ぶべき選択肢。僕だけが過去に縋り付いて、彼女の傍にいることを許してもらっているだけで、当の彼女はそんなこと、望んでない、きっと。いや、望もうが望むまいが、確実に、僕が彼女の傍を離れたほうが、彼女のためなんだ。僕がいるから、彼女は悲しい顔をする。おかしくなる。汚れてしまう。昔みたいな関係には、戻れない。戻れなくさせたのは、紛れも無く、僕だ。

「…ひとつだけ、聞いても…いいですか」

ようやく絞り出したその声が、あんまりみっともない声で、僕は言葉を続けることを一度渋る。けれど、訊かなくては。確かめなくちゃ、いけない気がした。ずっと、あの人に訊けなかったことだ。さんのお母さんが、小さく微笑んで僕の言葉を待つ。それを確認して、恐る恐るその先を口にした。

「あの…さんの傷ってやっぱり、」
「ねえ!二人とも何の話してるの?」

びくっとして瞬時に振り向いた先で、声の主が二階から降りてくる。途端にどっと汗が吹き出て、心臓の音が嫌に速くなった。僕と母親の顔を交互に見て、さんが首を傾げる。彼女のお母さんが慌てて、「なんでもない!起きてたのね、ただいま」なんて早口に言いながらぎこちなく笑った。僕も真似てごまかそうとしたのに、うまく笑えもしないし言葉が出てこない。そんな僕に気づいていないのか、さんはにこにこしながら階段を下りきって、僕の隣までやってくる。

「お母さん、今日は遅いって言ってたのに早くお仕事上がれたんだ。よかったね」
「うん、今日は予定より早めに帰っていいよって、うん、言われて」
「そっか。あ、ねえ、怜とお母さん、会うの久しぶりでしょう?」
「そうなのよ!久しぶりに会ったらこんなにかっこよくなってて、お母さんびっくりして!」
「ねえ、怜。今日うちでご飯食べていかない?」
「…、え…っ」
「いいでしょ、お母さん」
「え?…そりゃあ、怜くんがいいなら、いいけど…でも、」
「決まり!私も作るの手伝うから。いっぱいごちそう作ろう?」
「や、あの…僕は…」
「遠慮しないで?あ…でも冷蔵庫に何あったかなぁ」
「あ、買い物はもともとお母さんが今から行こうと思ってたから、いいのよ」
「そう?じゃあお母さん、怜の好きそうなものいっぱい買ってきて!」

無理にうちに来なくてもいいんだと言った手前、どこかぎこちない雰囲気はありつつも、ここで帰すのも気が引けたであろうさんのお母さんが、「怜くん、今日くらいよかったら食べていって。久しぶりに会ったから話したいこともたくさんあるし」と笑う。そんなふうに言われると、ますます帰るタイミングが無い。すみません、と小さく謝りながら頭を下げると、気にしないで、と返ってくる。そのまますぐ、「じゃあお買い物行ってくるね」さんのお母さんが玄関へ向かった。いってらっしゃい、というさんを真似て同じようにいってらっしゃいを背中に投げた。ぱたん、と閉じたドア。その、直後。

「怜、部屋へ戻って」

ぐっと手首に圧がかかる。ハッとしたのと同時に唾を呑んだ。隣から聞こえた声がやけに冷たい。さん、と名前を呼ぶより先に、ぐいと腕を強く引っ張られる。そのまま引きずられるように階段へ、二階の、彼女の部屋へ向かった。いよいよ鼓動のリズムが狂ってくる。前を歩くさんは全くこちらを振り返らない。そこで、気づいた。馬鹿みたいに遅いけれど、気づいた。彼女が先ほどからやけににこにこしながら母親と喋っていた理由。早口に、僕と夕食を取るよう押し通したのも、あれは、こうして僕と二人きりになるために母親を追い出したに過ぎないということ。


「ねえ。ほら、ベッドに寝てよ。怜。早く」