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目の前の女性が、自身のシャツのボタンを上から一つ一つ外していく。彼女の視線は自分の指先に向けられていて、僕とは目が合わない。それでも、伏せられた長い睫毛の一本一本を数えるように、僕はじっと、彼女のことを見つめていた。やがて全てのボタンを外し終わると、彼女が僕の名前を呼ぶ。れい、って二文字を。聞き慣れた声で。 「さわって」 その一言に、ぼんやりとしていた意識が途端に覚醒する。手に汗が滲んで、さっきまであんなに見つめていたっていうのに、俯いたまま視線が上げられなくなった。そんな僕を、彼女はいつもくすくすと煽るように笑う。「嫌なの?」と、わざと作ったような甘い声で尋ねられて、ごくりと喉が鳴った。嫌なのか、そうじゃないのか、いつも答えが出るより先に、彼女が身をぴったりと寄せてくる。後退ろうとしたって自分はすでにベッドの上だ。シーツに手を付いて、促されるままゆっくり体を沈める。そもそも考えたところで、こういうときの自分は正常な判断が出来るわけがないんだった。逃げられないのか、逃げないのか、それすらわからない。 「嫌じゃないよね?」 「…さん、」 「だって、私のお願い聞くの好きだもんね」 うっとりとした声。まともに考え事すら出来ないような、頭の弱い僕こそが自分の欲しかったものなんだと、満足気に笑う。僕の首の後ろに腕を回して抱きつきながら、耳元で小さく、「はやくして」と甘ったるく囁いた。かあ、と全身が熱くなるのを感じながらも、抵抗するように、首を振る。「こんなの、おかしいですよ」自分の声は情けなく震えていたけれど、お構いなしにさんは言う。「おかしい?私がおかしいの?」 「おかしくしたのは、怜なのに?」 ひく、と息が止まる。視線を向けると、至近距離に彼女の笑顔があった。笑っている、けれど、僕をからかうためのものじゃなくて、どこか冷たいような、悲しむような、そんな笑顔だった。急に、怖くなる。嫌な汗が滲んで、背筋が冷たくなった。何か言わなきゃと唇が震える。首を横に振りたいのに動かない。彼女と目を合わせて、石に変えられたみたいに。 「……僕は、そんな…つもり…」 「嘘。知ってたでしょ。怜がいつも私を受け入れちゃうから、私、どんどんおかしくなっちゃったんだよ」 「で、でも…」 「嬉しい?大好きだったお姉ちゃんが、一人でなんでも出来て憧れだったちゃんが、自分無しじゃ生きられない、ダメな女の子に堕ちて、嬉しい?」 「ちが、う…さん、やめて…」 「私が怪我して、嬉しいでしょ?傷跡が残って嬉しかったでしょ?ずっと一緒にいる理由が出来て、嬉しいでしょう?」 歪んだ関係でもいいって、どんな形であれ傍にいたいって、知らないうちにそれを選んだのは自分なのに。それなのに、口をついて出るのは、「こんなのおかしい」「恋人同士なんかじゃないのに」「あなたのそばにいない方がいいんだ」そんな言葉たちだった。自分でも矛盾してるって分かってる。結局、僕は、何を望んでいるんだろう。彼女に事故の傷が残っている限り、傍にいなくちゃと思っていた?傍にいられると思って安心していた?彼女から与えられる「お願い」を聞くことを、悦んでいた?そのお願いのせいで、どんどん彼女が甘えて、「おかしく」なっていくのを分かっていたのに? 「ひどいよね、怜。私をおかしくさせておいて、自分に依存するようになってから、今更、突き放すんだもの」 言われて、はっとする。そうだ、突き飛ばしたんだ、あの日。あのときの感触と、彼女の流す涙を、僕は鮮明に覚えていた。ひどい。酷いのは、僕。あのとき、僕はなんて言った?「追い詰めるつもりはなかった」って、そんなことを言ったんだ。追い詰めた張本人のくせに、そんなことを。自分の身勝手さに嫌悪感がこみ上げてくる。僕はどうすれば正しくいられたんだろう。突き放さずに、ただただ彼女を受け入れればよかった?違う、それじゃあ、何も変わらない。もっともっと、何もかもがおかしくなるだけじゃないか。なら、突き放したことは正しいのか?このまま彼女と会うこともなく、知らない誰かとの幸せを願っていることが、最善? 「怜。もういいよ、なんにも考えないで」 彼女の細い指が、頬に伸びてくる。子供にするような優しい手つきで撫でると、今度は唇を寄せた。唇が唇に押し当てられても、自分の頭の中はすっきりしないままで、ただぼんやりと、されるがままに受け入れる。彼女のキスの理由は、なんだろう。彼女が一番に望んでいたことはなんだろう。僕の望んでいたことはなんだろう。その二つが交わることはないんだろうか。ぼんやり、考える。あの時涙を流した彼女と、今僕にキスをして微笑んだ彼女は、同じ人だろうか。ズボンのファスナーを下げる音が聞こえる。それすら他人事のように、ぼんやり、遠い。抵抗しない僕を見ると子供みたいに無邪気に微笑んで、彼女は自身の唇を舐める。てらてらと光るその唇の間から赤い舌を覗かせて、――暗転。 ざああ、と土砂降りの雨みたいな音をぼんやり聞き流して、壁にゴン、と額を押し付ける。水音は雨じゃない。熱くも冷たくもないシャワーの音だ。頭から被ったところで、この気だるさも、自己嫌悪も、すっきりなんてしてくれない。ぼーっと、風呂場の床のタイルと、自分の足の指先を眺めた。頭のてっぺんから、肩から、下へ下へと伝ってシャワーの水が排水口へ向かって流れる。全部流れてしまえばいいのに、自分の中に棲みついた汚らしい魔は流れてくれないんだ。 「……最低だ」 呟く声も弱々しい。朝起きるなり逃げるようにシャワーを浴びてくると口にした僕を家族はどんなふうに思っただろう。汗を洗い流すため、だけじゃ、なかった。目覚めて一番に感じたあのズボンの中の不快感は未だに拭い切れない。自分の出したもので汚れた下着を自分の手で洗うという行為は、こんなに情けない気持ちになるんだなと改めて実感する。いや、そもそも、そもそもだ。あんな夢を見る事自体が、一番情けない。嫌気がさす。吐き気が、する。気持ち悪い。思いつく限りの文句を唱えても、夢の中で見た彼女の顔も、言葉も、薄れない。ちっとも。 男の体というものは、僕が思うよりずっと欲望に正直なものらしい。 あの日以来、さんとは連絡も取らず顔も合わせず過ごしていて、彼女のことを考える時間は、減った、…減るはず、だった。なのに実際のところ、授業中も、部活中も、一旦集中力が切れると、気づけばいつも彼女のことを考える。家に帰って、勉強中も、入浴中も、夜、寝る前も。――寝る前は特に、酷い。彼女のことを、考える。彼女の涙を、本心を…考えていたはずなのに、思考は途中から、脱線していく。本当、魔が差したように、ふいに、おかしな気分になる。そして一度それがやってくると、もう、なかなか離れない。脳裏に浮かぶのは、彼女の涙ではなくて愉しげな笑み。聞こえてくるのは、荒い息遣い。目を閉じると思い出すのは、自身の体に伸びてくる細くて白い指先。そこまで気づいていつもハッとして、想像を掻き消そうと頭を振る。もう具体的にいつからそんな関係になってしまったのか覚えていないけれど、彼女に体を触られるようになってから、気持ちよさを知ってから、自慰の回数が増えていた。そんな理性の弱い自分の体は、さんにしばらく触られないだけで、もやもやと、落ち着かない。だけどあの日、彼女に「もういらない」と拒絶されて以来、意地でも僕は彼女を想って自身を扱くことはしなかった。だって、そうだろう。拒絶された人間が、振られた人間が、自分の欲の為に、そのひとを尚も汚すなんて。ただでさえ、以前から罪悪感に苛まれながらしていた行為だ。これ以上、出来ない。そんな最低なこと。そう強く言い聞かせて、意識を別の所に必死に向かわせる。やり過ごす。寝てしまおう、朝起きた時にはきっと、消えてる。全部。気を抜くと下半身に伸びてしまいそうになる自分の指をぎゅっと握りしめて、眠りにつく。 ――その結果が、今朝の、夢精だったわけだけど。あんな、夢。そんなつもりないはずなのに、結局、相手の気持ちよりも体が欲しいんじゃないのかって。好かれることよりも、もう一度あの指で触れられることだけを求めているんじゃないのかって。違う、って否定したい気持ちと、否定できないだろって自分を責める気持ちが、頭の中でぶつかり合う。どうしてあんな夢を見るんだ、どうして体が反応してしまうんだ、どうして。それくらい、彼女が僕の中に植え付けたものは大きい。心も、体も、おかしくなりそうだ。いや、もう、ずっと前から、おかしくなってる。 |