「――ちゃん、怜ちゃん、怜ちゃんってば!」 呼ぶ声にハッと我に返ると、自分を覗きこんでいた人物と目が合った。自分のことを「怜ちゃん」と呼ぶ人物なんてかなり限られているから、相手が誰かなんてすぐ分かる。「大丈夫?怜ちゃん。最近いっつもぼーっとしてるよ?」そう言って渚くんは、シャツのボタンを外しながら僕に心配そうな視線を向けた。…ああ、そうか、部活…か。いつの間に放課後になったんだっけ、というくらい、渚くんの言葉の通り、ぼーっとすることが多すぎる。「なんでもないですよ、すみません」と謝って、自分もシャツのボタンを一つずつ外していく。その間にも、渚くんは神妙な顔で僕を見つめている。 「…怜ちゃん、絶対何かあったでしょ。なんにもないわけないよ」 「……え…」 「悩み事?」 「そういうわけじゃ…」 「あ、分かった!『ちゃん』のことだ!」 その名前を耳にしただけで、大げさにドキリと音を立てた心臓はとても正直だ。そういえば渚くんは以前にも、さんと電話している僕を興味深そうに見て、隣で「彼女だ彼女だ」と囃し立てて来たことがあった。それがきっかけでその後さんから散々な目に遭ったけど。僕はその時のことを思い返し、また頑なに、「べつに、渚くんが思っているような関係じゃありませんよ。彼女なんかじゃ、ないです」と呟く。恋人なんかじゃない。僕らみたいな歪んだ関係が、恋人同士なんて、そんなふうに、言われていいわけがない。暗く呟いた声に渚くんがしゅんと眉を下げるのを見て、罪悪感を抱いた。少し言い方が冷たかっただろうか、余計に心配させただろうか。謝ろうと顔を上げたとき、視線を合わせた渚くんは、唐突ににっこりと笑って、明るく、こう言った。 「じゃあ、好きな人だ!」 「…え?」 「彼女じゃなくても、怜ちゃんの好きな人、でしょ?」 自分の目の前でにこにこと笑っている人物の顔をぽかんと見つめて、数秒経った頃ようやく「そう、ですね…」と、半ば呆然と呟いた。そう言われれば、そうだ、恋人なんかじゃないけれど、さんは確かに僕の――好きな人、だ。その通りなのに、認めると同時に胸が痛くなる。自分は、あの人を好きでいる資格なんてないんじゃないかって、他の誰も責めないのに、自分自身に責められる。だって、あの事故で彼女に大怪我をさせたし、僕が傍にいたら彼女をおかしくしてしまうし、僕はあの人に好かれたいと願う資格なんてないじゃないか。 「ちゃんと喧嘩でもしたの?」 「…喧嘩、とかじゃ…っべつに、もう、いいんです!…もう、会いたくないって、いらないって言われましたし…」 「え…諦めちゃうの?」 「だ、だから、諦めるとか諦めないとかじゃないんですよ。傷も消えたしもう遊び相手にもならないって、いらないって、もっと早く離れてくれればよかったのにって、…そう、言われたんですから」 「でも、怜ちゃんはまだ好きじゃない」 傷のことなんて何も知らないだろうし、僕とさんがどんな関係なのかなんて、本当に何にも、知らないはずなのに。僕がつらつらと自分自身への言い訳のようにこぼす言葉を聞きながら、それでも渚くんは、「好きなんでしょう」って、そう言う。だからそういう問題じゃなくて、と言おうとして、頭を抱えて、何も言えなくなる。はあ〜っと深く溜息を吐いて、力なく膝を折った。渚くんが頭上から何度も僕の名前を呼ぶ。 「…怖いんですよ、好きって伝えるのが。好きでいていい、傍にいていい理由が、僕にはもう何もない気がして」 頭をがしがしと掻き毟って、ずいぶんと情けない声で、情けないセリフを零す。それを口にしたら、嫌でも実感する。最低だ。何が最低って、彼女のあの傷跡を、傍にいることを許される理由にしていた自分が。会いたくないと言われたら、簡単に身を引いてしまう、臆病な自分が、嫌になる。落ち込む僕を慰めようと、渚くんがひょいと僕の隣でしゃがみこむ。視線の高さを合わせて、あのね怜ちゃん、と声を掛ける。 「確かに好きって言うの、勇気がいると思うけど…でも、傍にいていい?とか、好きでいていい?とか、そういうの考えるよりまず、好きって言わなきゃだめだと思うな。だってまだ伝えてないんでしょ?フラれた内に入らないよ!」 「…渚くん…」 「…あ。でも…好きって伝えた後にもう会いたくないって言われたらそれはまあ…その時は怜ちゃんの失恋記念として、僕がめいっぱい慰めてあげるし!」 「いや、それは記念にならないと思うんですけど」 さくっと一言余計なことを付け足した渚くんに大げさに肩を竦めるけれど、すぐに、プッと笑い出す。渚くんも、そんな僕を見てえへへと小さく笑った。好きだと伝えるのが怖い、っていう、その解決策にはなっていない気がするけれど、だけど確かに、渚くんの言う通りだった。僕はまだ何も伝えてない。伝える前から、全部、諦めているから。僕が彼女と幸せになっていいはずないって、思い込んでしまっているから。伝えちゃいけないと思っているから。でもそれは全部、逃げでしかない。もっと大事なことがあるはずなんだ。確かめて、あの人に、言わなくちゃいけない一言が。 「…ありがとうございます、渚くん。なんだか、勇気を貰えた気がします」 「ううん。だって僕、怜ちゃんがちゃんと電話してるの何回か横で見てたけど、すごく仲良しそうだったし…きっと上手くいくよ!怜ちゃん頑張れ!」 「…はいっ!ありが、」 「あ!そうだ!」 いいことを思いついたようにすくっとその場から立ち上がった渚くんは、自分の鞄の中をがさごそと漁り始める。僕も立ち上がって、首を傾げながらそちらを見守った。やがて何かを片手に隠しながら、内緒話をするように「怜ちゃん、手ぇ出して」と小声で囁いてくる。不思議に思いながらもおずおずと手のひらを差し出すと、ぽん、と渚くんがその上に自分の手のひらを合わせる。同時に、彼が持っていた何かが、僕の手のひらと渚くんの手のひらの間に挟まれた。首をかしげたままに、じぃっと渚くんの手の甲を見つめる。彼がその手をどかさなければ、何を貰ったのか確認することが出来ない。 「えっと…渚くん?」 「イチゴの香りつき」 「え?」 小さく呟いて、渚くんはにっこり笑う。その言葉の意味が分からないでいたら、そうっと彼が手をどかす。置き土産として僕の手のひらにのっている見慣れない物体に、さらに首を傾げた。なんだろう。香り付き、ということは、べつに食べ物というわけでもないんだろう。何かが入ってる小さいパッケージ。シワの寄り具合で、円形が浮かび上がっている。何か、丸いものが入ってるんだろうか。 「あれ?もしかして怜ちゃん、何だか分かんない?」 「はあ…」 「んー…お守りになるよ!きっと二人の役に立つと思うし」 「……ええと…」 「はいはい、とにかくしまって!ポケットに入れておいて!」 「わ、分かりました…」 急かすようにそう言われ、慌てて貰ったものを制服のズボンのポケットにしまう。ちょうどそのとき、部室のドアが開いて、遙先輩と真琴先輩が中へ入ってくる。「ごめん、ホームルームが長引いて…あ、まだ着替えてなかったんだ?」真琴先輩の柔らかな声に振り向いた直後、渚くんがずいっと僕と先輩達の間に立った。 「まこちゃん!怜ちゃん今日具合が悪いみたいだから、部活はお休みするってー!」 「え!?な、渚くん…僕はべつに、」 「そっか?…わかった。体調悪いのに無理に泳がないほうがいいよ、怜」 「真琴先輩!」 「ちょうど部室に来る途中、ハルとも話してたんだ。最近、怜の調子悪いみたいで…心配だなって。ね、ハル」 真琴先輩が首をそちらへ向けて話を振ると、遙先輩が僅かに頷いた。よっぽどここ最近の僕の様子はおかしかったんだろう。見ている誰もが分かるくらいに。心配させてしまって申し訳なく感じていたら、遙先輩がすっと僕の目を見て、「…水は逃げない」と呟く。だから元気な時に泳いだ方がいいだろ、と。二人とも僕を気遣ってくれているのが伝わって、じわじわと胸にこみあげてくるものがある。そんな僕を振り返った渚くんはまた機嫌良さ気に微笑んで、その笑顔のまま僕の後ろへ回ったかと思うと、ぐいぐいと背中を押し始めた。 「そーゆーことだから、頑張ってね!怜ちゃん!」 「?…怜が頑張る?何を?」 「えっとね…元気になるために、頑張るっていうか…ほら、二人も怜ちゃんを応援して!」 「な、渚くん…いいですってばっ!」 頭上にハテナを浮かべながらも、遙先輩と真琴先輩まで「頑張れ」と僕に言ってくる。それがハズカシイやら照れくさいやらで、かーっと顔が熱くなる。けど、事情を知っている渚くんに言われる「頑張って」が、一番、照れくさい。頭を下げて部室を後にして、…思い返してみると、今まで誰かにさんのことを話したことがなかったのかもしれない。仲直りしてきなよ、とか、今日こそは伝えてきなよ、とか。そういうふうに、背中を押されたことがなかった。誰かに、「好きなんでしょ?」と、自分の抱いている気持ちは間違いなく恋心だと、肯定してもらったことが、なかったんだ。 「……頑張って、みます。今日だけは、絶対に」 小さく呟いて、携帯電話を開く。あの日以来、メールも電話も来なかったけれど、今日は、自分から。電話を掛けても出てくれないかもしれない。だから、一方的なメールを一通だけ送る。「今から行きます。」ただそれだけ。行ってもいいかと訊くわけじゃない。ドアを開けてくれなくても、開けてくれるまでずっと待とう。今から、貴女に会いに行く。確かめたいことがある。伝えたいこともある。貴女にどんなに拒まれても。今日だけは、弱い僕にはならない。深く息を吐いて、きっ、と前を見据える。走りだすと、どんどん想いは強くなった。僕は走る。貴女に会うために。いつだって貴女が僕を待っていた、あの部屋へ。 |