今から行きます。それだけが書かれたメールを、ぼんやりと眺める。さっきから、携帯を開いて、閉じて、その繰り返しだった。何度も、たった一通のメールを読み返す。返信しようか迷ったのは最初の数分だけで、結局、何も返さずにただただ眺めた。しばらく経つと布団を被って、携帯を握りしめて、目をとじる。一体、どういうつもりなんだろう。なんでこんなメールを寄越したんだろう。どうしてこの部屋に、もう一度来るのだろう。呼んでないのに。突き放したのに。小さく溜息を吐いて、今度は別の人物からのメールを読み返す。お母さんからのメール。今日も遅くなるねって。いつものことだから、夕飯だの戸締まりだの、そういう心配をする文字はない。父親は単身赴任、母親はお仕事大好き人間。もうすっかり、寂しいだとか、そんなふうに思える子供ではなくなった。むしろ、都合がいいとしか思わなくなっていた。両親のことは好きだけど、このメールが送られてくる度に、「ああ、怜が呼べる。今日は何をしよう」って、わくわくするようになった。別の意味でまだまだ子供だ。いやらしい子供。…だけど今日は、そのメールを見ても、怜から「今から行きます」なんてメールが来ても、気分が良くなることはなかった。

ふいに、玄関のチャイムが鳴る。怜だろうか。メールが来てからしばらく経ったし、ちょうど、着く頃かな。他人ごとのようにぼんやり考えるけれど、布団から出ることはしない。首元まで布団を被ったまま、寝返りを打って壁と向き合う。やがて玄関の方から、ゆっくりと扉が開く音がした。鍵は掛けてない。勝手に入ってきたらしい。

「お邪魔します。さん?…入りますよ」

許可なんて出してないのに、足音が家の中に侵入してくる。本当に会いたくないなら、メールを見た時点で玄関の鍵を閉めに行けばよかったんだ。そうしなかったのは、私だ。しんと静まり返った家の中に、怜の足音だけが響く。さん、と私の名前を呼ぶ声がだんだんと近づいてきた。階段を登る音、部屋の扉が開く音。

「…さん?……寝てるんですか?」

部屋に入って、ベッドで布団に包まっている私に、怜が声を掛ける。きっと今振り返れば、入り口のところに怜がいる。分かっていても、振り向かない。数秒の沈黙のあと、こちらへ近づいてくる音がした。私はきゅっと布団の中で拳を握って、この言いようのない苛立ちをどう怜にぶつけてやろうか考えた。振り返らずに、心底不機嫌な声で、「うるさい」と一言発すると、足音はぴたりと止まった。

「勝手に入ってこないで。来てもいいなんて言ってないでしょう?」
「……すみません。返事が無いのに鍵が開いていたので、つい…心配になって」

てっきりもっとおどおどして弱々しい声が返ってくると思ったのに、怜の声はやけに堂々としているように聞こえた。自分でも冷たい言葉だと思ったのに、全然、怜の心は揺るがないみたいに。それがなんだか無性に、もやもやした。もっと驚いて、躊躇って、悲しんで、怯えてしまえばいいのに。そうしてくれないなんて。懲りもせずベッドへ近づこうとする足音に、イライラが募る。「帰って。今すぐ」苛立ちを全部こめたような声で拒絶を表すけれど、怜はそれに応えず、人の気配はベッドのすぐ傍までやってきた。

「…さん、具合…悪いんですか?布団被って…」
「っうるさいって言ってるでしょ!怜の顔なんか見たくないの!」

これにはさすがに、息を呑む音がした。悲しげに眉を下げる怜の顔を想像して、心が痛むどころか、ぞくりと背筋を何かが駆け上ってくる。つくづく救いようがないなぁ、と自分自身を嘲りながら、唇を噛んだ。次に怜が発する言葉は容易に想像がつく。しゅんとした、悲しげな声で、「すみません」と謝るんだろう。いつもそうだ。震えた声で謝られて、そのたび私の中で、悪魔が、怪物が、ぶくぶくと育っていく。おかしくなる。もうこんなの、やめたいのに。もういらないって、言ったのに。だって怜は、私の事を好きだなんて言ってくれない。心が離れていくだけだ。ならもう、会わないほうがいいって思った。それなのに、なんで、怜は今この部屋に来て、私の傍にやってくるの。痛くなるくらいに拳をきゅっと握りしめていたら、すぐ傍から、怜の声が聞こえた。私が思っていた言葉と違う、怜の言葉だ。

「でも、僕は…貴女に会いたかった。さんの顔が、見たい…です」

それを聞いた自分の目が大きく見開かれて、こみ上げてくる感情が外に出ないようにと、気づけば手のひらで口元を押さえていた。なんでそんなこと、言うんだろう。いつもの怜なら、言わないのに。どうして、今、この部屋で、そんなことを言うの。どうしてそんなに、嬉しいことを。期待したくなるようなことを。私のこと好きなんかじゃないくせに。あの傷の罪滅ぼしのためにしか、傍にいてくれないくせに。期待しちゃだめだ、だめだ、と必死に自分に言い聞かせて、小さく息を吐く。(そうだ、分かってるはずじゃないか、怜が私に会いに来た理由なんて、私の望んでる答えじゃない)どうせ、強引に引き込んでしまえば、いつも通りになる。(いつも通りの、くだらない、私の一人遊び)

「…そんなに私に会いたかったの?」
さん…」
「馬鹿な怜。せっかく私が、遊び相手から解放してあげたのに。もう来なくていいって言ったのに」

わざと気だるげな風を装って、ゆっくりと上半身を起こす。ベッドのすぐ傍に鞄を置いて膝を付いた怜が一瞬怯むけど、自身を奮い立たせるようにきゅっと唇を結んで、真っ直ぐに私を見る。視線が絡んだ瞬間、妙な感覚が襲う。少しの間顔を合わせなかっただけなのに、なんだかいつもと雰囲気が違うような。どうしてそう思ったのかは分からない。ただ、こちらを見つめる瞳の奥に、いつも見える何かが、無いような、そんなふうに思った。だけどべつにそんなの、きっとたいしたことじゃない。私はいつも通り、言葉でなぶって、指先で辱めて、それで――、それだけで、いいって、言い聞かせる。

「よっぽど私とエッチなことしたいんだね。顔が見たかった、なんて聞こえのいいこと言うくせに、本当は気持ちいいことされたいって、期待してるんでしょう」
「…違う」
「違わない。だって――…この間、あんなことがあったのに、まだ懲りずにこの部屋に、私に会いに来るんだもの」
「……違います、僕は」
「そんなに怜は私と体だけの関係を続けたいんだ。性欲処理に困ってるの?ねえ。それとも本当に赤ちゃん作って一生責任取りたくなったの?」
「っ…さん!!いい加減にしてください!!」
「私は構わないよ。この関係をずっと続けたって。私、怜のみっともなくって恥ずかしい姿、ずーっとずーっと見ていたいくらい、大好きだもの」

(ああ、駄目だ。何言ってるんだろう。なんでこんな酷いことしか言えないんだろう。)

もう会わないようにしようって、諦めようって、手放してしまおうって思ったはずなのに。こんな関係を続けていたって哀しいだけだって、もっと怜の心が離れていく一方だって分かってるのに、怜の顔を見てしまうと、どうしたって離れたくないと思ってしまう。心を引き寄せられないなら、その温もりだけでもって思ってしまう。だって、考えるだけでも嫌だ。怜が誰かに恋をして、誰かにその体を触られて、誰かをその手で触れるなんて、そんなの。それならずっと、離れられないように私の傍に縛り付けておきたい。今までだってそうだった。私への罪悪感で縛り付けてきたじゃないか。私以外の言葉で、指で、満足できないくらいに、私が怜をおかしくしてしまえばいいの。(だってほら現に私が、怜でおかしくなってるんだから)

「ね、怜、もっと楽しいことしよう?こっち来て?座って?」
「……」

俯いたまま、怜が私の言葉に静かに従う。抗議の声は無い。先程珍しく大きな声を出したけれど、ほら、いつもどおりだ。いつもと、同じ。自分の口から発せられる媚びるような声が耳障りで笑えてくる。だけど今笑ってしまったら、抵抗を諦めた怜のことを嘲笑ったみたいで、気分が悪いだろうな。そう思って、こらえる。怜がベッドの縁に腰を下ろすと、ぎし、と軋む音がした。私はなんにも言わずに、怜の膝の上に乗って、彼の首の後ろに腕を回した。肩口に顔をうずめて、怜のぬくもりを確かめる。怜だってなんにも言わない。私の背中に腕を回して抱きしめ返すこともしないし、だけど離れようともしない。求めないけれど、拒むこともしない。いつだってそれが一番ずるい。

「…キスしよっか」

そういえばこの前、キスは後でってお預けにされたままだったね。それを思い出して、耳元で囁く。いつもだったらびくびくと狼狽えるのに、その気配がない。それが少しだけ引っ掛かる。いつもの、可愛らしい抵抗も、恥じらいもない。ただ何も言わず、私の言葉を耳に入れるだけ。私の知ってる怜じゃないんじゃないかとすら思う。どうして、いつもみたいな反応を返してくれないの。どうして、いつもみたいに、困った顔で私を見て、名前を呼んでくれないの。そんなの、嫌だ。手放すことも、「今までの関係」に戻ることも出来なくなったら、私どこにも行けないじゃない。焦りに似た感情に急き立てられる様に、私はぴったりと怜の胸にくっついていた体を一度離すと、彼の眼鏡を取り上げる。抗議の声は無い。手近な場所にそれを置くと、彼の頬に手を添えた。撫で付けるように指を下に滑らせて、そのまま、くい、と顎を持ち上げる。至近距離で瞳をじっと見つめるけれど、怜は怯まない。目を逸らさない。怖いくらい真っ直ぐに、私と目を合わせていた。それにひどく胸がざわつく。面白くない。

「いいよ、返事が無くたって。勝手に、するから」

目を細めて、唇を寄せる。怜は何の抵抗も見せない。それにももう深く考えず、唇を押し付けた。感触を確かめる様に押し当てて、離して、首を傾け直してもう一度塞ぐ。「ねえ、くち…あけて?」それまで何の反応も見せなかった怜の体が、一瞬だけ強張る。けれどそれも一瞬だ。恐恐と、薄く、唇を開く。それだけで、ああ、なぁんだ、と笑ってしまいそうになる。何にも言わないで怖い顔してたのも、身じろぎ一つしなかったのも、強がってただけなんだ。いつもの、怜なんだ。私が少し強引になれば、簡単にされるがままになる、怜なんだ。なら何も怖くない。いつも通りにするだけだ。薄く開いた唇に舌を割り入れれば、くぐもった声が漏れる。それも随分、抑えよう抑えようという気持ちが伝わってくるので、いじらしい。口の中を弄って、怜の舌を自身の舌で突く。苦しげな声。怜の喉がこくんと音を立てる。どちらとも分からない唾液が怜の喉を通る。たまらない。息をつく間も惜しいくらい。私はすっかり夢中になって、怜の唇を貪る。

「ん…ちゅ…ふ、ぅ……っ…れ、い…? んんッ」

だけどその異変は、突然やってきた。それまでされるがままだった怜が、舌を動かし、絡めてくる。そんなの、初めての事だった。今まで、私が怜の口腔を一方的に蹂躙するばかりで、怜がそれに自分から応えようとなんてしなかったのに。驚いて、思わず目を見開いた時、同時にうっすらと瞼を開いた怜と視線が絡む。僅かに唇を離し、小さく名前を呼んだ、直後。怜の手のひらが私の頭の後ろに回されて、ぐいと無理矢理唇を塞がれる。頭が、付いていかなかった。どうして、と尋ねようにも、言葉を発するより先に怜の舌が私の舌を絡めとる。強く吸い上げて、また絡めて。立場が一瞬で逆になったのだと分かる。分かる、はずなのに、どこか現実味が無いように思えて、私は頭が真っ白になっていた。だって、怜だ。私に、キスをしているのは。いつも、自分からなんて、してくれなかった、あの怜だ。

「…ふ、うぅッ…、ぁ…離、んっ!」

さっきから声を出そうとする度に塞がれて、苦しい。最初仕掛けたのは自分のくせに、もう何分続いているのだろう、と頭がぼうっとしてくる。長い、長いキスだ。なんで、なんでだろう。いつもは逆なのに。上手く息ができなくなってしまえばいいって、苦しげな怜の表情を盗み見て、一人で興奮しているのは私の方なのに。苦しくて、濡れた瞳でうっすらと怜を窺い見れば、彼もこちらを、熱っぽい視線で見つめた。途端に、ぞわぞわと肌が粟立つ。どうして。どうしてそんな目で、見るの。その目には、愛情すら、混ざっているように感じてしまう。唇を塞いだまま、怜がゆっくりと私の体をベッドに倒す。その上に覆いかぶさって、まだキスが続く。体が熱い。脳みそまで煮立っているような感覚。何も考えられなくなる。やっと口が離れても、透明な糸が二人の唇を繋いでいた。それを見ているだけでぞくぞくと下腹部が震える。

「な、んで…」

肩で息をしながら、呆然と呟く。こんな怜、知らない。知らないのに。押し倒されてしまうのだって、見下ろされているのだって、いつもは、怜なのに。怜の位置に、私がいて、私の位置に、怜がいる。私が怜を見る時のような目で、怜が私を見る。「…『なんで』?」息を整えながら、怜が、私の言葉を繰り返す。どうしてそんなことを訊くのか、と言わんばかりに、眉をハの字に下げて。

「キスの仕方、僕に教えたのは、あなたじゃないですか」

私を見下ろしたまま、そう言った。押し倒したまま、そう言った。全部、私のを真似ただけだと。それ以上のことなんかしてないと。…うそ。そんなはずが無い。私のキスなんかより、ずっと、ずっと、男の、それだし。私を押し倒して、腕を掴んでいる、その力だって。

「…、さん」

私を呼ぶ怜の声が震える。同じように、私の腕を掴んでいるそれも震えていた。何かを堪えるような、迷っているような、そんな表情。いや、違う、ただ、泣きそうな表情だったのかもしれない。よく確認できない内に、怜の体が深く沈む。もう一度キスをされるのかと思ってきつく目を閉じたけれど、その感触は降ってこない。目を開ければ、怜の顔は正面でなく、すぐ、横。私の耳元に、息が掛かるくらい唇を近づけて、そして、囁く。

「…僕のこと、嫌っても、いいですから…だから……、ごめんなさい」

最後の一言は本当に、絞りだすような声だった。だから、何のことを言っているのかなんて、考えられなくて。呆然としている間に、ぐいと体を無理矢理に反転させられて、ますます何が何だか分からなくなった。腕は怜に拘束されたままだ。うつ伏せにされて、体の自由が利かない。何故、怜に、無理矢理組み敷かれているのか。何のために、どうして。分からない。分かりたくない。こんな怜知らない。私の怜じゃない。首を捻って、怜の顔を振り返る。「怜、何、これ。離して?ねえ」怜はこんなことする子じゃないでしょう?私の嫌がることなんて、しないでしょう?なんのいたずら?怒ったの?いつもされている仕返し?自分に余裕が無くなっていくのが分かる。怜は私に答えない。ただ、悲しそうに、泣きそうに私を見下ろすだけ。そうだ、その気になればいつだって怜は私をこうやって、力で押さえ込むことが出来たんだ。分かっていたのに、分かったふりだけをしていた。実際に今こうやって、怜に押さえつけられて、びくともしないことを思い知って、私は、怖かった。何か、とても、自分が恐れていたことが現実に起こる気がして。おねがい、と何度怜に言ったか分からない言葉を絞り出す。怜は一度きつく唇を結んで俯くと、数秒後、私に小さく囁いた。懺悔する罪人のような声。けれど腕を掴む力は緩めない。

「…シャツ、捲ります…ね」

息を飲む音がしたのは、自分の喉からだった。

「…い、や…やだ、怜、お願い…やめて…」
「……」
「嫌っ!離して!やだ、やだやだあ!!お願いだからっ!!」

体を捻っても、足をばたつかせても、怜からの反応は無い。半狂乱になって嫌だ嫌だと頭を振って、どうにか腕の拘束を解こうとするのに、それを許してくれない。じたばたと、駄々をこねる子供のようだ。そんな自分の姿、後々思い返せば恥ずかしいものだろうけれど、今は構っていられない。嫌だ、離して、お願い。近所迷惑な叫び声をあげても、怜は私を離そうとしない。宣言通り、怜の手が私のシャツに掛かる。この世の終わりだとすら思う。抵抗する力も、叫び声も、徐々に弱まる。気付いたらぽろぽろと涙が溢れて、肩が震えていた。布団に顔を押し付けて、蚊の鳴くような声で、最後の抵抗を零した。(いやだ、いやだ)

「…見ないで…怜…っ」

息を飲む音。今度は私のものじゃなかった。躊躇った割には遠慮のない手つきで、一気に上まで捲りあげられる。そして、沈黙。もう喚く気力も失せて、私は零しそうになる嗚咽を布団に顔をうずめて押し殺す。沈黙は長かった。それほどショックが大きかったのかもしれない。だけど、何の音も反応もしなくなってからしばらくして、怜の指が私の背中をそうっと撫でた。ゆるゆると、指先だけで微かに触れるなぞり方が、ぞわりと全身を粟立たせる。ぐ、と強く口を結んで、顔を布団に押し付けたまま、僅かに首を振る。怜の指が触れている箇所には覚えがあった。いつも、見ないようにしているけれど、たまに、浴室の鏡でそれを見ては、唇を噛んだ。何年も、何年も。(もうずぅっと前の話だ。あの日、どれくらいの重さの、鋭さの、何が、どれほど、当時の小さい私の背中に降って来たのかは知らない。どれほど血が流れて、どれほど意識を失っていたのかも分からない。覚えていないし、周囲の人間に聞こうとも思わなかった。思い出したくないだろうって気遣ってくれる大人たちがたくさんいた。何より私が知りたくなかった。だってきっと怜が気にしてしまうから。怜が悲しむから)

「…やっぱり、嘘…だったんですね。傷がとっくに消えてる、なんて…」
「……」
「………すみませ、ん…っあの、僕…」
「…どうして怜が謝るの」
「っ、だって!こんな…、僕のせい…で」
「怜のせいだから、謝るの?酷い傷で、可哀想だから、私に優しくするの?そばにいるの?」

こんな傷。鏡で「消えてない」「消えない」ことを確認する度に、やるせない気持ちになった。女の子なのに一生残る傷なんて、って、そう同情してくる大人たちもいるけれど、そうじゃない。この傷がある限り、怜は罪滅ぼしの為にしか、私の傍にいないから。この傷を理由に、ずっと傍にいてほしいって、一生離れないでって、そう言うことだって出来るけど、それじゃあ、そんなのは、意味が無い。悲しいだけだだ。一生愛さないでと言うようなものだ。こんな傷さえ無ければ、今よりずっと簡単に、「そばにいて」って言えるのに。この傷がある限り、「そばにいるよ」と言われたって、罪滅ぼしの為なんでしょうって、ちっとも嬉しくなれないじゃない。でもそんなのずっと前から分かってて怜を傍にいさせたんだ。傷のこと関係無しに傍にいてほしいなら、もうとっくにずうっと前に、「傷なんかもう治ったよ」と嘘を吐けば良かった。それが出来なかった理由は簡単。私に傷が無いと知れば、すぐに離れていってしまうんじゃないかって、それが怖かったから。(事実、あの日「とっくに消えてる」と嘘を吐いたら、怜は私の前からしばらく姿を消したじゃないか。「そんなの関係なく傍にいたい」って、欲しい言葉は聞けなかった)
気づいた時には解放されていた腕で、捲り上がったシャツを直す。体を起こして、横たわっていた枕を引っ掴んでぎゅうっと抱きしめる。そして、怜と距離を取って睨みつけた。いらいらする。酷い、酷い、こんなの。こんな形で、自分の中の物が溢れてしまうなんて。悔しいのに、今は吐き出すしかなかった。全部、全部。

「今日わざわざこの部屋に来た理由はそれ?傷が残ってるかどうか確認して、何がしたかったの?まだ償い足りないの?…もういい加減にしてよ、もう要らないのよ!傷は治ったってことにして、私から離れればいいじゃない!ずっとそうしたかったんでしょう?」
「なっ…待ってください!確かに、離れたほうがいいんだって思ってましたけど、でもそれは、僕が傍にいたらさんが…その、いつも悲しい顔をするし、傍にいないほうがいいんだって思って…、だから!あなたが嫌いだとか一緒にいたくないだとか、そういう意味じゃありません!」
「だって悲しくもなるじゃない!私はこんな傷どうだっていいのに、怜は罪悪感抱いたままでしか傍にいてくれないんだもの!だから怜には見せたくなかったの!」
「ど、どうだっていい訳ないでしょう!?僕は、僕…は、さんの体を傷付けた自分が許せないんです、だってさんは…」
「うるさいっ!!…っまたそれなの?怜はいつもそう言うね、さんは綺麗なのにとか、自分が触れちゃいけないものみたいに!馬鹿みたい、そんなの逆なのに!」

逆なのに。叫んでいる内に感情が昂って、また視界が滲んでくる。もう怜がどんな顔で私に言い返しているのか、よく見えない。抱きしめた枕に顔を押し付けて、涙を無理矢理拭った。泣きたくなんかないのに。私はこんなに泣き虫なんかじゃないし、子供みたいに喚き散らすようなことしない、はずなのに。ずっとそうやって来たのに。泣くのは怜の方のはずなのに。どうして怜は泣いてないの。どうして泣くのが私なの。逆だ、逆なのに。(綺麗なのは怜。汚れてるのは私。触っちゃいけないのは、私の方)

「…悲しくもなるじゃない…私、いつも怜に酷いことして、怜が泣いたり嫌がったりするの、見たくて…昔はこんなじゃなかったのに…おかしくなっちゃったんだもの…」
「……さん…」
「おかしいの……怜にたくさんいじわるしたいの…こんなふうにしか怜のこと愛せないことが、悲しくて、恐ろしいとすら思うよ」

怜だって、分かってるはずでしょう?私が、おかしいの。だからきっと、「傍にいない方がいいんだ」っていうのは正しい。分かってる。いっそ嫌いになってくれたらいいのにって、怜に酷いことしながら何度も思った。こんな関係おかしい。ずっと続けてなんかいられない。そんなの、誰に言われなくたって分かってる。でも、罪悪感だけで傍にいてもらうくらいなら、体だけでも求められたほうが、遥かにマシだとすら思った。だけど、それももう許されないって言うなら。騙されて、ごまかされてくれないって言うなら。私に簡単に抵抗できてしまうっていうなら、要らないなら、もう。

「もういいでしょう?…帰って。もうここに来ないで。もういらないの」

要らないと言われるべきは私の方だったけれど、きっと怜は優しいから、そんなこと言わない。ベッドの上に正座していた怜が、小さく私の名前を呼ぶ。けれど返事はしないで、枕にしがみついたままぷいと背中を向けた。そんな私の背中に、もう一度声が投げられる。さん」って、私の名前。だけど、なあに、なんて、返事は出来ない。背を向けたまま、首を振った。「早く帰って」心の中で留めたつもりが、自然と口に出していた。何かを堪えるように、落ち着かせるように、背後で吐かれた溜息。もう一度、今度は先程よりも強く、さん!」と呼ぶ声がした。

「僕の話も聞いてください!」
「嫌よ、聞かない」
さ、」
「聞きたくないってば!」
「っ、聞けって!!」

怜の口から聞いたこともないくらい怒気の含まれた声が発せられて、思わずどきっと身を竦ませる。何を言われても突っぱねてやろうって思っていたのに、その声に圧倒されて、口を噤むしかなかった。怜本人も、自分の声に自分で驚いたようで、気まずそうな沈黙が流れる。その沈黙の末に、「すみません…大声を、出してしまって…」と消え入りそうな声が聞こえた。先程の強い口調と比べてしまうと、本当に同一人物だろうかと疑ってしまうくらい。私が黙りこんでいると、衣擦れの音が背後から聞こえた。気配で分かる。怜がこちらに近付く。振り向かない私は、膝を折って、警戒するように枕をぎゅうっと握りしめた。

「…さん」
「……」

さっきまで怒っていたくせに、本当、弱々しい声。それは、私のよく知る怜の声だった。頑なだった自分の心が、簡単に解けてしまいそうになる。そんな声で呼ばないでほしい。今すぐに振り返って、わたしのものになって、そばにいて、と告げてしまいたくなる。そんなことを思ってしまう自分が、嫌い。ほしがってしまう自分が嫌い。もう、突っぱねてしまうんじゃなくて、ちゃんと、自分の口でしっかり、言ったほうがいいのかもしれない。もう来ないで、だけじゃなくて。今までごめんねとか、そういうことを。決意を固めるために深く息を吐く。閉じた目を、開く。大丈夫、涙はもう引っ込んだのだから。私は泣き虫なんかじゃないし、子供なんかじゃない。昔みたいに、お姉ちゃんぶって、大丈夫ぶって、話せる。意を決して、枕を手放し、後ろを振り向こう――と、そうした時、突然背後から怜の腕が伸びてくる。あ、と思った時には、背中にぴったりとその温もりが張り付いてきた。一瞬、頭が空っぽになった。耳元に怜の息が掛かる。

「…好きです」

小さな声だった。だけどこの距離で、聞き漏らすことなんて出来ない。私を後ろから抱き締める腕の力が、ぐっと強くなる。「あなたが、好きです…」首元に顔をうずめたまま、切なそうに繰り返す。泣きそうな声にすら聞こえた。「…嘘でしょ」って、そう言いながら、嘘じゃないよと言ってほしいみたいに、私は、私を抱き締めている怜の腕にそっと手を添える。

「だって、ずっと…言ってくれなかったじゃない。否定してくれなかったじゃない。罪滅ぼしの為じゃないよって、好きだからだよって、一度も…」
「…怖かったんです。さんのことが、好きで…どうしようもなく好きで、だから…傍にいることを許される理由…消えない傷が出来て嬉しいんだろって言われたら、否定できないんじゃないかって……そんなつもり無いって、罪悪感だけしか無いって…罪滅ぼしの為だって、そう言わなきゃ、さんの傍にいられないって、思ったから…」
「……だから、傷が治ってたら、離れなきゃって思ってた?」
「はい…あの傷を、傍にいる理由には、してました…きっと。さんを好きでいる理由には出来ないけど。…矛盾、してますよね。それのせいで好きって言えないのに、それのお陰で傍にいられる、っていうか…」
「…何、それ…馬鹿みたい…」
「ば…ばかじゃ、ないです……」
「だって、馬鹿だもの…」
「…分かりましたよ、馬鹿でいいです。僕は、臆病だったから。たとえもし誰かにそう事故のことを責められても、胸を張って……怪我のことは関係ない、利用してない、さんが好きだから、僕が傍にいたいから、許されなくても傍にいるんだって、言えるくらいの自信があれば良かったんだ」
「自信、無かった?…私のこと好きかどうか」
「好きでしたよ。ただ…好きでいる資格があるかどうかは、自信、なかったです…」
「…ばかね」
「ば、バカバカ言い過ぎじゃないですか…?だいたいさんだって僕のこと、」
「怜」
「……なんですか」
「じゃあ、今は?好きでいる資格があるかどうか、分かったの?」

それを聞いて、首元から怜の温もりがゆっくり離れていく。私は首を捻って、抱きしめていた腕の力を緩める怜の顔を見上げた。怜は困ったように眉を下げて、でも優しく、笑う。頼りない笑みだ。だけどそれがいつだって愛しい。私の目を見て、怜が改めて、私に告げてくれる。ずっと聞きたかった言葉だ。夢を見ているような気持ちだった。一体もう何年間、その言葉が聞きたかっただろう。

「好きでいる資格も傍にいる資格も、有るかどうかは未だに分かりません。だけど…そんなことを考える前に、まず、伝えなくちゃって思ったんです。まだ何も、伝えてなかったから。傷が消えてないって知って、よりいっそう気持ちが確かなものになりました。もう、下手な理由を付けて、逃げたくない」
「…うん」
「好きです」
「うん」
「傍に、いたいです」
「…本当?罪悪感だけで傍にいるんじゃないの?」
「僕の意思で、貴女の傍にいるんです。あなたに…いらないって言われても、はなしたくない」
「……こんなに意地悪されても好きだなんておかしい」
「おかしくていいです」

おかしくていい。こんなにこんなにおかしくなってしまったのに、それでいい、と。怜はそう言う。唇を薄く開いて、しばらく怜の顔を見つめる。おかしくても、いいのか。それでも、好きだって、言ってくれるのか。ぼうっと、怜を見つめて、ああ何か言わなくてはと思うのに、言葉が出てこない。言わなくちゃいけないことがたくさんあるのに。なんにも言えないでいると、真っ直ぐに私を見つめてくれていた怜の顔が、徐々に赤くなった。沈黙に耐えられない、何か言ってくれ、と視線だけで訴えられる。そわそわと視線の上げ下げを繰り返し、耳まで真っ赤だ。長く格好つけられない怜が愛しい。いつだって愛しい。今までだってこれからだって、変わらない。

「…怜」
「は、」

返事をしようとした怜の唇を、無理矢理に塞ぐ。言葉は吸い込まれて、代わりにくぐもった声が零れた。少し驚いた様に見えた怜も、すぐにそのキスに応えてくれる。私は怜の首の後ろに腕を回した。抱きしめて、キスをして、それでも足りない。唇だけじゃなくて、全部の距離が、ゼロになればいい。ぴったりとくっついて、離れなくて、そんなふうに一つになりたい。とければいい。混じあえばいい。絡め合った舌が卑猥な音を立てて耳を犯す。それでも足りない。もっと、もっと欲しいの。(欲しくて欲しくておかしくなりそう。だけどそれでいい。もうどこまでだっておかしくなれる。何も怖くないから)

「怜、好き…私も好き、大好き」

舌を突き出せば怜がそれを絡めとる。求められているのだと実感できる。私から求めるだけじゃない。与えるだけじゃない。想いが通じ合うというのがこんなに幸せなことだなんて知らなかった。お互いに求め合うキスがこんなに気持ちがいいなんて分からなかった。何時間だって何十時間だってこうしていられたらいいのに。名残惜しい気持ちを抱えたまま唇をゆっくり離して怜の瞳を見れば、すっかり蕩けた顔の自分が映る。怜が大げさに、ごくんと喉を鳴らす。きっとわざとではなかったんだろう。自分のその行動を恥ずかしがるように、真っ赤な顔を一度俯かせる。だけどすぐに、ゆるゆると顔を上げて、私に手をのばす。小さく呼ばれる私の名前。「もっと、…しても、いいですか…?」