「……あの…さん?」 「………」 「で、ですから、そのー…あのですね、そのチョコレートは…」 「……ふうん、やっぱりチョコなの」 「!!」 もっと鞄の奥にちゃんとしまっておけばよかった。普段の鞄の中身とは違う、明らかに「プレゼント」と分かるようなかわいらしいラッピングを施されたそれが鞄から覗いていれば、誰だって目に留まるだろう。無言で僕の鞄にさんが手を伸ばした時、すぐに気付けばよかった。慌てて奪い返していればまだ何か言い訳が出来たかもしれない。ただきょとんと事の成り行きを見守っていた僕は、さんがその包みを取り出してじっと眺めだしたときに、やっと青ざめた。不機嫌な表情、というわけでもない。ただ、じっとその包みを眺めているさん。それでも、黙り込んだ時点で、良い気持ちはしていないということが分かる。 学校で、自分に恋人がいるということを隠した覚えはなかった。渚くんにはよく話を振られてからかわれるし、それ以外の人間とその手の話になったときも、包み隠さず自分には恋人がいると答えていた。隠す必要がない。照れ臭くはあっても恥ずかしいことではなかった。紹介するのが恥ずかしいなんて相手に失礼だとも思う。だって、自分にはもったいないくらいの素敵な女性だ。いや、釣り合うかどうかという点で言えば自分が恥ずかしいとも思うけれど、とにかく、自分には恋人がいると周囲は知っていた。親だって公認だ。だからこの、「バレンタインデー」という行事にあたっても、さんからチョコレートを貰えるイベント、という気持ちでいた。自分に対して、特別な感情を抱いてくれている人間が、特別なチョコレートをくれるだなんて、微塵も思っていなかった。 けれど、机に入っていたのだ。明らかにいわゆる「義理」ではなさそうなチョコレートが。 「…怒ってますか」 さんは嫉妬深い方だと思う。それも、かなり。 「どうして怒るの?」 「…えっ、いや…その…」 「確かに私と怜は付き合ってるけど、付き合ってる人以外からチョコを貰ったらいけない、なんて決まりはないし」 「そ…それはそうです、けど…?」 「それとも、これって浮気の証拠品だった?」 「なっ、ちがいます!絶対にそんなことはありえませんから!僕が好きなのはさんだけです!…ただ、その…こういうのは、本当はちゃんとお断りしないと、さんにも相手にも失礼なのかな、と…」 「彼女の私が言ったところで上から目線みたいだけど、彼女持ちの人間に、叶わなくてもせめてチョコレートくらい、っていう気持ちは健気だし…踏みにじったらいけないと思う」 「さん…」 「それに、怜は優しいでしょ?断りにくかったでしょうし」 「……でも…」 「それとも『叶わなくてもいいから渡したい』じゃなくて、望みがあると思って渡されたチョコ?今の彼女への宣戦布告?それなら、少し怒るけど」 「えっ!?い、いや、そういうわけでもなさそうなんですが…」 突き返すこともできず複雑な気持ちで鞄に入れたそのチョコレート。さんに見つかった時、怒るか、悲しむか、分からないけどとりあえず見つかってはいけないものだった、と自分の迂闊さを呪った。けれど意外にも彼女は怒っても悲しんでもいないし、それどころか「もらってあげて正解でしょ。もらってあげなきゃかわいそうでしょ」と言う。取り上げる形になっていたチョコレートを、「はい」と優しく僕に手渡す。受け取って、しばらく呆然とする。なんだか、絶対嫉妬するだろうと身構えた自分が自惚れみたいで恥ずかしい。嫉妬、してほしかったみたいじゃないか。 「なあに、怜。そんなに意外?他の女のチョコもらうなんて!って発狂するくらい私が心狭いと思った?」 「…い、いえ…思ってない、です…」 「そりゃあ、『彼女がいるのは分かってます!でも好きなの!振り向いてくれなくてもいいからせめて一度だけエッチしてください!』とか迫られたっていうなら話は別だけど」 「っ!?な、ないですよ!!そんな女の子いないでしょう、普通!」 「そう?私今頃怜が別の女の子と付き合ってたら、それくらい言ったと思う」 「…なっ…」 「だから、そのチョコレートを笑ったり、捨ててほしいなんて思ったりしない。もし何か違っていたら、今頃それを贈るのは私だったかもしれないし」 まっすぐに目を見ながらそう言われて、僕は言葉に詰まる。目が離せないほど、真剣だった。本気で、「何か道が違っていたら自分は今頃怜の恋人なんかじゃなかった」と、そう思うからなんだろう。胸が痛む。そんなふうに彼女が思ってしまうことが、彼女にそう思わせてしまうことが、つらい。僕にはもったいないくらいの恋人だ。本当にそう思っている。なのに、彼女のほうが自信が無いみたいに言うから、胸が痛むんだ。そんなわけがないのに。嫉妬してくれないのか、なんて少しでも疑った自分の浅はかさが恨めしい。やきもちをやかれるよりもはっきりと、この人がどれだけ自分のことが好きか分かってしまった。 「…さん、僕はさん以外のひとを、」 「怜、私のチョコ欲しい?」 「……へっ!?もちろんです!…と、いうか、貰えるものだと…自惚れてたんです、が…」 「そっか。じゃあ、目瞑って口開けてくれる?」 「……、…」 「怜?」 「あ、いや、ちょ…っと、待ってくださいね…」 普通、わくわくするものなのだとは思う。目ぇ瞑って、なんてかわいい恋人に言われたら、サプライズを期待してどきどきするものだ。あるいはいたずらを疑うのかもしれないけど、さんの「いたずら」は、こういう時だいたい、度が過ぎている。前に素直に従ったところ、目を瞑っている間に手錠を掛けられたことがあった。そのあと何をされたかなんて、いや、本当、口にできることじゃない。時間を稼いでどうにかやり過ごすみたいにしどろもどろになっている僕に、さんがもう一度「怜?」と呼んだ。名前を呼ぶだけ。けれどその名前の後にはおそらく、「言うとおりにしてくれないの?」と声に出さずとも続いている。 「わ…分かりました…、変なことは、しないですよね…?」 「しないよ」 変なことってたとえばどんなこと?くらいいつもは聞いてくるのに、それが無いというのがまた逆にあやしい気がする。「しないよ」と食い気味に即答したのもなんだか怖い。それでも逃げる術がないことは分かっているので、大きく息を吐いてから、目を瞑って、おそるおそる口を開ける。「もっとひらいて」と注意されるけど、その声が思ったより近くから聞こえてびくりと肩が跳ねた。目を閉じているから分からないけど、ぴったり体が密着するくらい近くにいるような気がする。それでも、まだ触れてはこない。だから余計に、身構えてどきどきしてしまう。言葉に従って、さっきより大きく口を開けた。すると、口の中に何かが放り込まれる。それがチョコレートだということはすぐに香りで分かった。なんてことはない、ただ焦らされただけで、「あーん」とチョコレートを与えられただけのようだった。ただ、口を閉じようとしたときにまだ名残惜しく口に残っていたさんの指を一緒に舐めてしまって、あ、と少し焦る。 「…さん、…チョコ…っ、む…んんっ」 口を閉じて大人しくゆっくり味わう暇なんてなかった。チョコレートとは違う、やわらかくて熱い舌が口内に入り込んでくる。捻じ込むように割り入って、唾液と共にぐちゃぐちゃに口の中を掻き回す。先に口の中にあったチョコレートがみるみる溶かされて、舌を絡めるとその甘さをお互いの舌に塗り込むようで、ぞわりと体が震える。甘い、このうえなく、あまい。いつもキスをすると頭の中がしびれるような、いやいっそ脳みそが溶けてしまうような感覚に陥るけれど、その「いつも」と比べようがないくらいに、きもちいい。きもちよすぎて、だめだ、これは。おかしくなる。 「…っふ、ぅ……っ、め…だめ、…って、さ…もう、い…っ」 肩に手を置いて口を離そうとしても、力が入らない。どころか、逆にぐっと体重をかけてきて押し倒される。僕の上に乗っかったまま、それでもなかなかキスをやめてくれない。頭がぼうっとして、体の力が抜けて、何も考えられなくなる。口の端から垂れた唾液がこの行為のはしたなさを物語っていたけれど、口に残る味も鼻をくすぐる香りも、あまったるいチョコレートのそれだけなせいで、ある意味どこかかわいらしい行為のようにも思える。全然、かわいらしくない、けど。やっとキスが止んだときには、さんもくったりと体の力を抜いて、倒れこむように僕の肩口に顔をうずめた。耳元で聞こえる息遣い。それにまじって、小さく、さんがつぶやいた。「…すき…、…」 「怜が私のことだけ好きなのもわかってる、…けど…怜のこと好きなのは、私だけじゃない…」 「…さん……」 「でも、いい…他の子のチョコ食べたっていい、他の子を、見たっていい、から…」 「…」 「だから、そのうえで…私のことえらんでほしい……好き、って…」 弱い力で、しがみつくみたいに抱きつくさんの顔は見えないのに、その表情がどれだけいとおしいかって、分かってしまう。さっきまで力の入らなかった体を奮い立たせて、ぎゅうっと腕の中に抱きしめる。ああ、自分以外の誰かを僕がそんな目で見たら、あなたはきっと気が狂うだろうに。本当、このひとは、強いかと思えば弱かったり、自信があるかと思えばなかったり、言葉が要らないかと思えば、求めたり。だけどそれら全部、僕がそうさせているのだと分かる。僕のことがこんなに好きでたまらないのだと、教えてくれる。 「…好きですよ。何回だって言います…、すきです。さん以外の誰かを、こんなに好きになれるわけないんです」 だってこんな気持ちは、あなたにだけだ。誰かの想いを突き放しても、傷つけても、あなた以外の誰かに向ける感情が、僕のなかを支配できるわけがない。(おねがいのつづき/180213) |