「紫苑くんには嘘がつけないね、きっと」
繋ごうと思って伸ばしかけた手を、ちょっと迷ってから引っ込めた。そこから口を開くのも言葉に迷って時間がかかったけれど、結局、声に出した。私の隣を歩いていた紫苑くんが、首を動かしてこちらを見る。ちょっと驚いたような、きょとんとかぽかんとか、そういう音の似合う表情で。
「だって、嘘ついてもすぐわかっちゃうでしょ」
「うーん……どうだろう」
優しく目を細め、口元は緩やかなカーブを描いている。だけど眉が下がって、苦笑い。困ってる顔だ。ついさっきまでにこにこと私に美味しいカルボナーラのアレンジレシピを教えてくれていた紫苑くんが、今は困った顔をしている。私が困らせている。
私たちは二人でただ公園を歩いていたところだ。突然、嘘がどうとかそんな話をされて戸惑っているに違いない。先週は二人で手を繋いで歩いた公園だ。私の知らない花の名前を紫苑くんが知っていて、それはほにゃららって名前の花だよって教えてくれた。なんていったか、どんな花だったか、ちゃんと覚えてない。花の正式な名前より、ただ紫苑くんと過ごしたという記憶だけが自分にはたぶん意味があった。名前なんてなんでもよかったし花なんてあんまり気にしてなかったのかもしれない。ただ会話のきっかけにしただけだったのかもしれない。先週の私。
「私ねえ、永遠の愛って信じてないんだよね。親は離婚してるし、祖父母は仲良くないし、周りの友達の付き合った別れたの報告を聞いてても……やっぱ人間って一人の相手を一生ずーっと同じ熱量で愛すことって出来ないんだろうなあって思うのね。冷めちゃうもんなんだろうなって思うの。だからね、私今紫苑くんのことが大好きだけど、いつか好きじゃなくなる日が来ちゃうんじゃないかなって。今日と同じくらいの好きって気持ちをずっとは維持できないんじゃないかなって。これは何が悪いとかじゃなくて、人間ってそういうふうにしか作られてないんじゃないかなって本気で思うの。それでも、人間って嘘吐いたり誤魔化したり妥協したりして誰かと一緒に生きる。でも紫苑くんってひとの気持ちの細かいところすぐ気づいちゃうでしょ。だから私がいつか紫苑くんのこと好きじゃなくなったときに、それでも嘘ついて好きだって言い続けても、紫苑くんってすぐ分かっちゃうんだと思う」
つらつらと喋り続ける私に、紫苑くんは相槌を挟まなかった。いつもは紫苑くんがなんでも隣で、あるいは向き合って目を見ながら、うん、うん、って相槌を打ってくれるけど、今はそれがなかった。やさしい相槌の声が好きで、私はよく喋りすぎてしまうのだけど、本当の私は、おしゃべりはどちらかといえば苦手で、余計なことを言ってしまってないかとかそういうのを気にしてしまう人間だ。紫苑くんといるときはあんまりそう気にしすぎることはなかったけど。
でも今、今は、たぶん、私はすごく余計なことを言ってしまっている。なんでそんなこと言うの、って紫苑くんに怒られたって仕方ないことを口にしている。自覚はある。こんなの失礼だ。好きで、好きだって言って、好きだって言ってくれて傍にいてくれる人間に向かって、「好きなのはきっと今だけでしょうね」って言ってる。ずっと好きなんて無理だ、と言ってる。ひどい話だ。本当に、ひどい。
「怒っていいよ、紫苑くん」
でも紫苑くんが怒らないのを知っている。怒れないのを知っている。怒るんじゃなくて、きっと彼は悲しむ。
私は顔を上げられないでいた。公園の地面をただ見ていた。きっと今紫苑くんは悲しそうな顔をしている。そんな気がする。困ったように下げられていた眉はきっともっと下がって、目元は悲しそうに細められて。私は紫苑くんが泣いているところを見たことがある。男の人でもそんなふうに泣くんだ、という気持ちが多少よぎってもおかしくはなかったかもしれないけど、紫苑くんの泣いているところを見てもそんなふうには思わなかった。彼の涙はいつだって、優しさからくるもので、こんなふうに言ってしまうと語弊があるかもしれないしへんな話だけど、私は紫苑くんの涙が好きだったから。いや、だからって、泣かそうとしてこんなことを言いだしたのではなくて、泣いてほしくなんかなくて。
「ねえ、ちゃん」
ふいに名前を呼んだその声は、悲しんでいる声ではなかった。泣きそうな声ではなかった。その声と一緒に、紫苑くんが私の手を取る。
「たしかに、ぼくは……うん、きみの心がわかっちゃうのかもしれない」
私の好きな、やさしくて穏やかな紫苑くんの声だ。私の手を、ぎゅっと握る。ぎゅ、と力はこめられるけど、痛いくらいではなくて、優しく。やさしいのに、ぎゅ、って。離さないよ、ここにいるよ、と伝えてくれるような手だった。
「嘘をついたらわかっちゃうっていうのは、逆に言えばね、嘘じゃないことを嘘じゃないって絶対信じてあげられるってことだと思うんだ」
「……うん」
「うん。だからね、大丈夫だよ」
「……」
「ありがとう、ちゃん。怖かったんだね。いつかぼくのことを好きじゃなくなる日がきて、それでぼくのことを傷つけてしまうかもしれない、って」
「…」
「先週の自分より、昨日の自分より、ぼくのことを好きでいられているのか、自信がなくなっていく気がして怖かったんじゃないかな。好きなはずなのに、そうじゃなかったらどうしよう、って。自分のことなのに、自分を信じてあげられなくなって」
「……うん」
「うん……大丈夫だよ。ぼくはきみの心を感じることができるから。きみが自分を信じてあげられなくなっても、ぼくはきみを信じるよ」
「……」
「ふふ……照れちゃうくらい、ちゃんはぼくのことが好きだってわかるんだ」
紫苑くん、ちっとも泣いていなかった。むしろ、そのセリフを言うときの紫苑くんは、幸せそうな笑顔だった。照れちゃうくらい、と彼のいったとおり、照れくさそうで、嬉しそうで。私はその顔を見ていると、じわじわ、じわじわと、こみあげてくるものがあった。
「……紫苑くん、はずかしくないの、それ、自分で言うの」
「うーん……照れちゃう、かな?恥ずかしいわけじゃないよ、とても嬉しいことだから」
「そうなの?私、なんか恥ずかしいよ、むずむずするよ、聞いてて」
「そうかな」
「うん」
「うん」
「……」
「うん。泣かないで、ちゃん」
気づいたら泣いていたのはこちらだった。紫苑くんの指が私にのばされて、目尻の涙をやさしく拭った。紫苑くんの手は、想像よりも大きくて、男の人の手だ。繋ぐたびいつも思ってたけど、今も改めて思った。顔を覗き込むように紫苑くんは少し体を傾けて、私の目尻に、頬に、やさしく触れる。
「ちゃん」
「ごめん、すぐなきやむから」
「ううん。ぼくの方こそごめん。やっぱり、泣かないでじゃなくて、泣いていいよ、に言い直すね」
「やだ」
「ふふっ、やだじゃないでしょ、ちゃんってば」
「やだよ」
「もう一個ごめん、ちゃん」
「なあに」
「本当はね、ぼく、ハンカチを持ってるけど出さなかったんだ」
直接ふれたかったから。そう言いながら、紫苑くんの指が私の肌を撫でる。布越しではない、あたたかさが触れ合う。彼の指が、雫のひとつひとつを追いかけるように拭う。直接涙に触りたいなんて、なにそれいじわるだ、へんたいだ、と可愛くないことを言おうと思ったのに、私の目からはぽろぽろともっともっと涙が零れる。もっともっとさわっていいよと言わんばかりに。
「紫苑くん」
「うん、なあに?ちゃん」
「私、紫苑くんのことが好きだよ」
「うん。ありがとう。ぼくもちゃんのことが好きだよ」
「でもいつか好きじゃなくなったらどうしよう、好きじゃなくなるのかもしれない、こんなこと考えてる時点で最低なんじゃないかって、おもうよ」
「どうして?ぼくはそう思わないよ。そんなふうに不安になるくらい、今のきみがぼくのことを好きでいてくれてるってことだから」
「今だけだったらどうするの」
「うーん……どうしようかな?わからないや」
「わかんないの?」
「うん。わからないままでいいよ。今わかることのほうが大事じゃないかな」
「そうなの?」
「そう。たとえば、そうだね……ちゃんがさっき手を繋ごうとしてやめたの、わかっちゃった。ぼくからお願いするから、繋いでくれる?」
そう言って紫苑くんは微笑む。お姫様に手を差し伸べる王子様みたいに見えるのに、こてんと首を傾げられると途端に私のよく知る可愛い男の子になった。私たちは手と手を重ねて、指を絡めて、また公園を歩きだす。視界の端で揺れている花の名前は思い出せなかったけど、先週の私よりも今の私のほうが紫苑くんのことを好きだと思った。