レイニーレイニー

 雨は嫌いだった。昔から。
 それでも、人生でこんなにも雨を憎んだことはないと思う。いや今までもたくさん雨の日を憎んだ経験はあったと思うけど、今日以上は絶対に無いと思う。雨に濡れたせいで色の変わった服を見下ろして、見下ろすというか睨んで、そう思った。
 いや、これって雨のせいっていうか自分がどんくさいだけなんですけどでも雨のせいにしないとやってらんないっていうか。言ってしまえば、雨の中、急いで待ち合わせ場所に向かっていたら転んで地面にべしゃり!だったんですけど。

「さいあくだ」

 雨に濡れた、というか、雨の中転んだせいで濡れた&汚れた自分の服は、お気に入りのワンピースだった。転んだ拍子に手から離れてしまった水玉柄の傘を拾い上げる。もうその頃にはふつふつと負の感情に支配されてきて、髪や体が濡れるのもお構いなしに、しばらくせっかく拾った傘をさせずにいた。
 それでも、やがてハッと我に返る。いけない、こんな、バッドな感情に浸って思考停止している場合ではない。そもそも私は急いでいたはずだ。時間に遅れるといけないと思って、急いで。鞄も軽く土を払って、スマートフォンを取り出す。時間を見て、唇をへの字に曲げる。今向かえば間に合う。今、このまま向かえば。

 道行く人たちが、私を見て何かひそひそ囁いた気がした。気の毒そうに視線を注がれた気がした。だって今の私、いかにも濡れ鼠といった見た目をしている。

『ごめん、本当にごめんなさい、少し遅れます、ごめん』

 そんなメッセージを送って、はあ~っと盛大な溜息を吐く。私は今から家に引き帰して、この汚れてしまった、この日のために選んだワンピースを着替えなければならない。ただでさえ遅れるのだから走って帰るべきなのに、ぬかるんだ足があんまりにも重くて、ただとぼとぼと歩くことしかできなかった。最低だ。
 お気に入りのワンピースなんて着るべきではなかったんだ。こんな雨の日に出掛ける予定なんて入れるべきではなかったんだ。――そんな言葉、全部全部、聞きたくない。頭に掠めたくもない。そんなことを思うこと自体、さいあく、だ。

「……紫苑くんのお誕生日なのに」

 その、特別な日なのだから。雨が降っていようが、幸せな一日になると思った。多少うまくいかなかろうが、落ち込んではいられないと思った。「だって紫苑くんのお誕生日だから」と、その理由だけで。
 だから、こうやって、転んでしまっても、ぐしゃぐしゃのべしゃべしゃになっても、全部うまくいかなくても、良い一日にしなくちゃ、ならなくちゃ、なのに。
 傘を持っているせいで片手が塞がる、その不自由ささえ煩わしい。雨なんて嫌いだ。朝からテンションが下がりそうな一日を、どうにか、「いや紫苑くんのお誕生日だぞ!」と奮い立たせていたのに。とぼとぼ、一歩ずつ足をすすめるたびに、みじめな気持ちになってくる。雨に濡れたときって、本当に本当に、自分がみじめな生き物に思えるから、嫌いだ。ああ、いやだなあ。
 さいあくな一日だ、なんて、思ってしまいそうになる自分が最低だ。思いたくない、そんなことを。

「……ちゃん? ちゃん!」

 背後から聞こえた声に、自分の目が見開かれる。思わず振り返った先に、本日の主役、ともいえるその人がいた。雨の中、傘をさして。

「え、し、紫苑くん、なんで」
「メッセージの返答が無いし、電話しても出なかったから心配で……ちゃんのお家に行ってみようかなって思って……待ち合わせ場所の近くまで来てたんだね」
「え、えっ、えあ~……ご、ごめん……」
「ううん。すれ違いにならなくてよかった。えっと……お家に帰るところ、だったのかな?何か忘れ……」

 紫苑くんの言葉がぴたりと止まる。私の頭のてっぺんから爪先を見て、「ちゃん、もしかして転んだの!?怪我はしてない?大丈夫?」と、弾かれたように私に駆け寄って、ハンカチを取り出す。片手で傘をさして、もう片方の手で差し出してきたハンカチ。それで私の濡れた髪を拭こうとして、そこが私の限界点だったらしく、

「ごめえぇん……」

 と、なんとも情けない声で泣いた。紫苑くんがびっくりした顔のあと、困ったように眉を下げて、小さい子どもに言うように「大丈夫だよ。よしよし、がんばったね、寒かったね、痛かったね」とあやして私の頭を撫でた。本当にこども扱いかもしれない。

「お家に帰って着替え……ううん、お風呂に入ってあったまったほうがいいと思うな。今、帰るところだったんだよね?ぼくも一緒にお家に行ってもいい?」
「でも……お出かけの約束してたのに……」
「それは……また今度改めて、」
「紫苑くんのお誕生日なのに」

 紫苑くんのお誕生日だから、一緒におでかけしたかった。一緒に特別な、幸せな日にしたかった。良い一日にしたかったの。雨でも、紫苑くんのお誕生日だからそんなの気にならないくらい素敵な一日だ、って、言いたかったの。
 ぐすぐす時折泣きじゃくりながら、そう話した。今日は良い日だ、って、言いたいのに言えない自分が嫌で仕方ない。うまくいかなくて、もうやだ!って、もうさいあくな日だ!って、そんなこと紫苑くんのお誕生日に言いたくないのに。うまくいかない。
 紫苑くんは私の言葉を聞いて、困ったような、でもやさしい表情を浮かべる。目を細めて、うん、そっか、うん、って頷いて、

「ありがとう。ちゃん」

 って、そう言った。「なんにも私してない、なんにもありがとうじゃないよ、ごめんね紫苑くん」
 私の言葉に、やっぱり紫苑くんは困ったように、でもすこし嬉しそうに、微笑む。うれしそう、どころか、「うれしいよ」と言葉にもした。

「その気持ちが嬉しいから。ありがとう」
「……紫苑くん、でも、私、さっき転んだときプレゼントぐしゃってしたかもしれないし、ケーキ食べに行こうっておもってたから今おうちに帰ってもケーキないし……」
「うん、大丈夫。ぐしゃってなってても、ぼくはちゃんの用意してくれたプレゼント受け取りたいな。ケーキはまた今度一緒に食べに行こう?」
「……ご、ごめんねぇ……」

 謝ることしかできない私を見て、うーんと紫苑くんが考えるように首を傾げる。

「誕生日の人権限で、ひとつお願いしてもいい?」
「は……はい」
「用意してくれたプレゼントの他に、『おうちデート』がプレゼントに欲しいな」
「……はい」
「あとは、お風呂でぽかぽかにあたたまったちゃん」
「……、は、い」

 これは、深い意味はないんだろうけど。ちゃんとお風呂であったまろうねって子供みたいな扱いをされているだけなのかもしれないけど。なんとなく「ちゃんをプレゼントに欲しい」という言葉に、すこし落ち着かなかった。いつの間にかそうやって紫苑くんの言葉にドキドキときめくくらいには、心のぐしゃぐしゃが治っている。
 ねえちゃん、と優しい声は言う。私はきっとその声を聞いているだけで、いつも心のぐしゃぐしゃのしわがのばされていくのだと気付く。

「ぼくの誕生日、特別にしてくれてありがとう」
「……特別な日にしたかったのに、うまくできなかったんだよ。本当はもっと、紫苑くんにとってすてきないい日にするつもりで」
「ううん。ちゃんの中で、ぼくの誕生日が特別な日なんだなって感じられるのが嬉しいんだ」

 雨の日は嫌いだけど、雨の日でも、だって、紫苑くんの誕生日だから。

「もうすこし欲張りにプレゼントを頼んでもいい?」
「いくらでも」
「ふふ、ありがとう。これからも、ぼくの誕生日をちゃんの特別にしてほしいんだ。ぼくの誕生日、雨だったね、とか……転んじゃって大変だったよね、も、思い出話になるかな。そんなふうになったらいいなって思う」
「これからもずっと特別だよ」
「よかった、うれしいな」
「これからもずっと好きだよ」

 何度目かの「ありがとう」を、紫苑くんが口にする。続けて、遅すぎる「お誕生日おめでとう」を私が伝えれば、またまた何度目かの「ありがとう」が返ってくる。今すぐ紫苑くんを抱きしめたくなる。手を繋ぐのにもキスをするのにも何をするのにもやっぱり傘が邪魔だなって思って、ああやっぱり、雨は嫌いで。でも、今日は特別だった。