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「秋声くん、秋声くん」 これからよろしくね、と満面の笑みで僕に手を差し出した彼女を覚えている。僕が、これから始まるであろう厄介事に頭を痛めているのなんてお構いなしに、笑っていた。まるで楽しいことの始まりを告げるかのようなご挨拶だった。どうしてこの人はこんなに笑顔なのか。妙にわくわくしているように見えた。僕のことなんかも、きらきらとした目で、まっすぐに見つめて。もしかしたら本当にこれから始まるのは何か楽しい日々なのかもしれないと錯覚させるような。いやいやそんな筈がない。僕はその瞬間に理解したのだ。恐らく、一番厄介なのはこの人だろうな、と。 「秋声!秋声!」 ああもう今日も今日とてうるさいったらありゃしない。僕の名前をやかましく呼んでいる彼女は、すっかり定位置になっている執務机で、書き損じた書類をぐしゃぐしゃに丸めていた。昨日は紙飛行機にして飛ばしていたので叱った。書類の作成を手伝ってほしいと頼まれたけど、彼女が苦戦しているそれは彼女本人以外が書いてはいけないことになっている重要な報告書だ。無理だと断ると口を尖らせた。仕方なく、大きな溜息を吐いてから、それ以外で手伝えることは手伝ってあげるよと救いの手を差し伸べてやる。するところっと表情を変えて、ありがとう、さすが秋声!秋声先生!と手を叩いた。呆れて肩を竦める。だけど少しだけ口元が緩みそうになった。 「…秋声、あの、秋声」 ああ、ああ、うるさい!もう放っておいてくれよ!僕が声を荒らげると、彼女は今まで見せたことのない、怯えた表情をした。いつだってへらへらと笑っている彼女が。馬鹿みたいに明るくて前向きで、いつだって僕を、僕の心を、在り方を、引っ掻き回すようなあの子が。指をもじもじとさせながら、俯いて、でも、だけど秋声、ごめん、すぐなおしてあげるから、なんて震えた声で言った。そんな様子すらなぜだか今の僕には無性に腹が立って、また酷い言葉を吐いた。本当は僕の失敗を笑いたいんだろう、笑えばいいじゃないか、いつもみたいに!けらけらと、おかしくってたまらないみたいに!どうせ君だって本心では僕のことなんかどうでもいいんだろう。僕の才能の無さを笑っているんだ!ぼろぼろになった僕を見て、格好悪いなって、だけどお前にはお似合いだって、お前なんて、と笑うんだろ!なんなんだよ、いつもそうだ、いつも君は僕の目の前で笑っている。そんな笑顔が眩しくって、僕は太陽に焼かれるような気持ちになって、いつも目を背けてしまいたくなる。そう思ってしまう自分すら、嫌になるんだ。ああ、そうか、彼女のあの表情は、怯えているんじゃなくって、傷ついていたのかもしれない。 「秋声…!」 この前のことを謝っただけじゃないか。なんでそんな、感激しきったように見つめるんだ。あの時は僕も少し気が立っていて、というか戦いのせいで穢れきって正常な精神状態じゃなかったわけだから、僕が悪いっていうより、ああいや、謝るべきだと思って謝ったんだから、ごちゃごちゃと言うのは止めよう。とにかく僕は謝ったんだ。視線を微妙に逸らしながらだけど。彼女はぶんぶんと大げさに首を横に振って、怒ってないよ、とか、秋声が謝ることじゃないよ、とか、自分こそごめん、なんて言ったあと、いつものように笑った。じゃあまた今日からよろしく、と。この前の一件で僕と気まずくなってから、彼女は司書業務の助手を別の人間に任せていた。よりにもよってその代役が鏡花だったのが迷惑な話だ。今朝もさんざん小言を言われた。…ああ、けれど、助手としての働きは、さぞ僕より優秀だったことだろう。「助手なら、僕なんかより鏡花のままの方がいいんじゃないか」と言ったところ、今度も首を横に振られた。ああ、へえ、そう、そうなんだ、と口元をそれとなく隠しながら相槌を打った。 「…、…っ…うぅ……っく…」 だだっ広い図書館の隅っこ、本当に隅、たくさんの本の塔に隠れるように、守られるように、膝を抱えてうずくまっている彼女を見つけた。僕の足音に気づいていないのか、気づいていても顔を上げないのか分からないが、僕がすぐそばに立って見下ろしても、泣くのをやめなかった。泣き声と呼んでいいのだろうか。押し殺したようなその声を、僕はなんだか、不思議な気持ちで聞いていた。どうして彼女が泣いているのかなんて分からなかった。だけど、驚くこともなかった。君でも泣くんだな、なんて思ったわけじゃなかった。だって僕は、彼女が泣いている理由を知らないけど、いつもいつも笑っている理由だって分からなかったから。もしかしたら本当の彼女はこっちで、笑っている普段のほうが偽物で、作り物で、嘘っぱちだったのかもしれない。僕が怒鳴ったあの日だって、僕の知らないところでこうやって泣いていたのかもしれない。そんなの分からない。ただの僕の想像だ。 「なんで呼ばないんだよ」 僕の名前を。いつだって、うるさいくらいに呼んでいるくせに。どうしてこういうときには、呼ばないんだ。いつもあんなに、ちょっとしたことでもすぐ僕を呼んで、秋声、ねえ秋声、って、無茶を言ったり、笑ったり、するじゃないか。それなのに。 「呼べばいいじゃないか。…僕を呼んでくれよ。泣きたくなったときに」 いつもみたいに笑って。僕のことが必要だと言えばいい。必要としてくれているんだと、教えてほしい。誰が僕を、僕の書いたものを、僕の存在を、評価しなくても忘れ去っても、君さえ僕の名前を呼んでくれたのなら、ここに存在することができるんだ。僕はその場に膝をついて、彼女の肩に手を伸ばす。触れた直後に、彼女は顔を上げた。真っ赤になった目は未だ涙を流し続けるけれど、それでも僕のことを真っ直ぐに見つめてくる。いつもの笑顔を見たいはずなのに、僕はその泣き顔の方が、よっぽどいつもよりまっすぐに見つめ返すことが出来ていた。 秋声、と彼女の唇が動く。ああ、僕はこんな時に呼ぶに相応しい、君の名前すら分からないのか。 |