海を、見ていただけだったの。
主はそう言って俺の腕の中でうっすらと瞼を持ち上げた。か細い声で俺の名前を呼ぶので、その手を握る。主の手も、髪も、体もびしょぬれで、俺の体だってそうだった。ぜえ、ぜえ、くるしい息を吐く。くるしかった。海に潜った直後だからじゃない。ただくるしかった。
「ごめん……なさい……そんな顔、しないで……」
「なぜだ、あるじ……何故、」
「ちよがねまる…」
「なぜ、そう、いつも……」
「…ごめんねえ」
主が泳げないことを知っていた。だから、気を付けるんだぞ、と言ったんだ。主は俺に「海が見たい」と言ったから。このところ主はぼんやりすることが多かった。その「ぼんやり」は、「のんびり」という穏やかなものとは少し違っていて。俺は少し胸の内がざわざわするのを自覚しながらも、笑って見守っていた。海は綺麗だ。どこまでも透き通った色をしていた。それを見て主の気持ちが穏やかなものになればいいと思った。なのに。
「生きると言っただろう、主。死んだら、俺が悲しむからと。俺が悲しむうちは、死なないと」
なのに、なぜ、海に入った?なぜ、俺が目を離したすきに、俺から逃げるように、その海の中に消えようとした?約束を忘れたのか?俺がもう悲しまないように見えたのか?何が足りないのだろう。どうして俺は、お前を引き留めるほどの「何か」になれないのだろう。主を探して夢中で海の中を潜ったとき、俺はおそろしくて、悲しくて、たまらなかった。この綺麗な海が、主をつれていってしまうのだと思ったら、何もかもが恐ろしかった。
「ごめん……」
「主、もうやめてくれ、こんなことは」
「わたし……あなたにそんな顔、させてばっかりだねえ…」
「主」
「うそじゃないの……あなたにそんな顔させるたび、ああ、死ねないわっておもうの…」
「…主」
「でも、そう思うくせに、ほんとうに、死ねないっていうくせに、またすぐ消えたくなる自分がきらいで、だから…」
「もういい、もういいさ、主」
死にたがらない、という約束を破ってしまう自分がきらいだから、堪えられないくらい嫌いだから、消えたいと望んでしまうのか。そんなの、元も子もない、堂々巡りで、いいや八方ふさがりで、そんなの、そんなの。
俺はくったりとしている主の体を強く抱きしめる。千代金丸、と名前を呼ばれる。耳元で、弱々しい微かな声。今にも命の灯が消えてしまいそうな、声。人工呼吸の必要はもうないのに、俺はその唇を塞いだ。酸素を分け与えることができるのなら、いくらでも。命を分け与えることができるのなら、いくらでも。どうせ主に貰ったこの姿だ、今の俺の命はこれだけだ。どうにか持っているこれだけなんだ。
「生きてさえいてくれればいいんだ、主……お前が生きているだけで、俺は……」
その願いがどれだけお前をくるしめるのか俺にはわからない。わかってしまいたくなかった。ただの刀であったときも、今でも、わかってしまったら俺は、主を生かすことができなくなる。ほとんど自分に言い聞かせるようだった。生きてさえいればいい。いいはずなんだ。きっと。そう言ってほしかった。
死にぞこないの生きぞこない