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「あい?本物の海を見たことないって?生まれて、一回も?」 うひゃー、と目をぱちくりさせる北谷菜切の反応に、主が恥ずかしそうに肩を縮こませた。小さな手が、横で何の気なしにその会話を耳に入れていた俺の服をくいと引っ張って、「なあ、聞いた?」と話に混ぜてくる。きいた、きいた、と俺は頷いて笑い、主は今度は俺のほうを見て、顔を赤くしていた。ヒトのかたちになったばかりの俺たちが、主の人生に驚くのもなんだかおかしい話だ。 「北谷菜切。主のような人間も、主の時代では珍しくないんだと。資料で情報としては知っていても、海の近くに住んでるわけでもなければ、泳ぎに海へ入る習慣はまずないらしいさー」 だから、そんなに恥ずかしそうな顔をしなくてもいいのに。恥ずかしいことではないのに。主は俺の言葉に赤い顔のまま苦笑している。北谷菜切がなるほどなるほどと頷いて、やがて手をたたき、「じゃあ、そのうち一緒にいこうよー」と笑う。主はぎこちなく、眉の下がったまま微笑して応える。俺たちの主は、やけにおとなしい女だった。へんに俺たちに遠慮するし、顔色をすぐ赤くも、青くも、白くもする。 「きっとびっくりするさー。あんなに綺麗なんだから」 上機嫌に北谷菜切が言う。「そうだなあ」と俺も続けた。俺たちの頭にあるのは、二人とも、きっと同じ光景だ。同じ、まぶしい海。琉球の太陽と海。さんさんとまぶしい太陽の下に、ひょろひょろとした主はあまり、似合わないけれど。きっと気に入るはずだ、と確信した様子の北谷菜切に水を差すのは悪いと思って、俺は「主には似合わないな」とは言わない。けれど、主のほうが小さく、「私は、ちょっと…」ともごもご言う。泳ぎは苦手か?と少し茶化そうかと思ったとき、俯いた主の絞り出した声に、俺は何も言えなくなる。 「ちょっとだけ、海がこわいです。きっと、眩しくって。知らないままでいたほうが、ちっぽけな自分には、いいんだと思うんです」 北谷菜切は、主のほうを振り返らなかった。聞こえていないのかもしれない。けれど、俺には聞こえていた。自分でつぶやいてから、ハッとした顔をして主が俺の顔を見上げた。すみません、と焦った声で唱えて、俺から目を離す。ああ、たまに主は、そういう反応をする。俺たち、刀が、何か脅すわけでもないのに、そうやって。少し、わかったような気がする。何か、ちいさく気づいてしまった。主、きっと主は、臆病だな。俺より、誰より。 「俺たちのことも、こわいか?主」 戦いも、その道具も、ちっぽけな主には、恐ろしいか。海よりずっと、先が見えなくて、底が知れなくて、この世のものとは思えないうそっぱちみたいな眩しさで目を灼いて。主が俺をこわごわと見上げてくる。北谷菜切が視界の端で、かなしそうな顔をしていた。どうか怖がらないでやってくれないか。こいつのことだけは。きっと優しいはずなんだ。あの海も、俺たちの在り方も。 //海には聞こえない
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