ちゃーん!一緒に教室戻ろうー?」

中庭のベンチに腰掛ける彼女に、春輝が声を掛けたのはきっと偶然だった。

01:指先にとまる春色


その日はとても天気がよくて、太陽がぽかぽかしていて、春輝、龍也、林檎の三人で「お昼は中庭で食べよう」という話になったのだ。他愛もない話をして、各々昼食を食べ終わって、さあ教室に帰るぞと龍也達が立ち上がるも、なかなか春輝は立ち上がろうとしない。「ちょっと待って。今、何かいいメロディーが浮かびそうなんだ!もうちょっとここに座ってる」と言いながらふにゃりと笑う春輝に、「ああまた始まった」と龍也は肩を竦める。春輝がそう言うなら自分ももう少し残ってく、と腰を下ろしかけた林檎をすかさず引っ張りあげて、「次の授業の発表お前がトップバッターだろ!遅れたら洒落になんねーぞ!」と龍也は引きずるようにその場から林檎を遠ざける。お前も遅れんじゃねーぞ、と振り返らずに春輝に告げて。春輝はそんな二人に手を振り、完全に背中が見えなくなる頃、目を閉じて耳を澄ませる。風の音、草の匂いを肌で感じながら、それらに混じって自分の頭に響いたメロディーを口ずさんだ。やっぱり外でご飯食べて正解だったな、と自然と笑みが溢れる。しばらくして、今浮かんだ音楽を譜面におこして早く龍也に歌ってもらいたい、と立ち上がった。そのまま教室に向かってもよかったのだが、ふいに春輝は人の気配を感じて辺りをきょろきょろと見回す。(気のせい?いや、でも、ううん?)ふらふらと周辺を歩きまわって、ようやく、人影を見つける。その人物を見て、あ!と思わず声をあげた。

ちゃーん!」

まともに喋ったことはないけれど、彼女の下の名前だけは覚えていた。許可もなく「ちゃん」と呼ぶのは如何なものかと少し心配だったけど、この際思い切ってみてもいいだろう。ベンチに座る彼女へ駆け寄る。教室では常に一人で行動していて目立たない、いや、ある意味とっても目立つ子だ。何故かって、いつもいつも彼女はずっしりと存在感のある黒のヘッドフォンを身に着けている。肌身離さず。朝も、休み時間も、放課後も、いつもそのヘッドフォンで耳を覆っていた。春輝と同じ作曲家志望だったし、喋りかける機会は無かったわけではないけれど、その「ヘッドフォン」こそ、周囲が彼女に話しかけづらい理由だった。そもそも、ヘッドフォンというのはどうも「周りの音を遮断したい」という風に見えてしまうから。自分の聴いている音楽に集中したいのかもしれない、と春輝も、その他のクラスメートも、声をかけるのをなんとなく躊躇っていた。だから成り行きで思わず声を掛けてしまった春輝も、すぐにはたと気付く。自分の声は聞こえていないんじゃないかと。彼女が耳元で音楽に聴き入っているのなら、多分自分の声は届かない。そう思った。しかし、は春輝が声を掛けた直後顔を上げて、首を動かした。目が合って、春輝は少しほっとする。

「次の授業、演奏発表だったよね。準備もあるし、早めに戻ったほうがいいかも。ね、せっかくだから一緒に戻らない?」
「……」

視線だけは春輝に向けつつも、は口を開こうとはしなかった。耳に掛けたヘッドフォンを外す気配もない。聞こえてないんだろうか、少し大きめの声で話したつもりだったけれど。そう思った春輝が今度はもっともっと大きな声で喋ろうと身を乗り出した直後、「聞こえてる」と小さな返事が聞こえた。ぽかんと春輝が口を開けたまま、彼女の顔を覗き込む。は眉一つ動かさずに、春輝の瞳を見返した。しばしの沈黙。ぱちぱちとまばたきを繰り返して、それから、何を思ったか春輝はの隣にひょいと腰を下ろした。それに文句を言うわけでもなく、はさりげなく、少しだけ横にずれる。

ちゃん、いつもここで一人でご飯食べてるの?」
「……」

こくりと首が縦にうなずかれる。もちろん同時に頭に被ったヘッドフォンも。春輝はそのヘッドフォンのコードの先を目で追う。彼女の制服のポケットにつながっていた。もっと追えば何か小型の音楽プレーヤーにでも繋がっているのだろう。しかしヘッドフォンを掛けていても会話が成立するということは、よっぽど小音量で音楽を聴いているのかもしれない。

「よかったら今度僕らとご飯食べない?…あ、男の子の中に一人だけ女の子は、ちょっと嫌かな?」
「……」
「いつも僕と龍也とリンちゃんでご飯食べてるんだ。えーと、リンちゃんっていうのは月宮林檎ちゃんのことで、龍也っていうのは…」
「日向龍也さん」
「そうそう!それで僕、…あ!僕のことは春輝って呼んでね。春に輝くって書いて、春輝だよ」
「知ってる」
「そっか、よかった。それでー…あ、ねえ、ちゃんの苗字ってなんだっけ」

「そう!あーすっきりした。ちゃんだ。でも僕、ちゃんって呼びたいな。呼んでてもいい?」
「べつにいい」
「ありがとう!それでー…えっと…」
「……」

ぺらぺらと次々に話題が飛び出す春輝の喋りにも身じろぎ一つせず、動じない。ただ時々一言二言、ぼそり、ぼそりと返事をするだけ。さりげなく春輝の「一緒に戻ろう」や「一緒に御飯食べない?」には返事をしないあたり、自分の答えたい質問にしか答えていないのかもしれない。しかし返事を貰っていないことを全く気にしていない、もしくは気づいていない春輝も春輝だが。相変わらずヘッドフォンを外さないを、春輝は横目で見る。そして、思い出したように「そういえば」と手をたたく。

「いつもそのヘッドフォン付けてるね。お気に入りなの?」
「べつに」
「違うの?」
「違わなくもない」
「あはは、そっか。いっつも何聴いてるの?」
「何も」
「…へっ?」
「何も聞いてない」

ぼつりぽつりと短く返ってくる返事に、今度ばかりは春輝も耳を疑う。頭にはてなマークを浮かべながら、目をまたたかせた。ぽかーんとして、しばらく沈黙が続き、はっと思いついたようにの隣へ距離を詰める。それから、耳を傾ける。のヘッドフォンへぴったりと張り付くように。なんの音漏れもない。急に距離を詰められたことにもは特に動じず、のそのそとポケットから音楽プレーヤーを取り出し、春輝へすっと差し出した。通常なら液晶画面に演奏トラックや演奏時間が映し出されるはずのソレは、なんの文字も浮かべていない。完全に仕事を放棄している。確かに何の音楽も聴いていないらしかった。の手元から視線を外して、春輝は彼女の顔を見る。さっきよりずっとずっと近い距離にあるその顔は、相変わらずの無表情だった。

「じゃあどうして、いっつもヘッドフォンつけてるの?」
「べつに」
「あんまり意味ないの?」
「……」

なくもない、とは言わなかった。ただ、が少しだけ視線を下げて、「蓋をしてる」と呟いた。最初は意味が分からなくて、首を傾げたけれど。確かに、「蓋」みたいだった。その真っ黒なヘッドフォンは。耳栓、というよりも、蓋を一枚、被せているような。少しだけさみしげに目を伏せるを、春輝は見ていた。目を離せなくなって、じっと見ていた。閉じこもりたい?他人の声を自分の世界に入れたくない?だけどそれなら、自分の耳元いっぱいに音楽を流せば、外の音なんか聞こえなくなるだろう。そうやって、他人の声を聞こえないようにして歩く人間を見たことがないわけじゃない。だけど彼女は、別の音で耳をいっぱいにして、外を遮断しているわけじゃない。別の音さえ耳に入れずに、ただ、一枚だけ壁を作って生活してる。聞こえないわけじゃない。聞かないわけじゃない。だけど、直接入って来られるのは拒んでる。

「直接人の声を聞くのは好きじゃない。べつに聞こえないわけじゃないから、これでいい。これくらいの距離が、音が、大きさが、落ち着く」

言いながら、ヘッドフォンをぎゅっと押さえつけるようにかぶり直す。一枚隔てて聞こえる音がちょうどいい、落ち着く。自分の声すらどれくらいの音量で相手に届いているかも分からないけれど、それでも、わからないほうが落ち着く。そう主張する彼女を見て、春輝はすぅっと目を細める。そうか。聞きたくないわけじゃないんだ。だけどなんの隔たりもなく、直接届く誰かの声は苦手なんだ。なるほど。春輝は気づかれないように、小さく微笑んだ。それだけ分かれば十分。良かった、外の音を遮断してる、なんて言いがかりだったな。もっと早く話しかければよかった!

「…? なに、この音…」

自分の耳元から流れ出した音に、は首を傾げる。見れば、春輝がポケットから出した自分の音楽プレーヤーとのヘッドフォンのコードを繋げていた。突然の彼の行動に眉を顰めていたのも最初のほんの数秒だけで、はハッと息を飲む。ヘッドフォンから流れてくるのは、聴いたこともない曲。だけど、自然と惹きつけられる、不思議な魅力があった。気づくと真剣にその曲に聞き入ってしまった。目を閉じて、聞こえる音にだけ耳を澄ませる。自然とその曲に合った情景が頭に浮かんで、その曲の世界に魅せられる。上手いとか、凄いとか、それ以上に、「好き」だと思った、この曲が。やげて音が止むと、ゆっくりと顔を上げて、目を開ける。するとその瞬間春輝の顔が映り込んで、びくりと身を引いた。

「どう?この曲、昨日の夜作ったばっかりなんだけど、とりあえず前半部分だけプレーヤーに入れてたんだ。まだ龍也にも聴かせてないやつ」
「……これ、あなたが?」
「春輝!」
「…春輝、が、作った曲?」
「うん。気に入った?」

目を輝かせる春輝に圧倒されて、気まずそうに視線を泳がせて、だけど最終的に、は大きく首を縦に振った。それにぱあっと笑顔を作り、「やったあ!」と声を上げる春輝。その無邪気な笑顔に、不思議と心臓が大きく跳ねる。はもごもごと口ごもりつつも、小さく、「その曲、すごく素敵だと思う」と呟いた。ありがとう、とはにかみ、春輝はベンチから立ち上がり、座っているの正面に移動する。向かい合って、「ねえ、ちゃん」と優しく名前を呼んだ。

「素敵な音が、素敵な声が、僕らの周りにはたっくさんあるよ。いろんな音楽を聞いて、いろんな人に出会わなくっちゃもったいないよ。僕、もっとちゃんに僕の曲を聞いてほしい!ちゃんにいろんなこと知ってほしい!」

ね!との手を取ったら、の頬が少しずつ朱に染まっていく。さっきまでの無表情とはまるで違う。人形に魔法をかけて、ひとになったみたい。そんなふうに、心が動いていく。何か言おうと思うけれど、はなんの言葉も浮かばなかった。いや、ただ申し訳程度に「ありがとう」という言葉は浮かんだけれど、なんだか少しここでお礼を言うのも変な感じがしたのだ。何のお礼かなんて、自分でもよく分からない。だから、唇を結んで、春輝を見つめ返す。小さく、こくりと頷いて。その直後、弾かれたように春輝が声をあげる。「あ、時間!」

「授業に遅れちゃう!急ごう、ちゃん」

わたわたと自分の荷物を持って、つられるようにもわたわたと自分の鞄を肩にかけて。荷物を全部持ったことを確認すると、春輝はの手を取って走りだす。

(あっ、ヘッドフォンが、)

慌てて走りだしたせいで、コードを鞄のどこかにひっかけたのかもしれない。ヘッドフォンが耳からずり落ちてしまう。地面に落ちないように慌てて押さえて、なんとか首に掛かったまま、走る。はっと、が目を瞠った。ヘッドフォン越しなんかじゃない、クリアな風の音。直接耳に流れ込んでくる、自然の奏でる生きた音楽。隣を走る春輝の息を吐く音。触れている指を意識して、徐々に自分の心臓が騒がしくなっていく、音。頭の中にはビックリマークやはてなマークが何個も何個も浮かぶのに、嫌だなんてちっとも思えなくて、はそのまま手を払わずに走り続ける。「ねえ、春輝っ」声を掛ければ、彼は「うん?」と振り返る。すぐそばにあるその表情を見て、ああまた、音がする。なんの音だろう?

「明日、みんなとご飯を食べてもいい?」

そんなことを訊いたのは生まれて初めてだった。断られたらどうしようという思いで、顔が熱くなる。声だって少し震えたかもしれない。だけど春輝はぱあっと笑顔を向けて、「もちろん!」と答えてくれた。もし今この時にBGMをつけるのならば、とびきり明るくてあったかいものがいい。この素敵な晴れた日にぴったりなもの。春輝もも、そんなことを考えて、教室までの道を走った。