音楽は、ふっと頭に浮かぶ。どこからか、流れこんでくる。それをぎゅっと自分の中にとじこめて、少しずつ形にする。自分の中に閉じ込めてある音を、優しくそっと放す作業。五線譜を滑るペンの動きは、多分私は他の人達から比べるとすごくゆっくりだ。でも、何時間、何日かかったって、私の頭の中のほとんどが音楽で占めているから、いいのだ。書いてる途中で忘れていくだの、手をすり抜けていくだのということはない。私は、空っぽだ。ただ音楽が流れている以外は、空っぽの人間。だけど、それでいい。空っぽだから音楽が生まれるんだって、そう思ってる。

―そう、思っていた。最近までは。私の身の回りに音が溢れ出す、前までは。

04:幸せに馴染む速度について



四人でご飯を食べるようになってから、しばらく経ったある日のことだった。

ー、どうしたの?もうお昼よー?」

昼休み時間になると必ず真っ先に声をかけてくれるりんちゃんが、今日は怪訝そうに私の席までやってくる。それもそのはずだ。私はお昼ごはんの準備をするのも忘れて、机の中をごそごそと漁っていた。チャイムが鳴ったのも気づかなかった。りんちゃんの声に反応して、すっと顔を上げる。りんちゃんは腰に手をあてて、「んー?」と不思議そうな声をもらしながら、首を傾けた。たいしたことじゃないから話すのを迷っていたら、お弁当箱を持った春輝が「リンちゃーん、ちゃーん」と私たちを呼ぶ。その後ろから、「早くメシ行くぞー」と龍也の声。

「ふたりとも、ちょっと待ってちょーだいっ!」
「りんちゃん。先に行ってて」
「えっ?」
「二人を待たせちゃうし、りんちゃんがご飯遅くなっちゃう」
「え、でも何か探してたんじゃないの?」
「え…うん」
「なら、一緒に探すわ」
「え?」

私が目をまたたくと、りんちゃんがキョトンとした表情を返す。「…なあに、驚くところかしら」ちょっとだけ頬を膨らませたりんちゃんに、私は慌てて首を振る。ちがう、違うけど。なんて言えばいいのか。言葉が出てこない私に、りんちゃんが「怒ってなんかないわよ」ってくすっと笑う。そんなやりとりしてたら、なかなか教室を出ようとしない私とりんちゃんを怪訝に思った春輝たちがなんだなんだと傍にやってくる。余計にちょっと、焦る。探しものしてるって言ったら、りんちゃんだけじゃなくて、他の二人も昼休み削ってしまいそう。心配していたら、案の定春輝が「何かあったの?」って微笑みながら訊いてくる。どきっとして、目を逸らした。(逸らす必要ないのに、なんとなく、申し訳なくて)

「スコアとかプリント入ってるファイル…見つからない」
「ええっ!すごく大事なものじゃない!」
「大変、探さなくっちゃね…どこか心当たりある?ちゃん」
「いつから無いんだ?どっか持ち歩いたのか?」
「う…、き、気づいたのは、さっき。多分、レコーディングルームでの実技授業のとき、あの部屋に置きっぱなしにした。多分そう。取ってくる。大丈夫。みんな、ごはんたべていい。先に」

右から左から質問が飛んできて、だらだらと冷や汗が浮かび、私は半ば逃げるように教室の出口へ向かう。べつに三人は、私が困るようなことを言ったわけでもないのに。変に焦り始める必要なんかないのに。何故か、落ち着かなくって、教室を後にした。嫌な気持ちなわけじゃなくて。ただ、ちょっと焦った。三人に心配されることが、なんとなく。

ちゃーん!」

後ろから聞こえた声にどきっとして振り返ろうとしたら、振り返るよりも先に隣に春輝がやってくる。びっくりして、まばたきを繰り返した。もしかして、って思ったら、春輝はにこっと笑って、「僕も一緒に行っていいかな?」って訊いた。背景に花でも浮かんでいそうな、ふわふわ柔らかい笑顔だ。私はそんな笑顔を見ていると、なんだかぼぼぼっと顔が熱くなって、心臓がどきどき音を立てる。さっきから焦っていたところに、余計に、追い打ち。私はぶんぶんっと首を振る。

「よ、よくない。春輝の休み時間が減る。私一人で行ける」
「ええ?これくらい大丈夫だよ」
「もうしわけないから、いい。りんちゃんと龍也も待ってる、し…」
「二人も一緒に来たそうだったけど」
「! な、なんで」
「あはは!やっぱり。ちゃんがだめって言うだろうなって思って、代表で僕だけにしてもらっちゃった」
「…春輝も。先にごはん食べてなきゃだめ」
「えっとね、実は僕もレコーディングルームに忘れ物しちゃったんだ。お気に入りのボールペン。だから一緒に行ってもいいよね?」

丸い瞳をこっちに向けて、いいよね、って小さく首を傾げる。そんなことを言われたら、断る理由は見当たらない。ちょっと視線を逸らしながら、「なら、しょうがないから、いい。一緒に取りに行く」って呟いたら、ありがとうって言って、春輝は改めて私の隣を歩く。休み時間中の廊下は、人がたくさんいてがやがやしていた。そんな中を、私と春輝、並んで歩く。

「でもちゃん、どうして僕らが一緒に探すの嫌がったの?見られたら嫌なものが入ってるとか?」
「…そういうわけじゃない。ただ、だって、三人の休み時間が、私のせいで削れるのが嫌なだけ」
「それだけ?」
「それだけ」

きょとんとした声。何か、おかしいことだったかな。ちょっと心配になって俯くけど、春輝はすぐに笑って、「そっかあ、それだけかぁ」って呟く。その声が妙に優しくって、本当、優しくって、なんだかくすぐったい。そうだ、この気持ち、さっきも感じた。三人に一斉にわっと心配されたときも、こんなふうに、くすぐったくって落ち着かなかった。かあ、ってなった。

「逆に、不思議だった。なんてことない小さいことなのに、りんちゃんも、龍也も、あんなふうに心配して、一緒に探すって言うから、びっくりして…」
「思わず大袈裟に遠慮して逃げて来ちゃった、ってところかな?」
「…ん」
「ふふ、そっか」
「だって……優しすぎる。なんでそこまで優しくするのかってくらい、優しすぎる。みんな」
「うん?」
「慣れない…」
「嫌だった?」
「…嬉しかった」
「なら、いいんだ。ゆっくり慣れていけばいいんじゃないかな」

一人でいることに、慣れ過ぎた。それが寂しいとか悲しいとか、思うこともしないくらいに。だから、優しくされると少し、びっくりする。なんで私に優しくするんだろうって。もったいないくらい、嬉しくなって、戸惑うんだ、きっと。目を細めて、見守るような視線を私に送る春輝。その視線が、やっぱりくすぐったい。びっくりしたといえば、そうだ、そもそも、あの日春輝が私に話しかけてきたのだって、今思い返しても…なんでなんだろう。ぼんやり考えながら、私はぽつりと呟く。

「りんちゃんが、」
「うん」
「最近、私のこと『ちゃん』じゃなくて『』って呼んでる」
「そうだね。二人ともすっごく仲良しだよね」
「…ん。なんだか放っとけない妹みたいだ、って。、って構ってくれる」
「うん、嬉しいんだね」
「嬉しい。龍也は…」
「龍也は?」
「よくわからない」
「えっ!龍也、すっごく優しいよ。頼り甲斐もあるし」
「わかってる。すごく優しくしてくれてる。けど、なんでか素直に受け取れない」
「うーん、なんでだろうねぇ」
「分からない。けど、ちゃんとお礼言えるようにしたい。仲良く出来て嬉しい」
「うんうん」
「私、最近いっぺんに嬉しい事が起こるから、困ってる」

ぽつぽつと話しながら、手元が落ち着かなくてもじもじと指先を擦り合わせた。春輝はきょとんと一瞬だけ固まって、それから、ぷって噴き出す。「なんだか幸せな悩み事だね、それって」そう言いながら、春輝は笑う。笑って、私の隣を歩く。ほら、これだって、私すごく嬉しい。困っちゃうくらいに、幸せだった。いっぺんに幸せがくるから、戸惑っちゃう。少し前まで、この廊下も一人で歩くのが当たり前だったのに。忘れ物なんか、一人で取りに行くのが当たり前だったのに。今は隣に春輝がいるし、「一緒に探そうか」って言ってくれる、心配してくれるりんちゃんと龍也だって私を待ってくれている。

「考えてみたら…さっきの」
「うん?」
「りんちゃんと龍也に、『自分で探せるからついてくるな!』って…言ったみたいになっちゃった」
「ん?うーん?」
「…嫌な気持ちにさせたかもしれない」
「そうかな?」

ちゃんとお礼言えるようになりたい、仲良く出来て嬉しい、なんて話したばかりなのに…、ってしゅんとしていた私に、春輝はふふって肩を揺らして笑う。嫌な気持ちにさせちゃったって落ち込む私に、ほんとにそうかな?って。私は顔を上げて、春輝をじぃっと見つめる。視線を絡ませて、はて、と首を傾けた。

「リンちゃんも龍也も、嫌な気持ちになんかなってないと思うな」
「そう、なの?」
ちゃん、もし僕が何か無くして困ってたら、一緒に探してくれる?」
「もちろん!…いっしょに探す」
「僕が『一人で探すから大丈夫だよ』って言ったら?」
「それでもさがす」
ちゃんの休み時間が減っちゃうから駄目!って言っても?」
「言っても、探す」
「ほら、やっぱり!」

何がやっぱり?って首を傾げて、すぐにはっとする。そうだ、りんちゃんたちと、一緒だ。きっと、変わらない。春輝が無くし物をしたら私が一緒に探してあげたいように、みんなも、そう思ってくれた。

「優しくされたら、なんで自分に?とか、相手が損しちゃわないかな?なんて、考えなくっていいんだよ。ありがとって言えば、大丈夫。言葉が少なくったって、嫌な気持ちにはならないよ。少なくとも、僕らの間では、そう。優しくされたって感じたとしたらそれは、理由なんかなく僕らみんな、したいからしてるんだ」

あの日、「素敵なものが僕らの周りにはたくさんあるよ」って話してくれた時みたいに、春輝はにこにこ笑って、私の手を引いてくれる。優しくされたら、戸惑わなくてもいい。まだちょっと慣れないかもしれないけれど、きっとそのうち、自然と笑って、ありがとって言えるようになる。なったら、いいと思う。本当に春輝はいろんなことを教えてくれるなあ。優しくしてくれる、なあ。

今、「ありがとう」って言っても、変に思われないかな。ちょっとタイミングおかしいかな。

迷いながらも小さく呟いたら、春輝はやっぱり笑顔のままだった。






「あ、おかえりー!二人とも。どう?忘れ物見つかった?」

屋上の扉を開けたらすぐに、りんちゃんが私と春輝に手をぶんぶん振ってくれた。龍也もおにぎりに齧り付きながら、顔を上げてこっちを見る。私の一歩前を歩いていた春輝はにこにこ笑いながら定位置である龍也の隣に向かうけれど、私は口を結んだまま最初の一歩を踏み出さずにいた。春輝の後ろ姿をじとーっと睨む。そんな私と春輝を見比べて、りんちゃんは首を傾げる。

「え、もしかして見つからなかったの!?」
「ううん?ちゃんとあったよ!ね、ちゃん」
「……でも春輝のボールペンは見つからなかった」
「ん?なんだ、春輝も忘れ物してたのか?」
「あはは…忘れたと思ったんだけど、ポケットに入ってたんだ!」
「……」
「ハルハル、もしかしてに無理やりついてくために嘘言ったんじゃ…」
「春輝ずるい」
「あはは」

笑って誤魔化されるけど、なんだかまだちょっと納得いかない。べつに、春輝についてこられるのが嫌だったわけではないし、優しくされたらありがとうって言えばいい、って分かったから、いいんだけど。いいんだけど、でも、騙されたのはちょっと、拗ねる。まったくもう、って、呆れる。むぅ、と口を尖らせながら、りんちゃんの隣にすとんと腰を下ろす。りんちゃんはくすくす笑って、「ハルハルには敵わないわよねぇ」って私に言う。ほんと、なんでだろう、敵わないよね。簡単に許せてしまうのは、なんでだろうね。やっぱり、敵わない。さて、とちょっと遅れて昼ごはんを食べようとしたとき、私はふっと違和感に気づく。いつもあるものがない、何か忘れているような感覚。きょろきょろと辺りを見渡して、あ、と気づく。

「……飲み物、買い忘れてた」
「あ。ここに来る途中に買ってくればよかったね。もっかい下りる?」
「う…い、いい…我慢する」
。ほれ」

しょんぼりと肩を落としていると、龍也が私を呼ぶ。なに、と顔を上げたら、ずいっと目の前に缶ジュースが差し出された。きょとんと目をまたたく。これは、どういう意味だろう。私にくれる、という意味?考えていたら、りんちゃんが私に小さい声で耳打ちしてくる。「がレコーディングルーム行く時にジュース持ってないの龍也が気づいてね、きっと買い忘れてるの気づいてないだろうからって、買っておいたのよ」って。私はびっくりして、ぴしっと背筋を伸ばして龍也を見る。その様子を、龍也が怪訝そうに見てきた。なに緊張したような顔してんだ、って。だって、ここだ、今だ、私がアレを言うタイミング。

「あ、ありがとう…。りんちゃんも、龍也も、さっき。心配してくれたから。ジュースもありがとう」
「あら、アタシにも?お礼なんかいいのよ。…でも、そうね、どういたしましてっ!」
「…おう。オレンジジュースでいいんだろ?」
「うん。好き。…待って、今お金返す」
「あー、いい」
「よくない」
「いいっつの」
「よくない」
って意外に頑固なのよねえ」
「だ、だって、龍也も頑固!」

頬に手を添えてしみじみ「頑固よねえ」って呟くりんちゃん。私、頑固だったのか。そんなこと、考えたこともなかった。なんだか恥ずかしくてかああっと顔を熱くする私に、春輝がくすくす笑い出す。もっともっと顔が熱くなる。ぱくぱく口を動かして何か言おうとするけれど、なんて言っていいのか分からない。こういうときなんて言えばいいんだろう。どうすればいいんだろう。――なんて、そう思っていると、いつも、「あははっ!そういうときはね、ちゃん」そう、こうやって、教えてくれる。

「今度代わりにジュース一本奢ってあげればいいんだよ。そうすればお返しになるよ」
「…なるほど」
「いいっつーの。これくらい」
「よくない。ぜったいにおごられさせてみせる」
「奢らされ…られ、え?」
「おごられさせら…おごれ、おごれら…」
「…ぷっ」
「!」
「あはははっ!」
「春輝が笑った、ひ、ひどい!」
「ははっ!ばーか」
「りゅーやまでわらった!ねえ、りんちゃんっ」
「あらあら。……ふふっ」
「今りんちゃんも笑った!」
「笑ってないわよん〜」
「うそ!わらった!」

むうっと頬をふくらませつつも、恥ずかしくって顔があついまま。口元を手でおさえながら、笑い出すりんちゃん。春輝の肩に手を置きながら、肩を震わせて笑う龍也。そんな龍也やりんちゃん、私を見回して、さらに笑う春輝。むうってしてたのに、なんだか全然怒れなくなっちゃって、私もちょっとだけ笑った。楽しいって思った。もっともっと楽しいこと、知りたいって思った。楽しすぎて、嬉しすぎて、困っちゃうくらいに。