![]() 「まだ掛かるよー」 「え。こんなにいい匂いしてきてるのに、まだ掛かるのか?」 「掛かるってば」 キッチン中に漂う焼き菓子の匂い。この匂いは私も好き。テーブルに肘を付いていた一樹が首を捻り、匂いの出処のオーブンを見た。銀色のケーキの型がゆっくり、くるくるとその中を回っている。型のてっぺんから生地が顔を出してはいないので、「ちゃんと膨らんでるのかな」と私は少し不安になった。いや、でもまだ、時間掛かるし。まだ膨らんでないってだけで、オーブンがピピッと鳴る頃には、膨らんでいる、かも、しれないし…。必死に自分にそう言い聞かせている私なんかお構いなしに、一樹が子供みたいにわくわくした様子で眺めているものだから、なんだか少し笑ってしまう。それに気付いて一樹が視線をオーブンからこちらに移す。どうした、って訊くから、私は、なんでもないよって誤魔化して、流し台を振り返る。ケーキが焼き上がるまで、使った調理器具の後片付けをしておこう。デコレーション用のクリームも泡立てないといけないけど、ケーキが冷めるまでは塗れないし、後でもいいはず。 「お。焼いてる間に洗い物か。俺も手伝う」 「え?いいよ、一樹は」 「俺、ケーキ作り何も手伝ってないからな。洗い物くらいやらせろよ」 「いいです。だって絶対すぐ飽きるよ」 「あ、飽きる飽きないの問題じゃねーだろ」 「いーんです。一樹はケーキの監視してて。焼き上がりが近くなったら少し温度下げたいから」 「…わーったよ。俺はケーキと睨めっこしてますよ」 「お願いします」 大人しくなったのを見計らって、ちらりと振り返れば、椅子を移動させて本当にオーブンの目の前でじっと中を見つめている一樹の姿があった。思わずまた少し笑いそうになるけどなんとか堪えて、ケーキ作りに使ったボウルや泡だて器を洗い場に流していく。 べつに一樹の誕生日なわけでも、何かの記念日なわけでもなかった。棚にしまってあったお菓子作りの本をたまたま手に取ったときに、「ケーキかぁ…お前今から作れるか?食べたい」とかいきなり言い出したので、材料を買いに行った後、いきなり作っている。ほんと、いきなり。唐突。 「ねえ一樹」 「あー?」 「上手く膨らまなくて失敗してもがっかりしないでね」 「っはは、しねーよ。というか、失敗したときにへこむのはそっちじゃないか?俺は気にならない。へこむお前を慰めることはするかもしれないが、な」 「だって一樹…なんかすっごく出来上がりを楽しみにしてるじゃない?」 「そりゃ楽しみだろ」 「…はあ。なんか…これでぺしゃんこのケーキが出来上がったら申し訳ない」 「ほら、へこんだ。俺は気にしないんだから、申し訳無くないだろ。ケーキと一緒にお前までぺしゃんこになってどうすんだよ」 「うー、だって悔しいもん。失敗したケーキじゃなくて、成功したケーキを食べてほしいもん。一樹はいっつも唐突なんだから。今日じゃなくても良かったじゃない?今度作ってきて、とかさ。その方が絶対良かった!」 「あー、拗ねるなよ。だいたい、そう言ったらお前絶対、失敗作は隠蔽して、成功作が出来上がるまで俺に食わせないだろ」 「当たり前じゃん」 「それじゃあ意味が無い」 「えー」 がちゃがちゃと調理器具を洗う音。水が流れる音。オーブンの動いてる音。それに混ざり合う一樹の声、私の声。振り向きはしないから、今一樹がどんな表情をしているのかは分からないけれど、背後から聞こえてくるいつも通りの彼の声に、妙に心が落ち着いた。話の内容は、他愛もないものなのに。ふいに一樹が、「俺はさ」と話を切り出す。静かな声。いつもみたいに豪快に笑いながら話す声ではなかった。 「お前が俺のために作ってる所、見られて嬉しいんだ。なんか、貴重だろ?」 「…そうかな」 「飯作ってるの眺めるのもきっと新婚ごっこみたいで楽しいだろうけど…お菓子作りって、なんかこう、違うな。わくわくする」 「可愛いこと言うね。こどもみたい」 「ああ。俺のためにお菓子作ってるお前がすげー可愛い。可愛い彼女、って感じだ」 「……、……話が通じないよ」 すぐに、呆れたように、言えればよかったんだけど。一樹が茶化すような声じゃなく、本当に、心からそう思っているみたいにしみじみと「すげーかわいい」なんて言うから、私は咄嗟に反応できなくて、微妙に間を空けて「話が通じない」って文句を言った。ああなんでこの人はそんな恥ずかしい事を平気で言えちゃうんだろう。少し悔しい。「照れるな照れるな」って声が後ろから投げられる。照れてないよ、なんて強がりも言えなくて、私は黙った。すると、一樹は小さく、「俺、初めて知ったんだ」って呟いた。何が?って振り向いてやろうと思ったのに、今振り向いたら顔が赤いってバレてしまう、と思って、私は振り返らなかった。 「お前に手作りのお菓子を貰った事は今までにもあるが…出来上がった物を受け取って食べるだけじゃ、分からない事ってたくさんあるんだな。例えば…ほら、今キッチンいっぱいに広がってる、この匂い。まだかまだか!ってこっちの気持ちを急かしてくるが…なんか、いい。こういうの。幸せな匂いだ」 一樹の声が本当に幸せそうで、幸せそう過ぎて、大袈裟だよって言えない。大きく息を吸い込む音が聞こえたけれど、それはきっと、息、じゃなくて、その「幸せな匂い」を、胸いっぱいに吸い込んでいるのだと分かる。ほうっと息を吐いて、ああ、幸せだなって、またしみじみつぶやく。 「それにさ、こうも思う。俺がお前に…食べたい、作ってくれ、って言わなかったら、このケーキがこのオーブンの中に存在することは無かったんだ。こいつは、お前が俺のために焼いてくれたものだから。俺がいなかったら、ケーキは作られていない。な、そう思うと凄いことのような気がしてこないか?」 嬉しそうに、子供みたいに、笑う声。一樹が言うとなんだって、本当に、凄いことのように思えてしまう。頼まれたから、ただ作っただけなのに。特別お菓子作りが上手いわけでもないから、凄いものなんて作れないのに。不思議だ。一樹が言うと、なんだって、「そうだね」って思える。いつも正論振りかざして何処にだって突き進むような人だから、何故か、彼の言葉は信じたくなるんだ。そういうところ、たまにずるいなって思うけど。眩しすぎて。その正論が、たまに私には痛いくらい突き刺さって、いっそ暴力にだって思えるけれど。 私は考える。そうだ、そうだね、一樹に言われなかったら、私はこのケーキを作っていない。一樹がここにいなかったら、ケーキは存在していない。ただの粉と、卵と、バターと、それらそのままの状態で、それだけ。この部屋に、幸せな匂いなんて立ち込めていない。 一樹が、ここにいなかったら。 「…私、一樹がいなかったら…」 口にして、その続きが出てこなかった。ただ、気付かない内に私の手は止まっている。泡の付いた食器を手にしたまま、その泡を洗い流すことなく、呆然と固まった。蛇口から水が流れている。泡を落とすための水だ。それなのに、私はぷつりと何かが切れてしまったように、ぼんやり、その水が流れていく様子を見下ろし、立ち尽くす。 なんだか、とても恐ろしいことを口にしたような気がするし、とても恐ろしいことを考えたような気がする。ふいに、蛇口から水が流れる音だけがやけに大きく耳元で聞こえて、他の音がなんにも聞こえなくなった。そんな気になっただけかもしれない。けれど、恐ろしかった。もしも、私が振り返ったときに、オーブンが完全に沈黙していたら?本当はケーキなんてなくって、もしも、そこに、一樹がいなかったら?だって一樹がいなかったら、幸せな匂いなんてしていない。一樹がいなかったら、私、幸せになんかなれない。 「私、一樹がいなかったら、ここにいないかもしれないなぁ…」 ぽつん、と呟いた言葉が、自分の中に沁みこんで泣きたくなってしまうよりも早く、ふいに横から大きな手が視界に割り込んできて、キュッと蛇口から流れる水が止まった。それを合図に我に返り振り向こうとしたけれど、先回りの好きな一樹の腕が私をぎゅっと包み込む。ほぼ同時に、オーブンが約束の時間を告げた。 「……」 「…」 「……ねえ、一樹。私、焼き上がる直前、温度調節したいから呼んでって、言った」 「…あ。悪い、忘れてた…って、あのなあ」 「抱きしめられてたら、洗い物できないよ」 「手ぇ止めてたくせに生意気言うなよ」 「…もう」 「溜息吐きたいのは俺の方だよ、ったく…」 ばかだなあ。 ひっそりと耳元で呟かれた言葉に、私は、うん、そうだね、って心のなかで返事をする。一樹が言うのだから、その通りなのだと思う。だって、一樹はいつも正しいから。常に横にあるその正しさに、時々私は気が狂いそうになるけれど。 「…ふ。どうしたんだー?いきなりおセンチさんになったのかー?」 「違うよ。…思ったことを、口にしてみただけだよ」 「…不安になるようなこと言うなよ」 「べつに、一樹を不安にさせようとは思ってないよ。私が勝手に、ふっと不安になっただけ」 「はいはい。じゃあ、俺の許可無く勝手に不安になるな」 「無茶だよ」 「俺が傍にいるのに、不安になるな」 「分かってるよ、分かってるの、それくらい。それは分かるんだけど、ただ、一樹が傍にいなかったら、って考えてみただけ」 私は一樹のように強くはない。むしろ正反対だ。弱くてずるくて、すぐ挫けそうになる。だから時々、平気な顔で一樹の隣にいられる自分が嫌いになる。一樹みたいな眩しい人の隣に、お前みたいなのがいていいと思っているのかって。一樹に好きだって言われると、嬉しいのと同時に怖くもなる。お前といられて幸せだ、なんて言われると、私が与える幸せなんて、と思ってしまう。一樹は私といるせいで、私以外の人に与えられるはずだった幸せを知らずに過ごしているんじゃないか、と疑ってしまう。考えると、消えてしまいたくなって、でもそう思う度に、そんな私を救ってくれるのも一樹だった。 消えてしまいたいと言えば、そんなの許さないと叱ってくれる。私なんかが、と言えば、お前だからだ、と怒ってくれる。それだけで私はいつも生かされる。ここにいたいと思えてしまう。 「私ね、一樹がいなかったら、消えてしまいたいって思う夜を越える方法も、そんなときに欲しい言葉も、知らないままだったと思うよ。だからきっと、私、一樹がいなかったら、ここにいないと思うんだよ」 「…俺だけじゃない。きっと、俺以外にも、お前に消えてほしくないって思う奴はたくさんいる。もしも俺がお前と出会ってなかったら、そいつが俺の代わりに、お前を救い上げていただろう。そして、お前は俺じゃなくそいつの為に、ケーキを焼いていただろうな」 「……そういう、要らない正論でぶち壊すところが、きらい。そんな言葉べつに、嬉しくないよ」 「はは!安心しろ。可能性の話をしただけだよ。今、お前の傍にいるのは俺だ。あのケーキも、俺のため。だろ?それでいいじゃないか。俺はそれが嬉しいんだ」 私を抱きしめたまま、一樹が笑う。本当に、嬉しい事のように。幸せなことのように。いつもそうだ。そうやって笑い飛ばされると、不安がすぐに消えていく。たとえ消えてくれるのが一時的にだとしても、また不安になったときには、同じようにまた一樹が笑ってくれれば、いい。一樹が笑うと、「一樹がいなかったら」の世界なんてどこにもないんだって、思えるから。 「まあ、俺の言い方も悪かったな。俺がいなかったらあのケーキは作られていない、じゃなくて、俺がいるから、あのケーキは作られた。同じことだが、聞こえがいい。こっちのほうが」 「…そうだね。その理屈でいくと…、一樹がいなかったら私は…じゃなくて、一樹がいるから、私はここにいるんだね、って言ったほうがいいね」 「おう。よくできました」 ご褒美だとでも言うように、私を後ろから抱きしめたまま、首を捻って、一樹が私の頬にキスを落とす。なんだかくすぐったい気持ちになって、もう、って文句を言おうと振り返ったところに、今度は唇へキス。唇が離れてから、む、と睨むのに、きっと今私の顔は赤いから、睨んだってなんの迫力もないんだろう。だから一樹は笑う。ずるいくらい素敵な笑顔。だけど、すぐにふっと真面目な顔になって、声だって真剣なものになって、私を生かす言葉を紡ぐ。 「好きだよ。お前が大好きだ。俺はちゃんとお前の傍にいるから、なんにも心配すんな。俺に愛されていろ。俺を必要としてくれるお前が、俺は必要なんだ」 一樹は、優しいから。一樹の中の「必要とされたい」という気持ちに、誰かを必要としすぎる私は、浸けこんで、利用してしまっているんじゃないかって、たまに思う。こんなに、一樹という人間に、甘やかされていいのだろうかって思う。だけど、もしかしたら、甘やかされているんじゃなく、愛されているのかもしれない。そんなふうにも思う。私の頭を撫でる一樹の手が、ひどく優しいから。その目が、愛おしそうに細められたから。 「…あ!ケーキ!」 「うおっ!なんだよ、いきなり離れて」 「ばか!絶対もうしぼんじゃってる…」 「そうなのか?…まあ、匂い的には美味そうだし、気にすんな!」 「う〜、もう」 「あ、待て。熱いんじゃないか?俺が取り出す」 「いいです」 「駄目だ。俺がやる」 「…じゃあお願いします」 「おう!…いやしかし、…いい匂いだなあ」 キッチンには相変わらず焼き菓子のいい匂いが充満している。幸せそうに吸い込んで、ゆっくりと息を吐き出す一樹を見て、私も真似をする。ああ、うん、やっぱり、幸せのにおい。その匂いの出処を、一樹がそうっと開ける。ああ、焼きあがったらすぐに取り出して、トントンってして、空気抜かなきゃいけないんじゃなかったかなあ…。絶対、失敗してる予感がする。頬に手をあてて、はああ、と大きな大きな溜息吐いて、オーブンへ向かう一樹の背中を眺めた。 可愛らしい柄のミトンを付けた一樹が、オーブンの中から銀色のケーキの型を取り出し、中を覗きこんで、豪快に笑う。その声を聞いたらなんだか私も、それがうつったように笑えてしまった。溜息と一緒に逃げ出そうとした私の幸せが、キッチンの中の香りに溶け込んでいく。ああ、やっぱりこれって、幸せの匂いなんだよね。 (それにどれだけ救われたことか多分あなたは知らないな)//150306 |