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あの日はとても疲れていて、歩道橋の手すりをぐっと握りながら橋の下を見下ろして「ここから落ちてぐちゃってなって車に轢かれてさらにぐちゃってなったら死ぬのかなあ」とかぼんやり考えていて、でも私のぼんやりとした「死にたい」なんてただの「とりあえず死にたいって言っておかねえとやってけねえぜ」くらいの「死にたい」だから、べつに本気で身を乗り出そうとなんてしていなかったんだけど、突然後ろから勢い良く体を引っ張られて私はワケも分からず尻餅を付いた。誰かが私の腰を引っ掴んで手すりから引き剥がしたのだ。当然その勢いのまま私の背後の人間も一緒に尻餅をつくし、私はその人物を下敷きにしてお尻からぶっ倒れた形になり、下敷きになった誰かの「いってえ」という呻き声にぎくっとして慌てて体を離した。振り返ってその人物の顔を見る。同じくらいの歳の男だった。 それが私と不知火一樹の出会い。 お互いに強烈な出会いだったと思うけれど、「なんで飛び降りようとなんてしたんだ、何をそんなに思い詰めてるんだ、話なら聞いてやるから」とか初対面の相手に真摯に向き合う一樹は本当に不知火一樹らしかったなあと今では思う。けど当時の私にはぽかーんだった。だってべつにそんなつもりなかったし。いやほんのちょっと鬱々としていたかもしれないけど、どうせ一樹に止められなくたって、私はただ景色を見てそのまま帰っていたと思う。だっていつも死にたいなって思っても実際死ぬほどじゃなかったし。その日だってそうだったはずだ。だから一樹には私が今にも飛び降り自殺を図ろうとしている思いつめた女の子に見えたのだろうけど、そんなの余計な心配だったのだ。杞憂で終わる。けど私達はそれがきっかけで知り合った。なんやかんやと話す内に仲良くなって、その後も会うようになって、今じゃ大切なパートナーにまでなっている。私はもう一樹といると死にたいだなんて思うことは無くなっていって、ああ本当にあの日歩道橋にぼんやり立っててよかったなあ運命だったのだなあなんて思っちゃっているし、あの日の出会いのことをこうして今笑って一樹の友人に話せるくらいになっている。 「っていうわけでさあ、その時一樹は私が今にも自殺するんじゃないかーって、勘違いしちゃったみたいでね」 ここまで強烈な出会いだと話のネタには困らない。笑い話にしとかないと勿体無いくらいだ。私は一樹の友人の桜士郎にこの話をけらけら笑いながら身振り手振りで大袈裟に話していた。一樹に紹介されて知り合ったけれど、桜士郎とはすごく話が合って、今じゃ一樹無しでもこうやって二人で一緒にお茶をする仲だった。もちろんやましいことはないし、一樹は私のことも桜士郎のこともなんだかんだ信頼してくれているので、「今日桜士郎と二人でデートしてきたよ」なんて言っても笑ってくれている。桜士郎も多分私より一樹が大事だ。いや、一樹が大事にしている私をもちろん大事にしてくれているけれど。友人として付き合ってくれているのだと分かる。そんな桜士郎が、俺二人の馴れ初めよく知らないんだよねえ一樹に聞いても教えてくんないしさーなんて言うから、待ってましたと言わんばかりに私は話した。きっと一樹は出会いのあの時の自分の勘違いが恥ずかしくて周りに話していないんだろう。そう思って。桜士郎は、最初こそ、やんややんやと騒がしい相槌を打っていたけれど、途中からぱったりそれがなくなって、黙ったまま、私の目をじっと見ながら、聞いていた。そんな反応をされると思っていなかったので私は首を傾げる。笑ってほしかったタイミングで、まったく笑いは起きない。桜士郎はじっと押し黙っていて、ようやく口を開いた頃には、薄く、達観したような笑みを浮かべていて、余計に私は戸惑った。「ねえちゃん、俺、思うんだけどさ、多分一樹のそれは勘違いじゃないよ」言っている意味がよく分からなくて首を傾げた私に、桜士郎は少し迷うように視線を泳がせてから、やがてしっかりと前を見据えて、声に出した。 「一樹には視えたんだと思う。君が飛び降りる未来が。当時の君に自覚は無くても、一樹が止めなかったら、いつもはならなかったのに、その数秒後、君は本当に飛び降りてしまおうっていう気持ちになっていたんだ」 何を言われたのか頭が瞬時には理解してくれなかった。ただ、そういえば、と思い出した。一樹には未来をうっすら予知する力があるんだということ。出会った時のことを「一樹の勘違い」だと私が笑うたび、「そうだな、俺の勘違いだったな」って笑い返すその笑顔が、いつも嬉しそうで、ちょっとだけ泣きそうなこと。それを思い出した瞬間、私は桜士郎が目の前にいるのも構わずわあっと泣いた。悲しいんだかなんなんだか分からなかったけれど涙はどんどんどんどん溢れてきた。一樹のおかげで私はもう死にたいって思うこともなくなって人並みに幸せな毎日を生きていると思っていたけれど、もっと別の広い意味で本当の意味で私は一樹のおかげで生きていたのだ。一樹がいなかったら、出会っていなかったら、あの日私は本当にあの橋から身を乗り出してぐちゃってなってぐちゃぐちゃになっていたのだ。私は本当は自殺していたんだ。そういう未来だったんだ。そう考えると背筋がぞくっとして馬鹿みたいに怖かった。だけど怖いと思えることが幸せすぎて余計に泣けた。一樹が体を張ってその未来を変えたんだ。その事実にまたまた泣けた。今日桜士郎にそれを教えてもらわなかったら私は気付かないままで一生を終えていたのかもしれない。なんておめでたい幸せな奴だろう。ほんと幸せだ。一樹は私の幸せを願ってくれていたんだろう。だから「死のうとなんかしてませんよ」と私が首を傾げても、「いや、死のうとしてたよ。だってそういう未来が視えたから」なんて言わなかった。「そっかじゃあ俺の勘違いか」って笑ったんだ。そう思えるのならそれ以上幸せなことはないよって、笑ったんだ。 その後私はしばらく「一樹に会いたい」と泣きじゃくっていたようで、桜士郎は一樹に電話をして、「もうすぐ一樹来るからね」と私を慰めながら喫茶店の中で周囲の客の視線に耐えてくれていた。とても申し訳ないことをしたと思っているけれど後日お礼と謝罪をしたら「大丈夫変態は周囲の視線が突き刺さるの慣れてるから」と笑っていた。そんなこんなで私を引き取りに駆けつけた一樹は桜士郎にお礼を言って私の手を引いて喫茶店から出て、店先で桜士郎と別れると、私を連れて近所の公園に向かった。ベンチとブランコくらいしかない公園はすっかり寂れていて子供の姿はなかった。促されるままにベンチへ腰掛ける。泣き止まない私に何を言うわけでもなく一樹は隣に座って手を握っていた。やがて陽は落ちて、あたりは真っ暗になって、私の涙も枯れてきた頃、一樹が「星が綺麗だな」と呟いた。一樹も桜士郎も星に詳しい。そういう専門的な学校に通っていたのだという。私は一樹の言葉に、顔を上げて、空を見た。私は星の名前を知らない。指で線を書いて繋いでもなんの絵にも見えない。かろうじてオリオン座だけは分かるけど、一樹によると今はオリオン座の季節ではないらしい。 「一樹、私ね、あの日飛び降りようとした理由が分かったよ。死のうとした理由が分かった」 私は空を見上げたままにそう言った。隣の一樹が、視線を空から私に移したのが分かったけれど、私はそっちを見なかった。ただ、空を見上げていた。枯れたと思った涙がまたこみあげてきそうで、視界は滲み、星はあまりよく見えなかったけれど。 「一樹に会うためだったよ。一樹に救ってもらうために、きっと私、死のうとしなくちゃいけなかった。ただそれだけ」 ずいぶんと結果が前後する無茶な理屈だったけれど、本当にそう思えた。もしくはこうして一樹と星を見るため、だったかもしれないし、こうして一樹と手を繋ぐため、だったかもしれない。一樹は私の言葉に、「そうか」と小さい声で相槌を打った。すぐに、「ばかだな」とも続けた。「そうだね」って私も小さい声で言った。ようやく視線を一樹の方に移したとき、目が合って二人で同時にすこし笑った。なのにちょっとお互い泣きそうだった。それが馬鹿みたいに幸せで、私は余計に泣きたくってしょうがなかった。 |