戸惑いの指先、
「いらっしゃ」
「あ。前髪ある」

カゴを台に乗せるなりそう言った人物に、私は思わず途中だったいらっしゃいませを引っ込めて「うわっ」と口に出してしまった。顔を上げれば、そこには先日私に「前髪切ったら?」と言ってきた男がいた。出会い頭に「うわ」と言われるのはさすがに向こうも気分が良くは無いらしく、むっと眉を顰めながら「うわって何さ」と拗ねたように呟く。私はうぐっと言葉に詰まって、そのままそそくさとカゴを引っ張り寄せる。なんか、顔を見づらい。元から客の顔なんて見てないけど。なんだかいっきに頬の温度が上がった気がするけど、この恥ずかしさはどこからくるんでしょうか。いや、理由があるっちゃあるけど。

「この間の僕の言葉気にしてくれちゃったの?」
「……いえ、べつにそういうわけじゃ。たまたまです。前から切ろうと思ってたし。めんどくさくて切ってなかっただけですし」
「けど面倒だったのに切ろうって思ったことの理由の一つは僕の言葉だったりするよね」
「……」
「黙っちゃうってことは半分認めたようなものだよ。君って意外に素直だね〜」
「……(あ、また黙ってしまった)(けど返す言葉が浮かばない)」

今日の私は前髪をピンで留めていなかった。留めるほど長くないからだ。昨日、鏡の前でぐぬぬーと唸りながらも結局自分でじょきじょき切ってしまった。髪型に特にこだわりはない。ただ、前髪が伸びたら眉の位置あたりに合わせて自分で切る。伸びたらまた同じように切る。それの繰り返し。気づいたら前髪が伸びていて、切る時間を作るのが面倒でとりあえずピンで留めていたんだここ最近は。だけど切ってしまったので、まあ特にイメチェンというわけでもなく、前髪が伸びる前の私に戻っただけ。だけど、彼はその「以前の私」が可愛かったといったのだから、……うん?なんだかこの人の好みに合わせるために切ったみたいだな?あれ?断じてそんなことはない。

「うん。やっぱそっちのほうがいいな。僕は」
「…べつに、聞いてないですし」
「あはは、サービス悪〜い。せっかくかわいーって言ってんのにさ、こっちは」

サービスってなに。ぱあ〜っと笑顔を向けて「ありがとうございますぅ!」とお礼を言うのがここでいう「サービス」なんだろうか。うう、む。言ったほうがいいのかな。いや、向こうは別に深い意味があって可愛いなんて言ったわけじゃないし。私だってべつに、髪を切ったことに深い意味があったわけじゃないし。このひとの「サービス悪い」にだって特に深い意味は、ないのだ。だから私は、黙々とレジを打つ。

「……」
「……」
「…」
「顔が赤いよ。サン?」

持っていたキャベツが手から滑り落ちてドシンとカゴの中で落下した。「ちょっとちょっと〜、それ僕が買うヤツだよ!もっと丁寧に扱ってよ!」文句を言いつつも楽しげな声がすぐ目の前から聞こえるので、私は顔が上げられなくなる。「す、すみません…」と小声で謝りつつも動揺してキャベツの落下した面をさすさすと撫でる。だけどすぐにハッとして、赤く染まったままの顔を上げ、相手を睨む。びし、と人差し指を男の眼前に突き立てて、わっと喚く。

「名前っ!なんで知ってるんですか!!刑事だからって、なんかそういう、どっかからか仕入れた個人情報を、あ、悪用してるんじゃないですか!?」
「いや、君ジュネスの店員だよね?エプロンに名札ついてるよね?それ見ただけなんだけど」

私のうろたえっぷりに少し身を引きながらも、相手は自分の胸の部分をつんつんと示した。私は口をぱくぱくさせながら、相手の顔をしばらく見つめ、次に自分を見下ろした。エプロンの左胸部分には名前の書かれたプレートがついている。。そう書かれた名札。いや、名札というくらいだから名前が書いてあって当たり前なんだけど。私は押し黙り、やがて自分がずいぶん恥ずかしいことを言ったんだと悟り、ボッと顔が熱くなった。うわあ…うわああ…。顔から火が出そう、というのはこういうことだろうか。私は何事も無かった風を装って残った商品もぱっぱとレジを通し、合計金額を読み上げ、ぴしりときょーつけをし、相手がお金を出すのを待った。その白々しさに、ブフーッと奴は噴きだした。悔しい。しかし恥ずかしい。

「あっはは、君ってホントおもしろいねえ」
「……」
「そう客を睨まないの。はい、五千円からで」
「…ごせんえんおあずかりいたします」
「足立透」
「…はい?」
「ん?僕の名前ね。知りたそうだったから」
「…いや、べつに…」
「僕だけ知ってるのってなんかフェアじゃないでしょ。僕が君のストーカーみたいじゃん」
「……」
「何さ、その目は」
「べつに名前なんて、覚える気ないですし。明日になったらきっと忘れてますし。むしろ三秒後には忘れてますし」
「あぁそう?僕は君の名前明日になっても覚えてるけどね」
「……す、」
「ストーカーじゃないし。お釣りまだ?」

そう言われて、慌ててお釣りを用意する。都合のいいときだけお客さん面しやがって!くそう、くやしい!胸の中だけでブツブツ文句を言う。レシートを渡すときに、ほんのすこし指先が彼の手に触れて、なぜだか心臓が跳ねる。誤魔化すようにサッとすぐ手を引っ込めるけど、くくっと咬み殺すような笑い声がすぐ頭上から聞こえて、顔を上げる。愉快そうな顔がそこにある。睨んでみたけど、相手はへらりと笑うだけ。

「っていうかさ、君こそなんで僕が刑事だって知ってんの?調べたの?」
「花村…に聞きましたけど」
「あー、ジュネスの。悠くんの友達の。ふうん?調べたんだねー」
「いや、だからべつに調べたんじゃなくて聞いただけです」
「気になっちゃって訊いたんでしょ?花村くんに」
「ほ…ほんと都合のいい解釈しかしないあたまですね!」
「うんよく言われる〜」
「…お客さん来ちゃうんで早く行ってください」
「まだ並んでないよ。この時間そんな混まないでしょ」
「(次の客来るまで留まるつもりか!)あの、なんなんですか…なんで私に突っかかるんですか」
「ええ?べつに突っかかってないよ?ちょっかいは出してるけど」

やっぱりからかってるんじゃないか!いいようにされてるだけだ私!暇つぶしにからかわれているだけ!なんだこいつむかつく!ぎりぎりと歯ぎしりしながら睨む。けどやっぱり相手はへらへらしている。しばらく彼は適当に喋って、やがて「じゃあ、僕もう行くよ。お仕事お疲れ様でーす」とかるーく言って手を振りレジを離れていく。はあ、と溜息をついて、しぶしぶながらも「ありがとうございました」を口にしようとしたとき、ふと、トレイの上にちょこんと10円玉が乗っかっていることに気づく。…あれ?なんだろう、この10円。渡し忘れた?それとも相手が勝手に取り忘れただけ?んん?とりあえず、彼のものである可能性が高い気がする。あんなさらりとかっこつけて手を振って去っていったくせに忘れ物なんて、かっこわる!これはもう、からかわれた仕返しにドヤ顔で「10円忘れてますよ!」と言ってやるしかない。私はちょっとだけ意地悪くクックックと内心笑いながら、彼の背中に声をかける。

足立さん!10円忘れてますよ!」
「…っと、ごーめん。ありがと」

くるりとこちらを振り返った彼は、へらりと笑う。引き返してきて、右手をこちらに差し出してきたので、その手のひらの上に10円玉をのせた。私の顔を見る。その視線に気づいて、私も相手の顔を見た。よし、ここですかさずドヤ顔だ。そう思った直後、彼…足立さんは、鼻にかかる笑いを一つ漏らしながら、私にこう言った。 「なぁんだ、ちゃんと僕の名前覚えられるじゃない」

なにこれくやしい。
確信の口先