|
「だーからさぁ、君も学習しないよねえ。僕、頭悪い子は嫌いなんだけどなぁ」 何が起こっているのか、すぐには判断できなかった。先程まで私は足立さんの言葉を、俯いて、黙って聞いていたはず。私はじっと押し黙り、床とにらめっこを決め込んでいた。…けど、いきなりぐいと腕を掴まれて、痛い、と言う暇もなくそのあとすぐ、思い切り突き飛ばされた。…ああそう、突き飛ばされたのか。自分で記憶を辿ってみてようやく気がついた。お尻を打った。痛い。頭も痛い。打ったかな。見あげれば、足立さんが立っている。私のすぐ傍に立って、私を見下ろしている。足立さんの後ろにある電球がやけに眩しくて、足立さんの顔がよく見えない。だけど声から察するに、怒っている。言葉こそ軽く聞こえるけど、不機嫌な声はすぐ分かる。謝らなくちゃ。私は手をついて、よろよろと頭を起こそうとする。だけど、上半身が起き上がりかけたところで、足立さんはドミノ倒しの先頭をちょんと倒すような気軽さで、私の胸を蹴ってもう一度床に押し戻した。痛い。 「い、たいです。足立さん、痛い」 「…あーそう、うん、そりゃあ大変だね。僕も心が痛いよ」 芝居がかったような動作で肩を竦めてみせる足立さん。へらへらしているかとおもいきや、多分、冷たい顔で私を見下ろしている。なんとなく、分かった。もう一度起き上がろうと試みたところで、すかさず足立さんが「誰が起き上がっていいって言ったの?」と私に言った。声がひどく冷たくって、私は必死に閉じ込めておいた「怖い」という感情を思い出してしまいそうになる。息を呑む音が、自分の喉から聞こえる。私が起き上がるのを諦めたことを悟ったら、足立さんは少しだけ機嫌を直し、「そうそう、いいこだね」と優しく言って、私の上に馬乗りになった。 「それで?なんで僕との約束破ったの?寄り道しないで真っ直ぐ帰って来いって言ったのに。門限ぐらい守ろうよ〜、小学生だって出来るよ?これくらい」 「……はい」 「近頃物騒だしさ、僕は君が心配なの。この前も君、怪しい男に捕まってたじゃん」 「あれは…」 「それともそういう奴らに捕まりたくて夜ほっつき歩いてんの?」 「ちが、」 「僕が家で待ってるっていうのに?僕がいるのに?他の男が必要なんだ?」 「足立さん!私の話も少しは…っ」 乾いた音が部屋にやけに虚しく響く。遅れて、頬が熱くなった。少し遅れて気づく。いたい。痛い。じんじんする。私を見下ろす足立さんの顔が、汚いものでも見るみたいに、歪められた。「うるせえなぁ」吐き捨てられた言葉に、私は目の奥が熱くなるのを感じた。おかしい。いたい。胸のどっかが、一番痛い。 「信じてほしいならちゃんと態度で示せよ。僕のこと好きなら、他の男は要らない。要らないなら、僕の目の届く所にいればいい、帰りが遅くなる必要もない。…でしょ?」 きっかけは、私がたまたま道で中学の同級生と出会ったこと。軽く挨拶して、世間話して。足立さんは黙ってそれを横で聞いていたけど、家に着くなり「さっきの誰?なんであんなに馴れ馴れしく君に話しかけてたの?」と訊いてきた。私はわけがわからなくて、「中学の同級生だって言ってるじゃないですか」と苦笑いした。けど、そのあとは今日と同じ。床に突き飛ばされて、やけに君は楽しそうだっただとか、相手は君をとっても厭らしい目で見ていただとか、そんなことを言いながら――… 「この前みたいに痛いことされたいの?」 そうだ、「痛いこと」された。喉の奥がひくつく。声を出そうとしたのに出なくて、ひゅう、と音が鳴るだけだった。思い出さないようにしていたことが、必死に押し込めていたものが、一瞬で溢れだした。怖い。本当はすごくすごく怖い。「…まあ、もうどうでもいいんだけどさ。君が僕を好きだろうと、嫌いだろうと、どうでもいい。君の気持ちがどうであれ、君が僕のもんだってことは変わんないの」そこで言葉を一度区切って、鼻と鼻がくっつくくらいに顔を近づけて、ゆっくりと言い聞かせるように、「もう逃げられないよ」と私に囁いた。ぞっとするくらい、…やさしく?むなしく?つめたく?私の鼓膜に響いて、まとわりついて、離れない、その声。ニィ、と口元を愉快げに歪ませた彼を見た。ただそれだけなのに。目の前の光景は、恐ろしい怪物が、私をひとくちで飲み込もうと口を大きく開いた光景にすりかわる。(あ、喰われる) 世紀末パラノイア |